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1巻
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❖ ◇ ❖
壁の内と外、つまりは市街と貧民街とでは明確な貧富の差がある。貧民街の中であっても、そういった差は存在していた。
貧民街では、街へ続く門の付近から離れるほど、貧しい者が住まうのである。
理由は単純で、都市に到着してすぐの旅人は空腹に耐え切れず、門の付近に並ぶ露店で手軽なものを買うからだ。このあたりには自然と食品を扱う屋台が並び、金銭が動く。
空腹が満たされ、時間に余裕のある旅人が次に何をするのかといえば……目ぼしい物がないか、露店を散策し始める。
貧民街で暮らす者の中には、こうした屋台に交じり、商売をしている者がいた。
五歳のナディもその一人。
露店市の隅っこに、彼女は茣蓙を敷いて座っていた。物乞いをしているわけではなく、ちゃんと売り物を並べて、である。
過去の人生の記憶を取り戻し、ナディは常に魔法で身綺麗にするようになった。髪形に関しては相当手抜きだが。
今やちょっとオシャレなネックレスをつけているほどなので、実はしょっちゅう拐かされそうになっている。
そのたびに例の自衛魔法セットが発動し、そういう輩をぶっ倒していた。
ナディのネックレスは、魔結晶を五芒星を描いたネックレスヘッドに加工したものだ。そこに自衛魔法セットを付与しており、不届きなゴロツキの意識を刈り取り、漏れなく財布の中身を回収する仕様となっている。
ちなみに、ネックレスヘッドに加工されている魔結晶一つ当たりの大きさは二ミリメートル程度。分かるヤツだけが価値に気付く。
もっとも魔法で効果を隠蔽しているため、気付いた者は今のところゼロだ。
ぶっ倒れたゴロツキは現金を抜かれたあと、その辺のヤツらに身包みを剝がされて放置され、警邏のお世話になっている。
近隣住民も儲かるし警邏の業績も上がるしで、実に無駄のない経済循環だ。
そうして悪党をホイホイしているおかげで、魔結晶を文字どおり売るほど持っているナディは、とりあえず露店に手を出したのだ。
露店を出している子どもは、別にナディだけではない。
さすがに五歳児なのは彼女一人だが、ともかく。
子どもたちはその辺にある廃材や鉄屑をアクセサリーに加工したり、近くの森に行って薬草を摘んだりして売っている。
中にはウサギなどを狩って丁寧にさばき、毛皮を売るという職人級の手際の良さを見せる子どもだっていた。
屋台市を巡る行商人の中には、そうした逸材を見つけ、自らの弟子にする者もいる。そういった者でさえ、五歳の少女が商売をしている様子にはさすがにギョッとしていた。
ナディが並べている商品――魔結晶は、一見するとただの石コロにしか見えない。そのため、「露店の真似事をしているんだなー」としか思われていないのが現状だ。
(魔力を固めただけのものだし、珍しくもないからなー。まぁ、こんなもんでしょ)
やっぱり分かっていないナディである。
一般的に出回っている魔結晶は鉱物で、純度はよくておおむね十%前後。それを超えているものは、非常に希少だ。
なお、ナディが茣蓙の上に無造作に転がしているそれらは、脅威の純度百%。不純物が一切混じっていない。
まぁ、魔力を吸収して生成したのだから当たり前だが。
そんな常識外れの代物がこんな露店で正しく評価されるはずもなく、当然ながら売上は皆無であった。
そもそも価値を理解していないナディはそれで困るわけでもなければ、落胆するわけでもない。
夕方になって店じまいをし、いかにも落ち込んでいるかのように俯いて帰路につくナディ。
それを追うゴロツキども。
ナディが路地裏に入ったのを確認して、彼らは一斉に襲いかかり……まとめて自衛魔法の餌食となった。
そう、ナディが売れもしない露店を出している理由。それは自身の年齢と容姿を逆手に取り、ゴロツキから金を巻き上げるための撒き餌だった。思いのほか逞しい稼ぎ方をする少女である。
「貯金がまた増えた。この歳じゃ、使いどころがないけど」
独り言ちつつ、例のごとくゴロツキの所持金を根刮ぎ回収する。
小銭がどんどん増えていくが、本人の言うとおり使いどころがない。せいぜい露店でちょっとした食べ物を買う程度だ。
現在のナディの【収納】には、なかなかな額の貯金があった。
散乱した魔結晶と財布の中身を慣れた様子で回収し、彼女は茣蓙を抱えてねぐらである廃屋へ帰っていく。
そしてその様子を、ナディのあとを追うゴロツキを尾行していた、貧民街の住人たちが見守っていた。彼女が路地を曲がって見えなくなると、物陰から飛び出し、気絶したゴロツキどもの身包みをやっぱり剝がし始める。
今現在、ナディはこのあたりの住人たちの間で、ちょっとした有名人になっていた。
可愛い見た目をして、襲いかかるゴロツキどもの意識をまとめて刈り取る『死の天使』、もしくは『引剥』……そんな二つ名で呼ばれ始めていることを、本人はまだ知らない。知りたくもないだろうが。
❖ ◇ ❖
死にかけた拍子にかつての記憶を取り戻し、ナディがチートに目覚めてから三ヶ月が過ぎた。
ホイホイしまくったせいで不名誉で中二病な異名がついていることなんて知りもせず、彼女は変わらない日々を過ごしている。
その日、夕闇があたりを包む中、ナディは懐が温まってホクホクしながらねぐらに帰り……呆然とした。
ねぐらの前に、質のいい桜色のコットをまとった、全身が血と泥に塗れている若い女性が座り込んでいたからだ。
明らかに面倒事である。それでもナディは、彼女を見捨てはしなかった。
なぜなら、女性はまだ生後数日であろう赤子を大切に抱えているのだから。
「そう……子どもを守ったんだね。偉いわ」
