妹に婚約者を奪われたので差し上げました。ですが、檻に入ったのはあの子のほうでした

鍛高譚

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第二十二話 公爵家の扉

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第二十二話 公爵家の扉

 レーヴェン公爵家の馬車は、驚くほど静かだった。

 乗り心地がよいからというだけではない。内装は上質だが華美すぎず、窓辺の金具ひとつにまで余計なきらめきがない。沈黙が居心地悪くならないように作られているような空間だった。

 セレナは膝の上で手を組んだまま、揺れに身を任せていた。

 フォルディア伯爵家を出た直後こそ、胸の奥が少しだけざわついていた。けれど屋敷の門が見えなくなる頃には、そのざわめきは少しずつ形を変えていった。

 喪失ではなく、空白に近い。

 何かを失った痛みは確かにある。だがその一方で、ずっと塞がれていた場所に風が通り始めたような感覚もあった。

 どちらが大きいのか、自分でもまだ分からない。

 馬車が石畳をゆるやかに曲がったところで、向かいに控えていた年配の侍女が静かに口を開いた。

「間もなく到着いたします」

 落ち着いた声だった。押しつけがましさがなく、必要なことだけを伝える響き。

「ありがとう」

 セレナが返すと、侍女は一礼しただけで黙った。

 この距離感がありがたい。

 伯爵家の使用人たちも礼儀はわきまえていたが、どうしても“長女として支える人”を見る気配があった。けれどこの馬車の中では、ただ一人の客人として扱われている。

 それだけのことが、妙に新鮮だった。

 やがて速度が落ち、窓の外の景色がゆっくりと開けていく。

 レーヴェン公爵家の屋敷は、フォルディア伯爵家よりも大きい。けれどその威圧感は、不思議と少なかった。門から続く並木道は整っているのに過剰ではなく、広い前庭も見せつけるような豪奢さではなく、静かな秩序で満たされている。

 屋敷そのものもそうだった。

 大きい。立派だ。だが、誰かを萎縮させるための大きさではない。

 きちんと手の入った庭と、よく磨かれた窓、季節を映す薄い色の花々。そこにあるのは権威というより、長い時間をかけて保たれてきた安定だった。

 馬車が正面玄関の前で止まる。

 扉が開かれ、朝の空気がすっと差し込んできた。

 セレナは外套の裾を整え、ゆっくりと外へ出た。

 玄関前にはすでに数人の使用人が並んでいたが、その中心に立つ人物を見た瞬間、彼女は少しだけ目を見開いた。

 アルベルトだ。

 まさか自ら出迎えに立っているとは思わなかった。

 彼はいつものように無駄のない姿勢で立っていた。華やかな装いではない。だが公爵家嫡男としての格は、何も飾らなくても自然に滲む。背筋の伸び方、視線の置き方、そのどれもが静かに整っている。

「ようこそお越しくださいました」

 先に口を開いたのは、彼ではなく、その隣に立つ女性だった。

 レーヴェン公爵夫人である。

 年齢を重ねてもなお美しい人だった。だがその美しさはミレイユのような人目を奪う鮮やかさではなく、長く穏やかな日々を経た者だけが持つ落ち着きだった。微笑みも柔らかく、相手を測る前にまず安心させる力がある。

