妹に婚約者を奪われたので差し上げました。ですが、檻に入ったのはあの子のほうでした

鍛高譚

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第十二話 新しい席

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第十二話 新しい席

 客間へ続く廊下は、昼間だというのに妙にひんやりしていた。

 窓から差し込む光は明るい。磨かれた床も、壁に掛けられた絵も、何一つ変わっていないはずなのに、屋敷全体が少しずつ別の場所になっていくような感覚があった。

 セレナはグレアムの後ろを歩きながら、足音を数えるように静かに進んだ。

 客間の前には、すでに継母イザベルが立っていた。落ち着かない様子で扇を握りしめ、扉が開くのを待っている。そこへセレナが近づくと、継母は明らかに居心地悪そうな顔をした。

「セレナ……」

 呼び止める声に、気遣いと困惑と、ほんの少しの怯えが混じっている。

「何かしら」

「その……あまり、場を荒立てないでちょうだい」

 やはり、とセレナは思った。

 娘が長女の婚約者へ手を伸ばしたことでも、その結果婚約が壊れたことでもなく、今この人が恐れているのは“場が荒れること”なのだ。

「私が?」

 静かに問い返すと、継母は視線を揺らした。

「そういう意味ではなくて……ただ、もうこれ以上大ごとになると、家のためにも――」

「お義母様」

 セレナは穏やかに遮った。

「大ごとには、もうなっています」

 継母は言葉を失った。

 その通りだからだ。昨夜の夜会で公然と婚約解消が宣言された時点で、事はもう“家の中だけで収められる問題”ではなくなっている。今さら荒立てないでほしいと言うのは、割れたガラスを見て、どうか割れませんようにと言うようなものだった。