今にも息絶えようとしている女性の傍らに近寄り、ナディは血で濡れた白金髪を撫でる。
そうされてやっとナディの存在に気付いたその人が、双眸を薄く開いた。
もはや何も映していないであろう翠瞳をこちらに向けて、女性は喘ぐように声にならない呟きを漏らす。色を失った唇をわずかに引き締めて、そのまま息絶えた。
「頑張ったんだね。本当に偉いわ」
独白し、ナディは女性の腕の中にいた赤子を優しく抱きかかえた。なんといっても前世は子持ちだったので、抱き方は堂に入っている。
それはさておき。
見るからにワケアリな母子。おそらく女性は、何かから逃げてきたのだろう。
彼女を血塗れにした原因は、確実に近くにいるはずだ。
そしてそれは、すぐに姿を現した。
ナディは横目で背後を確認する。
夕闇から現れた、性別不詳な覆面姿の五人組。身のこなしや気配から、全員相当な実力者であることが窺えた。
死んだ女性は血と泥に汚れていたが、身にまとっていた衣服の質がよい。状況を鑑みるに、彼らは彼女と赤子を抹殺するために遣わされた刺客だろう。
この世界で命は軽い。貧民街では顕著で、一見華やかである貴族社会では、それ以上に価値が軽い場合もある。
彼女――この母子は貴族社会でのいざこざに巻き込まれたのは想像に難くない。
「私はね、基本的に平和主義者で博愛主義者なのよ」
語りかけるように、諭すようにそう告げるナディを前に、五人は互いに顔を見合わせてわずかに肩を震わせた。
きっと、「この幼女は何を言っているのだろう?」とでも思ったのだろう。
今の自分の見た目はナディだって理解しているが、それでも続ける。
「ねぇ知ってる? 平和主義者や博愛主義者だって、平穏が壊されそうになったときは全力で抗うのよ」
落ち着いた口調のまま続け、ナディは赤子を抱いたまま首だけ捻って振り返る。
視線はどこまでも冷たく、深淵から覗き見ているようだ。口元に薄く笑みを浮かべた冷淡な表情は、とても五歳児ができるものではない。
果たして、覆面姿の五人は一斉にナディへと襲いかかり――
「【悪意禁令】【虚偽封印】【重呪法】【忘却】」
ナディの魔法によって高速で構築された陣に絡め捕られ、瞬く間に意識を刈り取られた。
彼女が重ねて構築した魔法。
それは悪意を抱けないようにしたうえで虚言を吐けなくする、強力な呪いだ。おまけに、今の出来事を記憶から抹消した。
目覚めた彼らはこれから、聞かれたことに対してすべて自白してしまうだろう。それは隠密として、そして暗殺者としての終わりを意味する。
「身の程知らずが」
倒れた者たちへ最大級の侮蔑を向け、ナディは再び魔法を唱えた。
「【魔力強奪】【魔結晶生成】【収集】【収納】」
例のごとく、魔力を根刮ぎ奪い取って結晶化させて回収するのも忘れない。ナディにとってこの作業はルーチン化されていて、ほぼ無意識でやっている。
ナディの家の前でぶっ倒れた、いかにも怪しい彼らは……ホイホイの御相伴を狙っているであろう、貧民街の皆様が適切に処理してくれるはず。
その後は警邏がいつもどおりに回収し、衛兵の詰め所行きだろう。
そんな些事より、ナディにはすべきことがあった。
「【補修】【状態保存】」
血に濡れて息絶えた女性に、修復と腐敗防止の魔法をかける。それが、最期まで我が子を守ろうとした母親への、餞であると考えたから。
治癒魔法は死者には適用されない。【補修】をかけたのは、せめて傷を消してあげようと思ってのことだ。
かくして赤子を保護したナディだが、ここでやっと自分自身の年齢と境遇を思い出した。
「……どうしよう」
無意識に天を仰ぎ見る。いわゆる後悔先に立たずならぬ、後悔役立たずというヤツだ。
まだ五歳であり、頼る者が誰もいない子どもが赤子を引き取っても、何もできない。よって赤子に対する最適解は、見て見ぬフリをすること。
だが、ナディが取った選択は違った。
「【解析】」
まず赤子の状態を解析する。
極度の飢餓状態にあり、体温が下がっていた。呼吸はしているものの弱々しく、このままでは夜が明ける前に死んでしまうだろう。
このときナディの脳裏に、四度目の人生で早世した娘との記憶がフラッシュバックした。
生まれたときから病弱であり、ふとしたきっかけで体調を崩していた娘。
健やかに育つこともなく、わずか十六歳で早世した――初めての子ども。
状況は違えども、一つ間違えれば、四度目の自分も赤子のうちに娘を亡くしていたかもしれない。
(この子は、私の娘だ)
「【気体操作】【暖気】」
まず必要なのは体温。そう判断したナディは、ほぼ無意識に魔法を展開した。自身と赤子の周囲に空気の膜を形成して暖気で満たす。
ひとまず、これで一時しのぎにはなるだろう。
それから思考を整理して、一つの結論に至った。
「ん? おや、ナディちゃん。どうしたんだ……んお!? なんだこの見るからに怪しいヤツら!?」
すなわち、母乳が出ないなら、出る人にお願いすればいいじゃない、と。
「おーい……ナディちゃん、何があった? ……って、聞いてねぇな。こりゃ」
この近辺でそんな人がいる場所――
「いや知らないわよそんなこと! どうしろってのよ!」
「うわ! びっくりした……いきなりどうしたんだよ」
思案に耽っていたナディは、セルフツッコミをしてようやく我に返った。
声がするほうを見上げれば、廃屋の斜向かいの住人――オットがいる。
どうやら彼はこれから出かけるようで、身綺麗な格好をしており、妙に浮かれているようだ。
しかし、それにコメントする余裕が、今のナディにはない。
(乳幼児用のミルクってどこに売っているんだろう。哺乳瓶とかいろいろ用意しなきゃならないじゃない。一本じゃ足りないだろうし、最低でも三本は欲しいよね。いや、だからそれ以前にどこに売っているのよ!)
