5回目の人生、転生したら死にそうな孤児でした

佐々木鴻

文字の大きさ
2 / 61
1巻

1-2

しおりを挟む
 ❖ ◇ ❖


 壁の内と外、つまりは市街と貧民街とでは明確な貧富ひんぷの差がある。貧民街の中であっても、そういった差は存在していた。
 貧民街では、街へ続く門の付近から離れるほど、貧しい者が住まうのである。
 理由は単純で、都市に到着してすぐの旅人は空腹にえ切れず、門の付近に並ぶ露店で手軽なものを買うからだ。このあたりには自然と食品を扱う屋台が並び、金銭が動く。
 空腹がたされ、時間に余裕のある旅人が次に何をするのかといえば……目ぼしい物がないか、露店を散策し始める。
 貧民街で暮らす者の中には、こうした屋台に交じり、商売をしている者がいた。
 五歳のナディもその一人。
 露店市の隅っこに、彼女は茣蓙ござを敷いて座っていた。物乞ものごいをしているわけではなく、ちゃんと売り物を並べて、である。
 過去の人生の記憶を取り戻し、ナディは常に魔法で身綺麗にするようになった。髪形に関しては相当手抜きだが。
 今やちょっとオシャレなネックレスをつけているほどなので、実はしょっちゅうかどわかされそうになっている。
 そのたびに例の自衛魔法セットが発動し、そういう輩をぶっ倒していた。
 ナディのネックレスは、魔結晶を五芒星を描いたネックレスヘッドに加工したものだ。そこに自衛魔法セットを付与しており、不届きなゴロツキの意識を刈り取り、漏れなく財布の中身を回収する仕様となっている。
 ちなみに、ネックレスヘッドに加工されている魔結晶一つ当たりの大きさは二ミリメートル程度。分かるヤツだけが価値に気付く。
 もっとも魔法で効果を隠蔽しているため、気付いた者は今のところゼロだ。
 ぶっ倒れたゴロツキは現金を抜かれたあと、その辺のヤツらに身包みを剝がされて放置され、警邏のお世話になっている。
 近隣住民も儲かるし警邏の業績も上がるしで、実に無駄のない経済循環だ。
 そうして悪党をホイホイしているおかげで、魔結晶を文字どおり売るほど持っているナディは、とりあえず露店に手を出したのだ。
 露店を出している子どもは、別にナディだけではない。
 さすがに五歳児なのは彼女一人だが、ともかく。
 子どもたちはその辺にある廃材や鉄屑をアクセサリーに加工したり、近くの森に行って薬草をんだりして売っている。
 中にはウサギなどを狩って丁寧にさばき、毛皮を売るという職人級の手際の良さを見せる子どもだっていた。
 屋台市を巡る行商人の中には、そうした逸材いつざいを見つけ、自らの弟子でしにする者もいる。そういった者でさえ、五歳の少女が商売をしている様子にはさすがにギョッとしていた。
 ナディが並べている商品――魔結晶は、一見するとただの石コロにしか見えない。そのため、「露店の真似事をしているんだなー」としか思われていないのが現状だ。

(魔力を固めただけのものだし、珍しくもないからなー。まぁ、こんなもんでしょ)

 やっぱり分かっていないナディである。
 一般的に出回っている魔結晶は鉱物で、純度はよくておおむね十%前後。それをえているものは、非常に希少きしょうだ。
 なお、ナディが茣蓙の上に無造作に転がしているそれらは、脅威きょういの純度百%。不純物が一切混じっていない。
 まぁ、魔力を吸収しぶん取って生成したのだから当たり前だが。
 そんな常識はずれの代物がこんな露店で正しく評価されるはずもなく、当然ながら売上は皆無であった。
 そもそも価値を理解していないナディはそれで困るわけでもなければ、落胆するわけでもない。
 夕方になって店じまいをし、いかにも落ち込んでいるかのようにうつむいて帰路きろにつくナディ。
 それを追うゴロツキども。
 ナディが路地裏に入ったのを確認して、彼らは一斉に襲いかかり……まとめて自衛魔法の餌食となった。
 そう、ナディが売れもしない露店を出している理由。それは自身の年齢と容姿を逆手さかてに取り、ゴロツキから金を巻き上げるためのき餌だった。思いのほかたくましいかせぎ方をする少女である。