 そこへ、扉の向こうから父の声がした。

「入ってくれ」

 グレアムが静かに扉を開ける。

 客間には、ローレンス伯爵と、そしてヴェルド侯爵家の家令が座っていた。ルシアン本人ではない。年配の、表情をあまり動かさない男で、灰色の上着を完璧に整えている。

 その姿を見た瞬間、セレナは少しだけ息を吐いた。

 ルシアンが自ら来ていないことに安堵したのではない。
 むしろその逆だ。

 彼はもう自分で言うべきことを昨夜言い終えたのだ。
 今日は、その決定を事務として処理するための使者を寄越しただけ。

 それが何より冷たかった。

 ミレイユはすでに客間の中央に立っていた。期待に満ちた顔を隠しきれていない。たぶん彼女は、これから自分に都合のいい正式な話が始まると信じているのだろう。

 新しい婚約。
 新しい立場。
 お姉様ではなく私が選ばれたという確認。

 その甘い想像が、顔にまで滲んでいた。

「セレナ嬢もお揃いになりましたな」

 ヴェルド侯爵家の家令が立ち上がり、一礼した。

「本日は、昨夜の件について正式なお話を申し上げるために参りました」

 正式。

 その言葉に、父の肩がわずかに強張る。継母は落ち着かない指先で扇を撫で、ミレイユだけが上気したまま微笑んでいた。

 セレナは父に勧められた椅子へ静かに腰を下ろす。

 家令もまた着席し、膝の上に置いた封書を机へ滑らせた。

「まず、ルシアン・ヴェルド様より、セレナ嬢との婚約を正式に解消する旨、侯爵家としても確認いたします」

 淡々とした声だった。

 慰めも遠慮もない。ただ“決定事項の通達”として整えられた言葉だけが並ぶ。

「理由につきましては、昨夜お伝えした通り、性格の不一致、ならびに今後の人生設計における方向性の乖離ということになります」

 やはり同じだ。

 聞けば聞くほど、笑いたくなるほど整っている。誰も悪者にならず、ただ少し相性が悪かっただけで終わらせるための言葉。

 だがその“整い”は、昨夜の侮辱を消すにはあまりにも薄い。

「……承知している」

 父が低く答える。

 声には苦みが滲んでいたが、抗議の力はない。結局この人も、用意された言葉の枠の中でしか動けないのだと改めて分かる。

 継母は神妙な顔を作っている。だがその視線は、ときおりミレイユへ流れていた。娘がどんな顔でこの話を聞いているか、気になって仕方がないのだろう。

 一方ミレイユは、婚約解消のくだりにはそれほど興味がないらしかった。問題はその先なのだ。自分がどう扱われるかだけが重要なのだから。

 そして、その瞬間はすぐに来た。

「さらに」

 家令が続ける。

「今後につきましては、現時点でルシアン様が新たな婚約をお考えであるという事実はございません」

 客間が静まり返った。

 その一秒だけで、空気の温度が変わったのが分かった。

 ミレイユの笑みが、はっきりと止まる。

 父は顔を上げた。継母も息を呑む。

 家令だけが、まるで何の変化もなかったかのように話を続けた。

「昨夜の件により、一部に誤解が生じる可能性もございますが、侯爵家としては、今後しばらく婚約に関する話題そのものを控える意向です」

 セレナはまばたきをした。

 やはり。

 そう来ると思っていた。

 ルシアンはセレナとの婚約を壊したかっただけで、ミレイユを正式に拾い上げるつもりではない。むしろ今の彼女は、“婚約破棄の場で隣に立たせるには便利だった女”にすぎないのだろう。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 ミレイユの唇がわずかに開いた。