赤子を養う決心を固めたものの、基本的な情報がないナディに、そうとは知らないオットが機嫌よく言う。
「それよりさ、聞いてくれよナディちゃん。オレのコレが子どもを生んだんだよ! これから会いに行くんだけど、土産は何がいいかな? やっぱり精が付く食いもんとかかなぁ?」
デレッデレのだらしない笑みを浮かべて、オットは小指を立てた。
そして「土産はやっぱり肉か? 内臓系がいいとか聞いたけどな。そうだ、干して日持ちさせた果物とかもいいとか婆ちゃんに昔聞いた気がする」などとウッキウキで続けている。
話を聞き流し、ナディは取るものもとりあえず雑貨屋に向けて魔法で飛び立とうとした――が、あることに気付いてグリンと首を捻り、オットを見つめる。
つい視線が先ほどの深淵から覗き込むようなものになったが、今はどうでもいい。
「今、誰が、何を生んだって?」
「おおう……どんな首してんだよナディちゃん。てか、なんて目で見るんだよ。オレ、なんかしちまったか?」
どのような関節可動域をしているのか、角度にして百二十度くらい首を捻って振り返った様は軽くホラーであった。
ナディの恐ろしげな視線もあいまって、目の当たりにしたオットは盛大に引いている。
「今それはいいから! 子どもを生んだの!? 誰が!?」
「ん? ああ、オレのコレだよ、コ・レ」
再びデレッとした笑顔を見せるオットである。野郎のデレ顔などまったく興味がない。
そんなことより、わずかに見えた希望に、ナディは縋った。
「お願い、その人のところに連れていって!」
いつになく必死で、今にも泣き出しそうな様子のナディを訝しみ、オットは彼女をまじまじと見つめた。
腕に抱かれている血塗れの産着に包まれた赤子と、廃屋前に横たわった同じく血塗れの女性にも目を向けて、わずかばかりだが状況を理解する。
オットは一つ頷いて、行こうとしていた場所を告げた。
「アガータってイイ女なんだが、色街に――」
「ありがとう、オットさん! じゃあ、行こっか! 【収納】【抵抗消去】【振動消去】【飛行】【光速移動】!」
「――いるから一緒に来るかって、ええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
お礼を言うが早いか、ナディは女性の亡骸を【収納】にしまいつつ、オットの上着を鷲掴む。
ついで空気抵抗と振動を消去して飛行魔法で宙に舞い上がり、高速移動を開始した。
なお、【光速移動】といっても本当に光の速さが出せるわけではない。それほどまでに速いのではないかという、比喩的表現である。
魔法を発動する際の呪文は、使い手が勝手に決めていい。曖昧な表現で術者さえ理解していれば問題ないのだ。
余談だがこの日、オットはヒト種として空を飛んだ、数少ない者のうちの一人となった。
ナディの魔法を身をもって体験した……もとい被害に遭っちゃったオットは、ツッコむ機会を逸したまま、超高速飛行を経験してしまう。
そしてそれがあまりに衝撃的だったせいで、なんだかどうでもよくなってしまい、その体験を記憶から消去することにした。恐怖体験は忘れていたほうが幸せなのだ。
ちなみに今回の【光速移動】の最大飛行速度は、音速をちょっと超えるくらいである。
幸いなことに、ナディが空気抵抗と振動を消去する魔法を重ねがけしていたおかげで、空気の壁をぶち破っても衝撃波は発生せず、通常のそれよりもさらに速かった。
❖ ◇ ❖
オットの怪我の功名か、はたまたデレの功名か……とにかく赤子は一命を取り留めた。
もっとも、衰弱している赤子が一日二日で回復するはずもなく、しばらく預けてやっと回復したのであるが。
峠を越えた赤子にレオノールと名付けたナディは、オットの恋人だという色街の住人――アガータの世話になっていた。
ちょっと誇らしげにアガータを紹介するオットに対し、アガータは迷惑そうな視線を向けてコレ扱いを否定していたのだが……ナディは二人の事情についてはツッコまないことにした。
アガータに邪険にされたオットが、なぜかすごく嬉しそうだったのなんて、どうでもいいだろう。
なお、「なぜレオノールと名付けたのか」と問われたナディは、「私が最初に生んだ子の名前がレオノールだったんだ」と、ツルッと口を滑らせた。
レオノールというのは、四度目の人生でできた、早世した最初の娘の名前である。
二人に訝しげな視線を向けられ、ナディは慌てて「子どもを生んだときに付けようと思っていた名前の間違い」と言ってごまかしたのだが、やっぱり五歳児にしてはありえない返答に、オットたちはさらに訝しんでいた。
レオノールと名付けられた赤子の生みの親であろう女性は、こびりついた泥や血痕を落として丁寧に化粧を施した。
遺品として髪を一房切り、桜色のコットから純白の装束に着替えさせた後、丁重に埋葬している。
場所は街の一角――貴族街にある墓地だ。ここには訪れる者がいない墓が相当数あるため、こっそり埋葬しても意外とバレないのだ。
貴族の中には没落する家がままあり、ゆえに墓守は訪れる者を拒まない。
ナディとて、亡骸を無闇にここへ埋葬しに来たわけではない。きっと貴族令嬢だったであろう女性に最大の敬意を払うべく、この場所を選んだだけだ。
埋葬は墓守の目を盗み、【認識阻害】の魔法を展開して行った。五歳児が墓穴を掘っていたら、それだけで目立ってしまうから。
特別製の墓碑に【母レオノルここに眠る】と銘を刻む。女性は素性を示すものを一切所持しておらず、名前すら分からない。
ゆえにナディは、自身が名付けた赤子の名をもじってそう記した。