「貯金がまた増えた。この歳じゃ、使いどころがないけど」

 独りちつつ、例のごとくゴロツキの所持金を根刮ぎ回収する。
 小銭こぜにがどんどん増えていくが、本人の言うとおり使いどころがない。せいぜい露店でちょっとした食べ物を買う程度だ。
 現在のナディの【収納ストレージ】には、なかなかな額の貯金があった。
 散乱した魔結晶と財布の中身を慣れた様子で回収し、彼女は茣蓙を抱えてねぐらである廃屋へ帰っていく。
 そしてその様子を、ナディのあとを追うゴロツキを尾行びこうしていた、貧民街の住人たちが見守っていた。彼女が路地をがって見えなくなると、物陰ものかげから飛び出し、気絶したゴロツキどもの身包みをやっぱり剝がし始める。
 今現在、ナディはこのあたりの住人たちの間で、ちょっとした有名人になっていた。
 可愛い見た目をして、襲いかかるゴロツキどもの意識をまとめてり取る『死の天使グリム・リーパー』、もしくは『引剥キャッシュ・ナッパー』……そんな二つ名で呼ばれ始めていることを、本人はまだ知らない。知りたくもないだろうが。


  ❖ ◇ ❖


 死にかけた拍子ひょうしにかつての記憶を取り戻し、ナディがチートに目覚めてから三ヶ月が過ぎた。
 ホイホイしまくったせいで不名誉ふめいよで中二病な異名がついていることなんて知りもせず、彼女は変わらない日々を過ごしている。
 その日、夕闇ゆうやみがあたりを包む中、ナディは懐が温まってホクホクしながらねぐらに帰り……呆然ぼうぜんとした。
 ねぐらの前に、質のいいさくら色のコットをまとった、全身が血と泥にまみれている若い女性が座り込んでいたからだ。
 明らかに面倒事である。それでもナディは、彼女を見捨てはしなかった。
 なぜなら、女性はまだ生後数日であろう赤子を大切に抱えているのだから。

「そう……子どもを守ったんだね。えらいわ」

 今にも息絶いきたえようとしている女性のかたわらに近寄り、ナディは血で濡れた白金髪を撫でる。
 そうされてやっとナディの存在に気付いたその人が、双眸そうぼううすく開いた。
 もはや何も映していないであろう翠瞳をこちらに向けて、女性はあえぐように声にならない呟きを漏らす。色を失った唇をわずかに引きめて、そのまま息絶えた。

「頑張ったんだね。本当に偉いわ」

 独白し、ナディは女性の腕の中にいた赤子を優しく抱きかかえた。なんといっても前世は子持ちだったので、抱き方はどうに入っている。
 それはさておき。
 見るからにワケアリな母子。おそらく女性は、何かから逃げてきたのだろう。
 彼女を血塗れにした原因は、確実に近くにいるはずだ。
 そしてそれは、すぐに姿を現した。
 ナディは横目で背後を確認する。
 夕闇から現れた、性別不詳な覆面姿の五人組。身のこなしや気配から、全員相当な実力者であることがうかがえた。
 死んだ女性は血と泥に汚れていたが、身にまとっていた衣服の質がよい。状況を鑑みるに、彼らは彼女と赤子を抹殺まっさつするために遣わされた刺客しかくだろう。
 この世界で命は軽い。貧民街では顕著けんちょで、一見はなやかである貴族社会では、それ以上に価値が軽い場合もある。
 彼女――この母子は貴族社会でのいざこざに巻き込まれたのは想像にかたくない。

「私はね、基本的に平和主義者パシフィスト博愛主義者フィランソロピストなのよ」

 語りかけるように、さとすようにそう告げるナディを前に、五人は互いに顔を見合わせてわずかに肩をふるわせた。
 きっと、「この幼女は何を言っているのだろう?」とでも思ったのだろう。
 今の自分の見た目はナディだって理解しているが、それでも続ける。

「ねぇ知ってる? 平和主義者パシフィスト博愛主義者フィランソロピストだって、平穏が壊されそうになったときは全力であらがうのよ」

 落ち着いた口調のまま続け、ナディは赤子を抱いたまま首だけひねって振り返る。
 視線はどこまでも冷たく、深淵から覗き見ているようだ。口元に薄く笑みを浮かべた冷淡な表情は、とても五歳児ができるものではない。
 果たして、覆面姿の五人は一斉にナディへと襲いかかり――

