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今はまだ、何も知らない
しおりを挟む「最悪だっ。シマどころか金も……。このままじゃ、命もねぇよっ」
息を切らし、逃げ込んだ管理人室で、男は無数に積まれたダンボールから、注射器とバイアルを取り出した。
バイアルの液体を注射器で吸い上げる。ジーパンの裾を捲り、足首の血管に男は注射器を刺した。
足首には幾つも注射の痕がある。既に、何度もMDを使用しているのだろう。
男は、ジャケットの下に着たパーカーのフードを被っているが、顔付きの変化は横顔から確認出来る。
血管が浮き上がる。瞳孔が開き、男の目付きが変わる。それと同時に、窓から射し込む夕陽に照らされた皮膚が赤く腫れ出す。
——息使い荒く銃を構え、男はエントランスロビーに出た。
「苦し紛れにMDキメたのか? 逃げりゃいいのによぅ」
エントランスロビーの向かい側に羽月がいる。
逃げないのは、MDの副作用により攻撃的になっているからだ。当然、羽月は分かっている。
「ああ、これで俺は人を超えた。所詮人間止まりの軍人に、負ける訳ねぇ」
「あめぇよ——。ヤクに手ぇ出したなら、破滅しかない」
吸っていた短くなった煙草を、羽月は口から吐き捨てた。
それを合図に、男は銃を撃ちながら走り出す。
羽月の足下を目掛け、乱射する。
羽月も同時に走り出す。
胴体部を狙い、銃の狙いをずらす。
「ヤクさえ持ってりゃ、俺は何処にでも行けんだよっ!」
吠え、男は銃を乱射し、天井を撃つ。
複数の照明が割れる。天井部分の破片と共に飛散し、互いの視界を曇らせた。
「行けねぇよ。お前は破滅のゲートを開けたんだ——」
羽月は反対方向に反転し、銃弾を避けた。
片手を着き、低く構えてマシンピストルを一発撃つ。
羽月の撃った銃弾は、男の脳を正面から貫いた。
男が倒れる。
同時に、天井中央のシャンデリアが落ちた。
飛散するガラス片が、立ち上がる羽月の頬を一筋切っていく。
「おう。お見事ー」
拍手をしながら伊吹が、エントランスロビーに入って来た。
「もう終わったのか?」
銃を仕舞いながら羽月は問い掛ける。
「何か、見栄張ってただけだった」
「だからか。血液が渡されずに保管してあったのは……」
羽月の頭に、風俗店にあったボストンバックが浮かぶ。
「顔、切れてるよ」
伊吹は、自分の頬を指なぞって知らせた。
手で拭うように、羽月は頬に触れる。
「あっ、ごめん。返り血だったみたい」
伊吹は笑って誤魔化す。
血を拭った羽月の頬に、傷がなかったからだ。
「お前、ジャケット穴空いてるぞ」
馬鹿にした様に、羽月は指差して指摘する。
「えっ、ありゃー。マジだわ……。防刃つたって百パーじゃねぇわな」
ポケットの近くに空いた穴を確認し、伊吹は少々残念がった。
警察部隊が着ているスーツは、防刃加工がされている。支給されている物ではなく、自費購入である為、どこまで防刃にするかは個々の判断に任せられる。
「純魔界製でも合成でも、所詮服なんざ消耗品だからな」
そう言って、羽月は口から落とすように吐き捨てた煙草を拾い、取り出した携帯灰皿に捨てた。
「芹沢さんみたいに、高級スーツ買う気にならねぇよな。五十万でも五千円でも、同じ消耗品」
頭の後ろで手を組み、伊吹は軽々しく断言する。
「あれこそ、只の見栄張りだろ」
そう言い、羽月は薄く笑った。
この時、羽月は自身の身体に何が起きているか、全く分からなかった。
だが、間も無く知る時が訪れる——。
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