(ごめんなさいね。いつか名前が分かったときには、銘を直すから。それまでは我慢してて)
このときのナディの考えが、数年後ちょっとした騒動を起こすのだが……今はどうでもいい話だ。
そうして女性を埋葬し、ナディはすっかり元気になったレオノールを預けている、アガータたちのもとへ戻ってきた。
そして、「レオノールにお乳を分けてほしい」と改めて頼んだのだが――
「ま、あたしゃ構わないさ。一人も二人も同じだしね」
アガータは豪快に笑い、ナディの願いを快諾した。
そんなアガータだが、顔色が悪くやつれており、あきらかに産後の肥立ちが悪い。
それに……
(【解析】)
ナディがこっそり調べたところによると、アガータは肺病に侵されていた。
貧民街にある色街は不衛生で、常に埃が舞っている。食事も満足にとれない環境に置かれていたら、出産という大仕事を終えた彼女が体調を崩すのも仕方のないことだろう。
(【持続治癒】【遅緩再生】【体力維持】)
恩人であるアガータに少しでもお礼がしたくて、こっそり持続治癒魔法と遅緩再生魔法、ついでに体力維持魔法をかける。これで少しずつ病が癒やされ、体調も徐々によくなるだろう。一気によくなったら訝しがられるだろうし。
あとは再び体調を崩さないよう、体力を維持させればいい。
(レバーとか食べてもらえばいいかな。鉄分の補充は大切だし。あとは果物を……ってか、レバーはともかく、果物って貧民街じゃそう売ってないじゃない。ドライフルーツでもいいのに! くぅ、世間知らずなこの身が恨めしいわ!)
などと、先々のことまで考え、妙なところで我が身を省みる五歳児である。
悩むナディに、自身の肺病が癒やされつつあることなど知りもしないアガータが真顔で言う。
「ナディ、頼みは聞いてあげてもいい。でも困ったことに、あたしにゃ蓄えがそんなにないんだよ。だからレオノールに乳を分けろってんなら、アンタに相応の報酬を支払ってもらうよ」
貧民街で生き残るためには、稼がなければならない。よって、報酬を要求するのは当たり前だ。
相手が、たとえまだ幼児だったとしても。
情に訴えても、そんなものは通用しないし価値もない。
「お、おいアガータ。いくらなんでもそれは――」
やりとりを傍で見ていたオットが、思わず口を挟むが……
「黙れ宿六。アンタにゃ聞いてない。相手がガキでも知ったことか。覚悟もなしにガキをこさえたり、拾ったりするヤツがあたしゃ嫌いなんだよ。労働に対価が必要なのは当然だろうさ」
即座に却下された。思わずシュンとするオットである。
厳しいように見えるかもしれないが、アガータの意見は当然のことである。「なんとなく助けた」では、貧民街では本当に生きていけない。
「で、ナディはあたしに何をしてくれるんだい?」
冷たい目で告げるアガータ。
威圧しているつもりはなく、当たり前のことを淡々と告げたにすぎない。
だが、少なくとも子どもに対して取るべき態度ではないことは確かだ。
その証拠に、傍で聞いているオットのほうがオロオロしている。
「私が出せる対価……」
「おおさ。あたしが納得できるヤツを寄こしてみな」
アガータも鬼ではない。ここでナディがちょっとでも頑張る意思を見せれば、適当なところで折り合いを付けようと思っていた。
果たして、ナディが提示したものは――
「銀貨三十枚。とりあえず一時金で」
銀貨一枚は、地球で言うところの十万円程度の価値である。
ここは貧民街。当然ながら簡単にお目にかかれる金額ではない。
「…………は?」
予想外の提案に呆然とするアガータを見て、ナディは「不足している」と判断した。
はるか斜め上の返事をしている自覚はない。
「じゃあ、追加で銀貨二十枚……これ以上はちょっと厳しいなぁ」
さらにそんなことを追加で提案する。
しかしアガータからの返答がないので、「やはり足りないか」と解釈し、両目を閉じて眉間に皺を寄せ、腕組みをしながら悩んだ。
やがてナディは、妙案を思いついたとばかりに満面の笑みを浮かべる。仕草が完全に五歳児ではない。
「細かい硬貨もあったほうがいいよね。じゃあ、銅貨と小銀貨も入れとくね。小鉄貨や鉄貨、小銅貨はなくてもいい? こっちは私が使いたいから」
利便性を考慮して、【収納】から出した袋に小銭まで入ようとするナディ。ちょっと誇らしげだ。
ちなみに貧民街での年収は、銀貨十枚あれば裕福なほうである。
「あれ? えーと、ちょっと待っておくれ……」
「どうしたの? アガータさん」
「いや『どうしたの?』って……どうかするねぇ。どうかしちゃうよねぇ。なんかこう……初っ端から間違ってるよね?」
そう。アガータとしては、貧民街で生きる厳しさと一時の優しさの代償を知ってもらい、そのうえで悲壮な覚悟を示してくれればよかったのだ。何もいきなり現金を出せという話ではない。
「あれ? あたしが間違ってる? 何かおかしなこと言っちゃったっけ?」と言いながら混乱しているアガータを安心させようと、ナディはすこぶるいい笑みを浮かべた。
「大丈夫! 私、ゴロツキとか悪徳奴隷商とか変態貴族とかを返り討ちにして、迷惑料を頂戴してるから!」
「いやいや分かんない分かんない、全然分かんない。何、ええ!? どういうこと!?」
アガータはオットを見上げ、説明を求める。
先ほどのやりとりで気落ちしていたオットは、たったそれだけで上機嫌になった。
壁の内と外、つまりは市街と貧民街とでは明確な貧富の差がある。貧民街の中であっても、そういった差は存在していた。
貧民街では、街へ続く門の付近から離れるほど、貧しい者が住まうのである。