「【悪意禁令イービル・リミテーション】【虚偽封印ライ・リストリクション】【重呪法ヘヴィ・カース】【忘却オブリビアン】」

 ナディの魔法によって高速で構築された陣にからめ捕られ、瞬く間に意識を刈り取られた。
 彼女が重ねて構築した魔法。
 それは悪意を抱けないようにしたうえで虚言きょげんを吐けなくする、強力なのろいだ。おまけに、今の出来事を記憶から抹消まっしょうした。
 目覚めた彼らはこれから、聞かれたことに対してすべて自白してしまうだろう。それは隠密おんみつとして、そして暗殺者としての終わりを意味する。

「身の程知らずが」

 倒れた者たちへ最大級の侮蔑ぶべつを向け、ナディは再び魔法をとなえた。

「【魔力強奪マナ・ディプライヴ】【魔結晶生成クリエイト・マナクリスタル】【収集アセンブル】【収納ストレージ】」

 例のごとく、魔力を根刮ぎ奪い取って結晶化させて回収するのも忘れない。ナディにとってこの作業はルーチン化されていて、ほぼ無意識でやっている。
 ナディの家の前でぶっ倒れた、いかにも怪しい彼らは……ホイホイの御相伴ごしょうばんを狙っているであろう、貧民街の皆様が適切に処理してくれるはず。
 その後は警邏がいつもどおりに回収し、衛兵の詰め所行きだろう。
 そんな些事さじより、ナディにはすべきことがあった。

「【補修リペア】【状態保存プリザーベーション】」

 血に濡れて息絶えた女性に、修復と腐敗ふはい防止の魔法をかける。それが、最期まで我が子を守ろうとした母親への、はなむけであると考えたから。
 治癒魔法は死者には適用されない。【補修リペア】をかけたのは、せめて傷を消してあげようと思ってのことだ。
 かくして赤子を保護したナディだが、ここでやっと自分自身の年齢と境遇を思い出した。

「……どうしよう」

 無意識に天をあおぎ見る。いわゆる後悔先に立たずならぬ、後悔役立たずというヤツだ。
 まだ五歳であり、たよる者が誰もいない子どもが赤子を引き取っても、何もできない。よって赤子に対する最適解は、見て見ぬフリをすること。
 だが、ナディが取った選択は違った。

「【解析アナライズ】」

 まず赤子の状態を解析する。
 極度の飢餓きが状態にあり、体温が下がっていた。呼吸はしているものの弱々しく、このままでは夜が明ける前に死んでしまうだろう。
 このときナディの脳裏に、四度目の人生で早世そうせいした娘との記憶がフラッシュバックした。
 生まれたときから病弱であり、ふとしたきっかけで体調をくずしていた娘。
 すこやかに育つこともなく、わずか十六歳で早世した――初めての子ども。
 状況は違えども、一つ間違えれば、四度目の自分も赤子のうちに娘を亡くしていたかもしれない。

(この子は、私の娘だ)
「【気体操作コントロール・エア】【暖気ウォーム】」

 まず必要なのは体温。そう判断したナディは、ほぼ無意識に魔法を展開した。自身と赤子の周囲に空気のまくを形成して暖気で満たす。
 ひとまず、これで一時しのぎにはなるだろう。
 それから思考を整理して、一つの結論にいたった。

「ん? おや、ナディちゃん。どうしたんだ……んお!? なんだこの見るからにあやしいヤツら!?」

 すなわち、母乳ぼにゅうが出ないなら、出る人にお願いすればいいじゃない、と。

「おーい……ナディちゃん、何があった? ……って、聞いてねぇな。こりゃ」

 この近辺でそんな人がいる場所――

「いや知らないわよそんなこと! どうしろってのよ!」
「うわ! びっくりした……いきなりどうしたんだよ」

 思案にふけっていたナディは、セルフツッコミをしてようやくわれに返った。
 声がするほうを見上げれば、廃屋の斜向はすむかいの住人――オットがいる。
 どうやら彼はこれから出かけるようで、身綺麗な格好をしており、妙に浮かれているようだ。
 しかし、それにコメントする余裕よゆうが、今のナディにはない。

(乳幼児用のミルクってどこに売っているんだろう。哺乳瓶とかいろいろ用意しなきゃならないじゃない。一本じゃ足りないだろうし、最低でも三本は欲しいよね。いや、だからそれ以前にどこに売っているのよ!)