「……それは、どういう意味ですの?」

 初めて、声に揺れが入る。

 家令は目も逸らさず答えた。

「申し上げた通りでございます」

「でも、昨夜――」

「昨夜、ルシアン様はセレナ嬢との婚約解消を表明なさいました」

 ぴしゃりと遮るような口調だった。

「それ以上のことは何一つお約束しておりません」

 客間の空気が、また一段冷える。

 ミレイユは数秒、その言葉を理解できないようだった。理解したくない、と言ったほうが近いのかもしれない。

 彼女の中では、婚約解消と自分への乗り換えは同義だったのだろう。姉を切ることは、そのまま自分を選ぶことだと信じていた。

 だが現実は違う。

 ルシアンは姉との婚約を壊した。
 それだけだ。

 ミレイユを“新しい席”へ座らせるとは、一言も言っていない。

「そんなの……」

 ミレイユがかすれた声を出す。

「そんなの、おかしいわ」

 継母が慌てて立ち上がりかける。

「ミレイユ、落ち着いて」

「だっておかしいでしょう!」

 義妹はとうとう声を荒げた。

「昨夜、あんなふうに、皆の前で! 私を隣に立たせて! それで何もないなんて、そんなことあるはず――」

「ミレイユ」

 父が低く咎める。

 だがミレイユは止まらない。

「だって私を選んだのでしょう!? お姉様じゃなくて、私を!」

 その叫びが客間に響いた瞬間、セレナは胸の奥でひどく静かな感覚が広がるのを覚えた。

 選んだ。

 義妹は本気でそう思っていたのだ。

 自分は愛され、欲され、選ばれたのだと。
 勝利の先には当然、新しい席が用意されているのだと。

 だが、あの男はそんなふうに人を扱わない。

 彼は椅子を引く。
 席を与えるふりをする。
 けれど最後にそこへ座らせるかどうかは、最初から別問題なのだ。

 家令は少しも感情を見せなかった。

「そのような誤解が生じたことについては遺憾に思います」

 遺憾。

 なんて便利な言葉だろう。

 ミレイユは顔を真っ赤にした。

「誤解ですって!?」

「ミレイユ様」

 家令は初めて彼女の名を呼んだ。

「ルシアン様は、いかなる場においても、あなたとの婚約を約したことはございません」

 その一言が決定打だった。

 客間にいる全員が、それを理解した。

 父は蒼白になり、継母は椅子の背を掴んで立っている。ミレイユだけが、まだ現実を拒もうとしていた。

「嘘よ……」

 彼女は小さく呟く。

「だって、あの方は私に……優しかったもの」

 セレナはその言葉を聞きながら、義妹の横顔を見た。

 そこで初めて、彼女は少しだけ哀れだった。

 可哀想だとは思わない。
 同情もしない。

 ただ、自分の欲しいものだけを見て、相手が何を見ているか一度も考えなかった女の末路として、あまりにも分かりやすかった。

 家令は最後に封書を机の中央へ置いた。

「以上が侯爵家としての正式な見解でございます。今後、昨夜の件について根も葉もない憶測が広まらぬよう、伯爵家におかれましてもご配慮いただきたく存じます」

 父は苦い顔でそれを受け取る。

 配慮。

 つまり、余計なことを言うなという意味だ。

 昨夜、公衆の面前で婚約を壊しておいて、その後は静かにしていろと求める。どこまでも自分たちに都合がいい。

 家令が一礼して退出すると、客間には気まずい沈黙だけが残った。

 最初に崩れたのはミレイユだった。

「……どうして」

 か細い声。

 そして次の瞬間、彼女は継母へ向かって振り返った。

「お母様、何とかして!」

 その叫びに、継母はびくりと肩を震わせる。

「何とかって……」

「だってこのままじゃ、私……!」

 ミレイユは言葉を失った。

 そうだ、このままではただ“姉の婚約を壊した妹”だけが残る。新しい立場もない。勝者の席もない。あるのは醜聞だけだ。

 ようやくその現実が見えてきたのだろう。

 継母は青ざめたまま父を見る。

「あなた……」

 だが父もまた、何も答えられなかった。侯爵家へ抗議する気概も、娘を諭す力もない。ただ事態の大きさに呑まれているだけだ。

 セレナはそこで静かに立ち上がった。

 ミレイユの目が、今度は彼女へ向く。

 そこには先ほどまでの勝者の色はもうなかった。代わりにあるのは、信じられないものを見る目と、誰かに責任を押しつけたい焦りだけだ。

「お姉様、何か言ってよ」

 その声に、セレナは一瞬だけ眉を上げた。

「何を?」

「だって……!」

 ミレイユは言葉を失う。

 自分でも何を求めているのか分からないのだろう。慰めか、怒りか、それとも一緒に侯爵家を責めてほしいのか。

 だがセレナはただ静かに言った。

「私は何も言わないわ」

「どうして!」

「あなたが欲しかったものについて、私には最初から決める権利がなかったから」

 それだけだった。

 けれど、その一言はひどくよく効いたらしい。ミレイユの顔がさっと歪んだ。

 そうだ。
 姉の婚約者を奪ったつもりでいた。
 でもその婚約者本人がどこへ座るかを決める権利は、最初から姉にも妹にもない。

 奪うことばかり考えていた女が、その当然を初めて思い知る。

 セレナは父へ一礼した。

「失礼します」

 今度は誰も引き止めなかった。

 扉の前まで来た時、背後でミレイユがかすれた声を上げる。

「どうして……」

 それが自分に向けられた問いなのか、ルシアンに向けられた問いなのか、あるいは世界そのものへの問いなのかは分からなかった。

 ただ、その“どうして”に対する答えを、義妹はたぶんまだ一つも持っていない。

 客間を出ると、廊下の空気がやけに澄んで感じられた。

 セレナはそこでようやく立ち止まる。

 痛みはまだある。
 婚約が壊れた事実も、あの夜の屈辱も、消えたわけではない。

 けれど今、ひとつだけはっきりしたことがあった。

 ミレイユは新しい席を手に入れたのではない。
 ただ、姉の席を壊しただけだ。

 そして壊した先には、自分のための椅子など最初から置かれていなかった。

 その現実は、義妹にとってきっと耐えがたいだろう。

 だがセレナにはもう、それを支えてやる義理はなかった。
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