理由は単純で、都市に到着してすぐの旅人は空腹に耐え切れず、門の付近に並ぶ露店で手軽なものを買うからだ。このあたりには自然と食品を扱う屋台が並び、金銭が動く。
空腹が満たされ、時間に余裕のある旅人が次に何をするのかといえば……目ぼしい物がないか、露店を散策し始める。
貧民街で暮らす者の中には、こうした屋台に交じり、商売をしている者がいた。
五歳のナディもその一人。
露店市の隅っこに、彼女は茣蓙を敷いて座っていた。物乞いをしているわけではなく、ちゃんと売り物を並べて、である。
過去の人生の記憶を取り戻し、ナディは常に魔法で身綺麗にするようになった。髪形に関しては相当手抜きだが。
今やちょっとオシャレなネックレスをつけているほどなので、実はしょっちゅう拐かされそうになっている。
そのたびに例の自衛魔法セットが発動し、そういう輩をぶっ倒していた。
ナディのネックレスは、魔結晶を五芒星を描いたネックレスヘッドに加工したものだ。そこに自衛魔法セットを付与しており、不届きなゴロツキの意識を刈り取り、漏れなく財布の中身を回収する仕様となっている。
ちなみに、ネックレスヘッドに加工されている魔結晶一つ当たりの大きさは二ミリメートル程度。分かるヤツだけが価値に気付く。
もっとも魔法で効果を隠蔽しているため、気付いた者は今のところゼロだ。
ぶっ倒れたゴロツキは現金を抜かれたあと、その辺のヤツらに身包みを剝がされて放置され、警邏のお世話になっている。
近隣住民も儲かるし警邏の業績も上がるしで、実に無駄のない経済循環だ。
そうして悪党をホイホイしているおかげで、魔結晶を文字どおり売るほど持っているナディは、とりあえず露店に手を出したのだ。
露店を出している子どもは、別にナディだけではない。
さすがに五歳児なのは彼女一人だが、ともかく。
子どもたちはその辺にある廃材や鉄屑をアクセサリーに加工したり、近くの森に行って薬草を摘んだりして売っている。
中にはウサギなどを狩って丁寧にさばき、毛皮を売るという職人級の手際の良さを見せる子どもだっていた。
屋台市を巡る行商人の中には、そうした逸材を見つけ、自らの弟子にする者もいる。そういった者でさえ、五歳の少女が商売をしている様子にはさすがにギョッとしていた。
ナディが並べている商品――魔結晶は、一見するとただの石コロにしか見えない。そのため、「露店の真似事をしているんだなー」としか思われていないのが現状だ。
(魔力を固めただけのものだし、珍しくもないからなー。まぁ、こんなもんでしょ)
やっぱり分かっていないナディである。
一般的に出回っている魔結晶は鉱物で、純度はよくておおむね十%前後。それを超えているものは、非常に希少だ。
なお、ナディが茣蓙の上に無造作に転がしているそれらは、脅威の純度百%。不純物が一切混じっていない。
まぁ、魔力を吸収して生成したのだから当たり前だが。
そんな常識外れの代物がこんな露店で正しく評価されるはずもなく、当然ながら売上は皆無であった。
そもそも価値を理解していないナディはそれで困るわけでもなければ、落胆するわけでもない。
夕方になって店じまいをし、いかにも落ち込んでいるかのように俯いて帰路につくナディ。
それを追うゴロツキども。
ナディが路地裏に入ったのを確認して、彼らは一斉に襲いかかり……まとめて自衛魔法の餌食となった。
そう、ナディが売れもしない露店を出している理由。それは自身の年齢と容姿を逆手に取り、ゴロツキから金を巻き上げるための撒き餌だった。思いのほか逞しい稼ぎ方をする少女である。
「貯金がまた増えた。この歳じゃ、使いどころがないけど」
独り言ちつつ、例のごとくゴロツキの所持金を根刮ぎ回収する。
小銭がどんどん増えていくが、本人の言うとおり使いどころがない。せいぜい露店でちょっとした食べ物を買う程度だ。
現在のナディの【収納】には、なかなかな額の貯金があった。
散乱した魔結晶と財布の中身を慣れた様子で回収し、彼女は茣蓙を抱えてねぐらである廃屋へ帰っていく。
そしてその様子を、ナディのあとを追うゴロツキを尾行していた、貧民街の住人たちが見守っていた。彼女が路地を曲がって見えなくなると、物陰から飛び出し、気絶したゴロツキどもの身包みをやっぱり剝がし始める。
今現在、ナディはこのあたりの住人たちの間で、ちょっとした有名人になっていた。
可愛い見た目をして、襲いかかるゴロツキどもの意識をまとめて刈り取る『死の天使』、もしくは『引剥』……そんな二つ名で呼ばれ始めていることを、本人はまだ知らない。知りたくもないだろうが。
❖ ◇ ❖
死にかけた拍子にかつての記憶を取り戻し、ナディがチートに目覚めてから三ヶ月が過ぎた。
ホイホイしまくったせいで不名誉で中二病な異名がついていることなんて知りもせず、彼女は変わらない日々を過ごしている。
その日、夕闇があたりを包む中、ナディは懐が温まってホクホクしながらねぐらに帰り……呆然とした。
ねぐらの前に、質のいい桜色のコットをまとった、全身が血と泥に塗れている若い女性が座り込んでいたからだ。
明らかに面倒事である。それでもナディは、彼女を見捨てはしなかった。
なぜなら、女性はまだ生後数日であろう赤子を大切に抱えているのだから。
「そう……子どもを守ったんだね。偉いわ」
今にも息絶えようとしている女性の傍らに近寄り、ナディは血で濡れた白金髪を撫でる。
そうされてやっとナディの存在に気付いたその人が、双眸を薄く開いた。