 赤子を養う決心を固めたものの、基本的な情報がないナディに、そうとは知らないオットが機嫌よく言う。

「それよりさ、聞いてくれよナディちゃん。オレのコレが子どもを生んだんだよ! これから会いに行くんだけど、土産みやげは何がいいかな? やっぱり精が付く食いもんとかかなぁ?」

 デレッデレのだらしない笑みを浮かべて、オットは小指を立てた。
 そして「土産はやっぱり肉か? 内臓系がいいとか聞いたけどな。そうだ、干して日持ちさせた果物とかもいいとかばあちゃんに昔聞いた気がする」などとウッキウキで続けている。
 話を聞き流し、ナディは取るものもとりあえず雑貨屋に向けて魔法で飛び立とうとした――が、あることに気付いてグリンと首を捻り、オットを見つめる。
 つい視線が先ほどの深淵から覗き込むようなものになったが、今はどうでもいい。

「今、誰が、何を生んだって?」
「おおう……どんな首してんだよナディちゃん。てか、なんて目で見るんだよ。オレ、なんかしちまったか?」

 どのような関節可動域かんせつかどういきをしているのか、角度にして百二十度くらい首を捻って振り返った様は軽くホラーであった。
 ナディの恐ろしげな視線もあいまって、目の当たりにしたオットは盛大に引いている。

「今それはいいから! 子どもを生んだの!? 誰が!?」
「ん? ああ、オレのコレだよ、コ・レ」

 再びデレッとした笑顔を見せるオットである。野郎のデレ顔などまったく興味がない。
 そんなことより、わずかに見えた希望に、ナディはすがった。

「お願い、その人のところに連れていって!」

 いつになく必死で、今にも泣き出しそうな様子のナディをいぶかしみ、オットは彼女をまじまじと見つめた。
 腕に抱かれている血塗れの産着うぶぎに包まれた赤子と、廃屋前に横たわった同じく血塗れの女性にも目を向けて、わずかばかりだが状況を理解する。
 オットは一つ頷いて、行こうとしていた場所を告げた。

「アガータってイイ女なんだが、色街に――」
「ありがとう、オットさん! じゃあ、行こっか! 【収納ストレージ】【抵抗消去イレイズ・レジスト】【振動消去イレイズ・オシレーション】【飛行アビエイション】【光速移動フラッシュ・ムーヴ】!」
「――いるから一緒に来るかって、ええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 お礼を言うが早いか、ナディは女性の亡骸なきがらを【収納ストレージ】にしまいつつ、オットの上着を鷲掴わしづかむ。
 ついで空気抵抗と振動を消去して飛行魔法でちゅうい上がり、高速移動を開始した。
 なお、【光速移動フラッシュ・ムーヴ】といっても本当に光の速さが出せるわけではない。それほどまでに速いのではないかという、比喩ひゆ的表現である。
 魔法を発動する際の呪文は、使い手が勝手に決めていい。曖昧な表現で術者じゅつしゃさえ理解していれば問題ないのだ。
 余談だがこの日、オットはヒト種として空を飛んだ、数少ない者のうちの一人となった。
 ナディの魔法を身をもって体験した……もとい被害に遭っちゃったオットは、ツッコむ機会をいっしたまま、超高速飛行を経験してしまう。
 そしてそれがあまりに衝撃的だったせいで、なんだかどうでもよくなってしまい、その体験を記憶から消去することにした。恐怖体験は忘れていたほうが幸せなのだ。
 ちなみに今回の【光速移動フラッシュ・ムーヴ】の最大飛行速度は、音速をちょっと超えるくらいである。
 幸いなことに、ナディが空気抵抗と振動を消去する魔法を重ねがけしていたおかげで、空気の壁をぶち破っても衝撃波は発生せず、通常のそれよりもさらに速かった。