「セレナ・フォルディアでございます」

 セレナは礼を取る。

 公爵夫人は一歩近づき、その礼を受けてから優しく言った。

「堅くならないでちょうだい。今日は“客人”として来ていただいたのですから」

 その一言で、胸の中の緊張が少しだけほどけた。

 客人。

 伯爵家では、セレナはいつも“長女”だった。
 婚約者の前では“侯爵家へ嫁ぐ予定の令嬢”だった。
 家の中では“後始末をする人”だった。

 けれどここでは、まず客人なのだ。

 その違いが、思った以上に大きかった。

「お招きいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。急なお呼び立てになってしまったわね」

 公爵夫人はそう言いながら、セレナの顔を少しだけ見た。あからさまではない。本当に体調を確かめる程度の、さりげない視線だ。

「お疲れでしょう。まずはお部屋へご案内しますわ」

「お気遣い、痛み入ります」

「その言い方も少しずつ解けていくといいのだけれど」

 ふっと笑う声音があまりに自然で、セレナもごく小さく微笑んでいた。

 その様子を、アルベルトは少し離れたところから静かに見ていた。何かを言うでもなく、出しゃばるでもなく、ただそこにいる。

 セレナはふと彼を見た。

 目が合う。

「道中、お変わりはありませんでしたか」

 彼の第一声はそれだった。

 大丈夫だったか、ではなく、お変わりはなかったか。

 押しつけがましさのない問い方だ。

「ええ、問題なく」

「それならよかった」

 それだけで会話は終わった。

 なのに不思議と、十分だった。

 伯爵家にいた時のように、相手の言葉の裏をいちいち読む必要がない。好意があるのかないのか、何を値踏みされているのか、そういうことを考えなくていい。

 それだけで、ずいぶん呼吸が楽になる。

 玄関ホールへ足を踏み入れると、屋敷の中の空気もまた、外と同じように静かに整っていた。

 広い。だが声が響きすぎない。
 磨かれている。だが冷たくない。
 使用人たちは一糸乱れぬ動きで礼を取るが、そこに怯えはなく、ただよく訓練された安定がある。

 セレナはそれに少し驚いた。

 同じ貴族家でも、こうも空気が違うのかと思う。

 フォルディア伯爵家では、使用人たちはいつも“次に誰の機嫌が爆ぜるか”を気にしていた。だから動きは整っていても、空気のどこかに恐れが混じっていた。

 けれどここには、それがない。

 少なくとも、今見える範囲には。

「お部屋は南の棟にご用意しました」

 公爵夫人が歩きながら言う。

「朝の光がよく入るの。わたくしはあのお部屋が好きで、客人にもよく使っていただくのよ」

「ありがとうございます」

「慈善会のお話は、落ち着いてからで構わないわ。今日はとにかく、ゆっくりしてちょうだい」

 その自然な配慮に、セレナはほんの少し戸惑った。

 休んでよいと言われることに、まだ慣れていないのだ。何もしなくてよい時間を与えられると、かえって自分がそこにいてよいのか分からなくなる。

 階段を上がり、長い回廊を進む。

 窓の外には整えられた庭が見えた。だが伯爵家の庭よりも、どこか呼吸がしやすく見える。見せるために整えられた庭ではなく、日々そこにあるものとして手入れされている庭だ。

 通された部屋は、想像していたよりもずっと落ち着いていた。

 公爵家の客室と聞けば、もっと華やかで、いかにも“高位貴族の屋敷です”と主張するような部屋を思い浮かべていた。けれど実際には、淡い生成りと深い緑で整えられた、静かな空間だった。

 大きな窓。
 柔らかな寝台。
 小さな書き物机。
 花瓶に挿された白い花。

 必要なものは揃っている。だが、それを見せびらかす気配がない。

「お気に召すといいのだけれど」

 公爵夫人が言う。

「とても……落ち着くお部屋です」

 それは社交辞令ではなく、本心だった。

 公爵夫人は優しく頷いた。

「よかった。必要なものがあれば遠慮なく言ってちょうだいね。ここでは、無理に気を張る必要はないのよ」

 その言葉を、セレナはすぐには飲み込めなかった。

 無理に気を張る必要はない。

 今までどれほど張っていたのかを、自分はようやく知り始めたばかりなのだ。

 公爵夫人が侍女へいくつか指示を出して部屋を去ると、最後にアルベルトだけが少し残った。

 扉のところで振り返る。

「手紙、ありがとう」

 セレナが先に言うと、彼はほんの少し目を細めた。

「返事を急がせたかったわけではない」

「分かっています」

「ただ」

 彼は少しだけ間を置いた。

「来てくれてよかった」

 その一言は、思っていたよりも真っ直ぐに胸へ届いた。

 歓待の言葉でも、甘い慰めでもない。
 ただ、来てくれてよかった。

 それだけなのに、今のセレナには十分だった。

「……ありがとうございます」

 彼は小さく頷き、それ以上は何も言わずに出ていった。

 扉が閉まる。

 部屋に静けさが落ちる。

 セレナはしばらくその場に立ったまま動けなかった。

 ようやく、一人になる。

 誰の視線もない。
 誰の機嫌もない。
 自分が次に何を言うかを試すような空気もない。

 それがあまりにも珍しくて、少しだけ怖い。

 ゆっくりと部屋の中央へ進み、寝台の縁に腰を下ろす。

 そこでようやく、自分がどれほど疲れていたのかが体に落ちてきた。

 肩が重い。
 息を深く吐くと、胸の奥が少しだけ痛む。
 泣きたいわけではない。けれど張っていたものが少し緩んで、代わりに空白が広がっていく。

 セレナは窓の外を見た。

 庭の木々が風に揺れている。
 どこにもミレイユの声はない。
 父のため息も、継母の泣き声もない。

 静かだ。

 本当に、ただ静かだった。

 そしてその静けさの中で、初めてはっきりと思う。

 来てよかったのだと。

 まだ何も解決していない。
 婚約を壊された事実も、伯爵家の中の歪みも、痛みも、何一つ終わっていない。

 それでも、ここには少なくとも“息ができる場所”がある。

 差し出された椅子とは、こういうものだったのかもしれない。

 セレナはそのままゆっくりと背を預け、目を閉じた。

 泣かなかった。

 けれど胸の奥のどこかで、ようやく少しだけ自分をほどいてもいいのだと思えた。
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