もはや何も映していないであろう翠瞳をこちらに向けて、女性は喘ぐように声にならない呟きを漏らす。色を失った唇をわずかに引き締めて、そのまま息絶えた。
「頑張ったんだね。本当に偉いわ」
独白し、ナディは女性の腕の中にいた赤子を優しく抱きかかえた。なんといっても前世は子持ちだったので、抱き方は堂に入っている。
それはさておき。
見るからにワケアリな母子。おそらく女性は、何かから逃げてきたのだろう。
彼女を血塗れにした原因は、確実に近くにいるはずだ。
そしてそれは、すぐに姿を現した。
ナディは横目で背後を確認する。
夕闇から現れた、性別不詳な覆面姿の五人組。身のこなしや気配から、全員相当な実力者であることが窺えた。
死んだ女性は血と泥に汚れていたが、身にまとっていた衣服の質がよい。状況を鑑みるに、彼らは彼女と赤子を抹殺するために遣わされた刺客だろう。
この世界で命は軽い。貧民街では顕著で、一見華やかである貴族社会では、それ以上に価値が軽い場合もある。
彼女――この母子は貴族社会でのいざこざに巻き込まれたのは想像に難くない。
「私はね、基本的に平和主義者で博愛主義者なのよ」
語りかけるように、諭すようにそう告げるナディを前に、五人は互いに顔を見合わせてわずかに肩を震わせた。
きっと、「この幼女は何を言っているのだろう?」とでも思ったのだろう。
今の自分の見た目はナディだって理解しているが、それでも続ける。
「ねぇ知ってる? 平和主義者や博愛主義者だって、平穏が壊されそうになったときは全力で抗うのよ」
落ち着いた口調のまま続け、ナディは赤子を抱いたまま首だけ捻って振り返る。
視線はどこまでも冷たく、深淵から覗き見ているようだ。口元に薄く笑みを浮かべた冷淡な表情は、とても五歳児ができるものではない。
果たして、覆面姿の五人は一斉にナディへと襲いかかり――
「【悪意禁令】【虚偽封印】【重呪法】【忘却】」
ナディの魔法によって高速で構築された陣に絡め捕られ、瞬く間に意識を刈り取られた。
彼女が重ねて構築した魔法。
それは悪意を抱けないようにしたうえで虚言を吐けなくする、強力な呪いだ。おまけに、今の出来事を記憶から抹消した。
目覚めた彼らはこれから、聞かれたことに対してすべて自白してしまうだろう。それは隠密として、そして暗殺者としての終わりを意味する。
「身の程知らずが」
倒れた者たちへ最大級の侮蔑を向け、ナディは再び魔法を唱えた。
「【魔力強奪】【魔結晶生成】【収集】【収納】」
例のごとく、魔力を根刮ぎ奪い取って結晶化させて回収するのも忘れない。ナディにとってこの作業はルーチン化されていて、ほぼ無意識でやっている。
ナディの家の前でぶっ倒れた、いかにも怪しい彼らは……ホイホイの御相伴を狙っているであろう、貧民街の皆様が適切に処理してくれるはず。
その後は警邏がいつもどおりに回収し、衛兵の詰め所行きだろう。
そんな些事より、ナディにはすべきことがあった。
「【補修】【状態保存】」
血に濡れて息絶えた女性に、修復と腐敗防止の魔法をかける。それが、最期まで我が子を守ろうとした母親への、餞であると考えたから。
治癒魔法は死者には適用されない。【補修】をかけたのは、せめて傷を消してあげようと思ってのことだ。
かくして赤子を保護したナディだが、ここでやっと自分自身の年齢と境遇を思い出した。
「……どうしよう」
無意識に天を仰ぎ見る。いわゆる後悔先に立たずならぬ、後悔役立たずというヤツだ。
まだ五歳であり、頼る者が誰もいない子どもが赤子を引き取っても、何もできない。よって赤子に対する最適解は、見て見ぬフリをすること。
だが、ナディが取った選択は違った。
「【解析】」
まず赤子の状態を解析する。
極度の飢餓状態にあり、体温が下がっていた。呼吸はしているものの弱々しく、このままでは夜が明ける前に死んでしまうだろう。
このときナディの脳裏に、四度目の人生で早世した娘との記憶がフラッシュバックした。
生まれたときから病弱であり、ふとしたきっかけで体調を崩していた娘。
健やかに育つこともなく、わずか十六歳で早世した――初めての子ども。
状況は違えども、一つ間違えれば、四度目の自分も赤子のうちに娘を亡くしていたかもしれない。
(この子は、私の娘だ)
「【気体操作】【暖気】」
まず必要なのは体温。そう判断したナディは、ほぼ無意識に魔法を展開した。自身と赤子の周囲に空気の膜を形成して暖気で満たす。
ひとまず、これで一時しのぎにはなるだろう。
それから思考を整理して、一つの結論に至った。
「ん? おや、ナディちゃん。どうしたんだ……んお!? なんだこの見るからに怪しいヤツら!?」
すなわち、母乳が出ないなら、出る人にお願いすればいいじゃない、と。
「おーい……ナディちゃん、何があった? ……って、聞いてねぇな。こりゃ」
この近辺でそんな人がいる場所――
「いや知らないわよそんなこと! どうしろってのよ!」
「うわ! びっくりした……いきなりどうしたんだよ」
思案に耽っていたナディは、セルフツッコミをしてようやく我に返った。
声がするほうを見上げれば、廃屋の斜向かいの住人――オットがいる。
どうやら彼はこれから出かけるようで、身綺麗な格好をしており、妙に浮かれているようだ。
しかし、それにコメントする余裕が、今のナディにはない。
(乳幼児用のミルクってどこに売っているんだろう。哺乳瓶とかいろいろ用意しなきゃならないじゃない。一本じゃ足りないだろうし、最低でも三本は欲しいよね。いや、だからそれ以前にどこに売っているのよ!)