  ❖ ◇ ❖


 オットの怪我の功名こうみょうか、はたまたデレの功名か……とにかく赤子は一命を取りめた。
 もっとも、衰弱すいじゃくしている赤子が一日二日で回復するはずもなく、しばらくあずけてやっと回復したのであるが。
 とうげを越えた赤子にレオノールと名付けたナディは、オットの恋人だという色街の住人――アガータの世話になっていた。
 ちょっと誇らしげにアガータを紹介するオットに対し、アガータは迷惑そうな視線を向けてコレ扱いを否定していたのだが……ナディは二人の事情についてはツッコまないことにした。
 アガータに邪険じゃけんにされたオットが、なぜかすごく嬉しそうだったのなんて、どうでもいいだろう。
 なお、「なぜレオノールと名付けたのか」と問われたナディは、「私が最初に生んだ子の名前がレオノールだったんだ」と、ツルッと口を滑らせた。
 レオノールというのは、四度目の人生でできた、早世した最初の娘の名前である。
 二人に訝しげな視線を向けられ、ナディは慌てて「子どもを生んだときに付けようと思っていた名前の間違い」と言ってごまかしたのだが、やっぱり五歳児にしてはありえない返答に、オットたちはさらに訝しんでいた。
 レオノールと名付けられた赤子の生みの親であろう女性は、こびりついた泥や血痕けっこんを落として丁寧に化粧けしょうほどこした。
 遺品として髪を一房ひとふさ切り、桜色のコットから純白の装束しょうぞくに着替えさせた後、丁重に埋葬まいそうしている。
 場所は街の一角――貴族街にある墓地だ。ここには訪れる者がいない墓が相当数あるため、こっそり埋葬しても意外とバレないのだ。
 貴族の中には没落ぼつらくする家がままあり、ゆえに墓守は訪れる者をこばまない。
 ナディとて、亡骸を無闇にここへ埋葬しに来たわけではない。きっと貴族令嬢だったであろう女性に最大の敬意を払うべく、この場所を選んだだけだ。
 埋葬は墓守の目を盗み、【認識阻害ヒドゥン】の魔法を展開して行った。五歳児が墓穴を掘っていたら、それだけで目立ってしまうから。
 特別製の墓碑に【母レオノルここに眠る】とめいきざむ。女性は素性すじょうを示すものを一切所持しておらず、名前すら分からない。
 ゆえにナディは、自身が名付けた赤子の名をもじってそうしるした。

(ごめんなさいね。いつか名前が分かったときには、銘を直すから。それまでは我慢がまんしてて)

 このときのナディの考えが、数年後ちょっとした騒動そうどうを起こすのだが……今はどうでもいい話だ。
 そうして女性を埋葬し、ナディはすっかり元気になったレオノールを預けている、アガータたちのもとへ戻ってきた。
 そして、「レオノールにおちちを分けてほしい」と改めて頼んだのだが――

「ま、あたしゃ構わないさ。一人も二人も同じだしね」

 アガータは豪快ごうかいに笑い、ナディの願いを快諾かいだくした。
 そんなアガータだが、顔色が悪くやつれており、あきらかに産後の肥立ひだちが悪い。
 それに……

(【解析アナライズ】)

 ナディがこっそり調べたところによると、アガータは肺病におかされていた。
 貧民街にある色街は不衛生ふえいせいで、常に埃が舞っている。食事も満足にとれない環境に置かれていたら、出産という大仕事を終えた彼女が体調を崩すのも仕方のないことだろう。

(【持続治癒デュレーション・キュアディジーズ】【遅緩再生リトル・リジェネレーション】【体力維持バイタリティ・メインテイン】)

 恩人おんじんであるアガータに少しでもお礼がしたくて、こっそり持続治癒魔法と遅緩再生魔法、ついでに体力維持魔法をかける。これで少しずつ病がやされ、体調も徐々によくなるだろう。一気によくなったら訝しがられるだろうし。
 あとは再び体調を崩さないよう、体力を維持させればいい。

(レバーとか食べてもらえばいいかな。鉄分の補充ほじゅうは大切だし。あとは果物を……ってか、レバーはともかく、果物って貧民街じゃそう売ってないじゃない。ドライフルーツでもいいのに! くぅ、世間知らずなこの身がうらめしいわ!)

 などと、先々のことまで考え、妙なところで我が身をかえりみる五歳児である。
 悩むナディに、自身の肺病が癒やされつつあることなど知りもしないアガータが真顔で言う。

「ナディ、頼みは聞いてあげてもいい。でも困ったことに、あたしにゃたくわえがそんなにないんだよ。だからレオノールに乳を分けろってんなら、アンタに相応の報酬を支払ってもらうよ」

 貧民街で生き残るためには、稼がなければならない。よって、報酬を要求するのは当たり前だ。
 相手が、たとえまだ幼児だったとしても。
 情にうったえても、そんなものは通用しないし価値もない。

「お、おいアガータ。いくらなんでもそれは――」

 やりとりを傍で見ていたオットが、思わず口を挟むが……

「黙れ宿六やどろく。アンタにゃ聞いてない。相手がガキでも知ったことか。覚悟もなしにガキをこさえたり、拾ったりするヤツがあたしゃ嫌いなんだよ。労働に対価が必要なのは当然だろうさ」

 即座に却下された。思わずシュンとするオットである。
 厳しいように見えるかもしれないが、アガータの意見は当然のことである。「なんとなく助けた」では、貧民街では本当に生きていけない。

「で、ナディはあたしに何をしてくれるんだい?」

 冷たい目で告げるアガータ。
 威圧いあつしているつもりはなく、当たり前のことを淡々と告げたにすぎない。
 だが、少なくとも子どもに対して取るべき態度ではないことは確かだ。
 その証拠に、傍で聞いているオットのほうがオロオロしている。

「私が出せる対価……」
「おおさ。あたしが納得できるヤツを寄こしてみな」

 アガータもおにではない。ここでナディがちょっとでも頑張る意思を見せれば、適当なところで折り合いを付けようと思っていた。
 果たして、ナディが提示したものは――

「銀貨三十枚。とりあえず一時金で」

 銀貨一枚は、地球で言うところの十万円程度の価値である。
 ここは貧民街。当然ながら簡単にお目にかかれる金額ではない。

「…………は?」

 予想外の提案に呆然とするアガータを見て、ナディは「不足している」と判断した。
 はるか斜め上の返事をしている自覚はない。

「じゃあ、追加で銀貨二十枚……これ以上はちょっと厳しいなぁ」

 さらにそんなことを追加で提案する。
 しかしアガータからの返答がないので、「やはり足りないか」と解釈し、両目を閉じて眉間みけんしわを寄せ、腕組みをしながら悩んだ。
 やがてナディは、妙案を思いついたとばかりに満面の笑みを浮かべる。仕草が完全に五歳児ではない。

「細かい硬貨こうかもあったほうがいいよね。じゃあ、銅貨と小銀貨も入れとくね。小鉄貨てっかや鉄貨、小銅貨はなくてもいい? こっちは私が使いたいから」

 利便性を考慮こうりょして、【収納ストレージ】から出した袋に小銭まで入ようとするナディ。ちょっと誇らしげだ。
 ちなみに貧民街での年収は、銀貨十枚あれば裕福ゆうふくなほうである。

「あれ? えーと、ちょっと待っておくれ……」
「どうしたの? アガータさん」
「いや『どうしたの?』って……どうかするねぇ。どうかしちゃうよねぇ。なんかこう……しょぱなから間違ってるよね?」

 そう。アガータとしては、貧民街で生きる厳しさと一時の優しさの代償を知ってもらい、そのうえで悲壮ひそうな覚悟を示してくれればよかったのだ。何もいきなり現金ゲンナマを出せという話ではない。
「あれ? あたしが間違ってる? 何かおかしなこと言っちゃったっけ?」と言いながら混乱しているアガータを安心させようと、ナディはすこぶるいい笑みを浮かべた。

「大丈夫! 私、ゴロツキとか悪徳あくとく奴隷商とか変態貴族とかを返りちにして、迷惑料を頂戴してるから!」
「いやいや分かんない分かんない、全然分かんない。何、ええ!? どういうこと!?」

 アガータはオットを見上げ、説明を求める。
 先ほどのやりとりで気落ちしていたオットは、たったそれだけで上機嫌になった。

しおりを挟む
感想 40

あなたにおすすめの小説

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

私が死んで満足ですか?

マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。 ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。 全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。 書籍化にともない本編を引き下げいたしました

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

継子いじめで糾弾されたけれど、義娘本人は離婚したら私についてくると言っています〜出戻り夫人の商売繁盛記〜

野生のイエネコ
恋愛
後妻として男爵家に嫁いだヴィオラは、継子いじめで糾弾され離婚を申し立てられた。 しかし当の義娘であるシャーロットは、親としてどうしようもない父よりも必要な教育を与えたヴィオラの味方。 義娘を連れて実家の商会に出戻ったヴィオラは、貴族での生活を通じて身につけた知恵で新しい服の開発をし、美形の義娘と息子は服飾モデルとして王都に流行の大旋風を引き起こす。 度々襲来してくる元夫の、借金の申込みやヨリを戻そうなどの言葉を躱しながら、事業に成功していくヴィオラ。 そんな中、伯爵家嫡男が、継子いじめの疑惑でヴィオラに近づいてきて? ※小説家になろうで「離婚したので幸せになります!〜出戻り夫人の商売繁盛記〜」として掲載しています。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。