赤子を養う決心を固めたものの、基本的な情報がないナディに、そうとは知らないオットが機嫌よく言う。
「それよりさ、聞いてくれよナディちゃん。オレのコレが子どもを生んだんだよ! これから会いに行くんだけど、土産は何がいいかな? やっぱり精が付く食いもんとかかなぁ?」
デレッデレのだらしない笑みを浮かべて、オットは小指を立てた。
そして「土産はやっぱり肉か? 内臓系がいいとか聞いたけどな。そうだ、干して日持ちさせた果物とかもいいとか婆ちゃんに昔聞いた気がする」などとウッキウキで続けている。
話を聞き流し、ナディは取るものもとりあえず雑貨屋に向けて魔法で飛び立とうとした――が、あることに気付いてグリンと首を捻り、オットを見つめる。
つい視線が先ほどの深淵から覗き込むようなものになったが、今はどうでもいい。
「今、誰が、何を生んだって?」
「おおう……どんな首してんだよナディちゃん。てか、なんて目で見るんだよ。オレ、なんかしちまったか?」
どのような関節可動域をしているのか、角度にして百二十度くらい首を捻って振り返った様は軽くホラーであった。
ナディの恐ろしげな視線もあいまって、目の当たりにしたオットは盛大に引いている。
「今それはいいから! 子どもを生んだの!? 誰が!?」
「ん? ああ、オレのコレだよ、コ・レ」
再びデレッとした笑顔を見せるオットである。野郎のデレ顔などまったく興味がない。
そんなことより、わずかに見えた希望に、ナディは縋った。
「お願い、その人のところに連れていって!」
いつになく必死で、今にも泣き出しそうな様子のナディを訝しみ、オットは彼女をまじまじと見つめた。
腕に抱かれている血塗れの産着に包まれた赤子と、廃屋前に横たわった同じく血塗れの女性にも目を向けて、わずかばかりだが状況を理解する。
オットは一つ頷いて、行こうとしていた場所を告げた。
「アガータってイイ女なんだが、色街に――」
「ありがとう、オットさん! じゃあ、行こっか! 【収納】【抵抗消去】【振動消去】【飛行】【光速移動】!」
「――いるから一緒に来るかって、ええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
お礼を言うが早いか、ナディは女性の亡骸を【収納】にしまいつつ、オットの上着を鷲掴む。
ついで空気抵抗と振動を消去して飛行魔法で宙に舞い上がり、高速移動を開始した。
なお、【光速移動】といっても本当に光の速さが出せるわけではない。それほどまでに速いのではないかという、比喩的表現である。
魔法を発動する際の呪文は、使い手が勝手に決めていい。曖昧な表現で術者さえ理解していれば問題ないのだ。
余談だがこの日、オットはヒト種として空を飛んだ、数少ない者のうちの一人となった。
ナディの魔法を身をもって体験した……もとい被害に遭っちゃったオットは、ツッコむ機会を逸したまま、超高速飛行を経験してしまう。
そしてそれがあまりに衝撃的だったせいで、なんだかどうでもよくなってしまい、その体験を記憶から消去することにした。恐怖体験は忘れていたほうが幸せなのだ。
ちなみに今回の【光速移動】の最大飛行速度は、音速をちょっと超えるくらいである。
幸いなことに、ナディが空気抵抗と振動を消去する魔法を重ねがけしていたおかげで、空気の壁をぶち破っても衝撃波は発生せず、通常のそれよりもさらに速かった。
❖ ◇ ❖
オットの怪我の功名か、はたまたデレの功名か……とにかく赤子は一命を取り留めた。
もっとも、衰弱している赤子が一日二日で回復するはずもなく、しばらく預けてやっと回復したのであるが。
峠を越えた赤子にレオノールと名付けたナディは、オットの恋人だという色街の住人――アガータの世話になっていた。
ちょっと誇らしげにアガータを紹介するオットに対し、アガータは迷惑そうな視線を向けてコレ扱いを否定していたのだが……ナディは二人の事情についてはツッコまないことにした。
アガータに邪険にされたオットが、なぜかすごく嬉しそうだったのなんて、どうでもいいだろう。
なお、「なぜレオノールと名付けたのか」と問われたナディは、「私が最初に生んだ子の名前がレオノールだったんだ」と、ツルッと口を滑らせた。
レオノールというのは、四度目の人生でできた、早世した最初の娘の名前である。
二人に訝しげな視線を向けられ、ナディは慌てて「子どもを生んだときに付けようと思っていた名前の間違い」と言ってごまかしたのだが、やっぱり五歳児にしてはありえない返答に、オットたちはさらに訝しんでいた。
レオノールと名付けられた赤子の生みの親であろう女性は、こびりついた泥や血痕を落として丁寧に化粧を施した。
遺品として髪を一房切り、桜色のコットから純白の装束に着替えさせた後、丁重に埋葬している。
場所は街の一角――貴族街にある墓地だ。ここには訪れる者がいない墓が相当数あるため、こっそり埋葬しても意外とバレないのだ。
貴族の中には没落する家がままあり、ゆえに墓守は訪れる者を拒まない。
ナディとて、亡骸を無闇にここへ埋葬しに来たわけではない。きっと貴族令嬢だったであろう女性に最大の敬意を払うべく、この場所を選んだだけだ。
埋葬は墓守の目を盗み、【認識阻害】の魔法を展開して行った。五歳児が墓穴を掘っていたら、それだけで目立ってしまうから。
特別製の墓碑に【母レオノルここに眠る】と銘を刻む。女性は素性を示すものを一切所持しておらず、名前すら分からない。
ゆえにナディは、自身が名付けた赤子の名をもじってそう記した。
(ごめんなさいね。いつか名前が分かったときには、銘を直すから。それまでは我慢してて)
このときのナディの考えが、数年後ちょっとした騒動を起こすのだが……今はどうでもいい話だ。
そうして女性を埋葬し、ナディはすっかり元気になったレオノールを預けている、アガータたちのもとへ戻ってきた。
そして、「レオノールにお乳を分けてほしい」と改めて頼んだのだが――
「ま、あたしゃ構わないさ。一人も二人も同じだしね」
アガータは豪快に笑い、ナディの願いを快諾した。
そんなアガータだが、顔色が悪くやつれており、あきらかに産後の肥立ちが悪い。
それに……
(【解析】)
ナディがこっそり調べたところによると、アガータは肺病に侵されていた。
貧民街にある色街は不衛生で、常に埃が舞っている。食事も満足にとれない環境に置かれていたら、出産という大仕事を終えた彼女が体調を崩すのも仕方のないことだろう。
(【持続治癒】【遅緩再生】【体力維持】)
恩人であるアガータに少しでもお礼がしたくて、こっそり持続治癒魔法と遅緩再生魔法、ついでに体力維持魔法をかける。これで少しずつ病が癒やされ、体調も徐々によくなるだろう。一気によくなったら訝しがられるだろうし。
あとは再び体調を崩さないよう、体力を維持させればいい。
(レバーとか食べてもらえばいいかな。鉄分の補充は大切だし。あとは果物を……ってか、レバーはともかく、果物って貧民街じゃそう売ってないじゃない。ドライフルーツでもいいのに! くぅ、世間知らずなこの身が恨めしいわ!)
などと、先々のことまで考え、妙なところで我が身を省みる五歳児である。
悩むナディに、自身の肺病が癒やされつつあることなど知りもしないアガータが真顔で言う。
「ナディ、頼みは聞いてあげてもいい。でも困ったことに、あたしにゃ蓄えがそんなにないんだよ。だからレオノールに乳を分けろってんなら、アンタに相応の報酬を支払ってもらうよ」
貧民街で生き残るためには、稼がなければならない。よって、報酬を要求するのは当たり前だ。
相手が、たとえまだ幼児だったとしても。
情に訴えても、そんなものは通用しないし価値もない。
「お、おいアガータ。いくらなんでもそれは――」
やりとりを傍で見ていたオットが、思わず口を挟むが……
「黙れ宿六。アンタにゃ聞いてない。相手がガキでも知ったことか。覚悟もなしにガキをこさえたり、拾ったりするヤツがあたしゃ嫌いなんだよ。労働に対価が必要なのは当然だろうさ」
即座に却下された。思わずシュンとするオットである。
厳しいように見えるかもしれないが、アガータの意見は当然のことである。「なんとなく助けた」では、貧民街では本当に生きていけない。
「で、ナディはあたしに何をしてくれるんだい?」
冷たい目で告げるアガータ。
威圧しているつもりはなく、当たり前のことを淡々と告げたにすぎない。
だが、少なくとも子どもに対して取るべき態度ではないことは確かだ。
その証拠に、傍で聞いているオットのほうがオロオロしている。
「私が出せる対価……」
「おおさ。あたしが納得できるヤツを寄こしてみな」
アガータも鬼ではない。ここでナディがちょっとでも頑張る意思を見せれば、適当なところで折り合いを付けようと思っていた。
果たして、ナディが提示したものは――
「銀貨三十枚。とりあえず一時金で」
銀貨一枚は、地球で言うところの十万円程度の価値である。
ここは貧民街。当然ながら簡単にお目にかかれる金額ではない。
「…………は?」
予想外の提案に呆然とするアガータを見て、ナディは「不足している」と判断した。
はるか斜め上の返事をしている自覚はない。
「じゃあ、追加で銀貨二十枚……これ以上はちょっと厳しいなぁ」
さらにそんなことを追加で提案する。
しかしアガータからの返答がないので、「やはり足りないか」と解釈し、両目を閉じて眉間に皺を寄せ、腕組みをしながら悩んだ。
やがてナディは、妙案を思いついたとばかりに満面の笑みを浮かべる。仕草が完全に五歳児ではない。
「細かい硬貨もあったほうがいいよね。じゃあ、銅貨と小銀貨も入れとくね。小鉄貨や鉄貨、小銅貨はなくてもいい? こっちは私が使いたいから」
利便性を考慮して、【収納】から出した袋に小銭まで入ようとするナディ。ちょっと誇らしげだ。
ちなみに貧民街での年収は、銀貨十枚あれば裕福なほうである。
「あれ? えーと、ちょっと待っておくれ……」
「どうしたの? アガータさん」
「いや『どうしたの?』って……どうかするねぇ。どうかしちゃうよねぇ。なんかこう……初っ端から間違ってるよね?」
そう。アガータとしては、貧民街で生きる厳しさと一時の優しさの代償を知ってもらい、そのうえで悲壮な覚悟を示してくれればよかったのだ。何もいきなり現金を出せという話ではない。
「あれ? あたしが間違ってる? 何かおかしなこと言っちゃったっけ?」と言いながら混乱しているアガータを安心させようと、ナディはすこぶるいい笑みを浮かべた。
「大丈夫! 私、ゴロツキとか悪徳奴隷商とか変態貴族とかを返り討ちにして、迷惑料を頂戴してるから!」
「いやいや分かんない分かんない、全然分かんない。何、ええ!? どういうこと!?」
アガータはオットを見上げ、説明を求める。
先ほどのやりとりで気落ちしていたオットは、たったそれだけで上機嫌になった。
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