あなたの狂気に囚われたい

碧 貴子

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本編

最終話.愛執の果て

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 奇跡のような様々な偶然が重なって、姉上はかろうじて一命を取り留めた。
 あの日、姉上が湖に身を投げた時、服の裾が崖から伸びていた木の枝に途中で引っ掛ったことで、姉上は頭から水面に落ちずに済んだ。さらにはそのおかげで、落下の衝撃が緩和されたのだ。
 しかもちょうどその時、姉上が落下した近くで漁をしていた漁師が、すぐさま気付いて助け出したため、姉上は溺死せずに済んだのだ。
 しかし、途中枝に引っ掛かって落下の速度が緩和されたとはいえ、それでもあれだけの高所から落ちたのだ。もちろん、無傷で済むはずがない。
 両脚と骨盤を複雑骨折し、姉上は瀕死の重傷を負った。
 ただ幸いなことに、内臓の破裂は免れたために、姉上は命を取り留めたのだ。

 しかし、あれから1カ月が経つが、未だ姉上が目覚める気配はない。
 医者の話では、もしかしたら脳に損傷があるかもしれないということだ。
 その場合、このまま一生眠り続けることになる、と。
 そもそも命が助かったことだけでも奇跡なのだ。
 だが私は、姉上が必ず目を覚ますと信じて付き添い続けた。

 更にひと月が経ったが、姉上は相変わらず眠ったままだ。
 すっかり痩せ細り、眼窩が落ち窪んで頬骨が浮き出てしまったが、それでも姉上は、穏やかに微笑む様な顔で眠りについている。
 どこかあどけない、少女のような顔で眠る姉上は、きっと幸せな夢を見ているのだろう。
 辛い現実世界に戻るよりも、もしかしたらこのまま夢を見続けている方が姉上は幸せなのかもしれない。
 しかしそれでも、姉上に戻ってきて欲しいと願う私は、我儘だろうか。

 意外にもあの父が、毎日姉上の容体を見舞いにやってくる。
 眠る姉上の手を握り、愛おしげに頭を撫でる光景は、これまでの父からしたら考えられないことだ。
 姉上に向ける、切なさと愛しさが混じった父の瞳を見ると、非常に複雑な思いに駆られる。
 しかし、姉上がこれまであれ程苦しまれたのは、全てこの男が元凶であることを考えると、私としては腹立たしくてしょうがない。
 ただ、姉上が父の愛を渇望していたことを知っているため、黙ってそのままにさせている。
 だがやはり、今更、だ。
 今頃になって姉上への愛に目覚められても、という思いが強い。
 まあ、アルバートと関わる内に、父の中で様々な心境の変化があったのだろうが、所詮どこまでも自己本位な心の動きでしかない。
 多少は反省しているのかもしれないが、この男が本当の意味で自分の罪深さを理解することは、決してないだろう。
 本心では、アルバートにもこの男と関わって欲しくはない。
 ただ、姉上がそれを望まれていたために、許しているにすぎない。
 本当、我が父ながら、どこまでも腹の立つ男だ。
 それでも、やはり私はこの男の子供なのだと思う。
 自分の欲望の為に姉上の人生を奪った私は、まさしくこの男の息子だろう。

 そんなある日、アルバートが眠る姉上に、例のバラの花束を持ってきた。
 血のように紅い、姉上の母親のバラだ。
 私は姉上からこの花の由来を聞いて以来、何か因縁めいたものを感じて、敢えて姉上の部屋に飾ることは避けていた。
 しかしそのことを知らないアルバートは、純粋に姉上が好きな花だと思って持ってきたのだろう。
 花瓶に活けさせベッドサイドに飾ると、部屋にその甘い芳香が流れる。

 その時だ。
 姉上の睫毛がピクリと震えた。

 驚く私とアルバートが固唾を飲んで見守る中、姉上がゆっくりとその瞼を開けた。
 ぼんやりとした瞳が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
 泣きながら手を握りしめ、姉上を呼ぶ私を見つめて、姉上がふんわりと微笑んだ。

 この時ほど神に感謝したことはない。
 しかし、掠れて音にならない姉上の声で紡がれた言葉を聞いて、次の瞬間、私は目の前が真っ暗になった。
 私を見た姉上は言ったのだ。
「お父様」と。




 目覚めてから一年が経ち、姉上は順調に回復している。
 今では車椅子に乗って庭に出ることもできるようになった。
 医者が言うには、このままリハビリを続ければ、そのうち短い距離であれば歩くことも可能になるだろうとのことだ。
 晴れた日は、車椅子を押して姉上と庭に出るのが、最近の私の日課だ。

 姉上は、私を父だと思っている。
 そして息子のアルバートを、私と思っているのだ。
 少女に戻った姉上は、毎日非常に幸せそうだ。
 これまで見たことのないような、満ち足りた澄んだ瞳で姉上は笑う。
 姉上のそんな笑顔を見る度に、私の胸は締め付けられるように痛む。
 だが、これでいいのだろう。
 姉上は、過去得られなかった幸福な少女時代をやり直しているのだから。

 ただ、父のことは誰だかわからないらしい。
 いつも戸惑った顔で、姉上は見知らぬ人を見るような目で父と接する。
 それでいい。
 もうこれ以上、姉上が傷つくことはない。

 “ウィリアム”と、私の名前で呼ばれる息子が哀れだが、心優しいこの子は、姉上が笑って生きていてくれるのであればそれで構わないと言ってくれている。
 本当に、この子はどこまでも優しい。
 そんな息子が、私は愛しくてしょうがない。

 かつて私にしてくれたように、姉上は息子に献身的な愛を注ぐ。
 アルバートを見つめる姉上の瞳は、ひたすら優しく、愛に溢れていて、もしかしたら姉上は、ずっとこんな風に私と接したかったのだろうかと思うと、非常に切なくなる。



 そんな穏やかな日々がずっと続くかと思われたある日、私は最近歩行練習を始めた姉上を介助していた。
 覚束ない足取りで恐る恐ると芝を踏みしめる姉上が、途中で立ち止まり、私を見上げて嬉しそうににっこりと微笑む。
 その曇りのない笑顔が嬉しくて、私は思わず姉上を抱きしめた。
 抱きしめ返されたことが泣きたくなる程嬉しくて、更に強く姉上を抱きしめた時だ。
 姉上が、小さく私の名を呼んだ。
 ウィル、と。
 驚いて体を離し見つめるも、姉上はいつもの澄んだ瞳で笑うばかりで、姉上が私の名を口にすることはなかった。
 私を見て再びお父様と呼ぶ姉上に私は落胆した。
 さっきのは、私の聞き間違いだったのだ、と。

 それからしばらくして、その日姉上の部屋を訪れた私は、姉上が窓際に一人で立っているのを見て、驚いて駆け寄った。これまで姉上が一人で立ち上がることはなかったからだ。
 慌てて体を支えた私に、安心したように姉上が身を預けてくる。
 その時再び、姉上が私の名前を呼んだ。

「……姉上?」
「ウィル……」

 聞き間違いではない。
 思わず、目頭が熱くなる。
 きつく抱きしめると、姉上も抱きしめ返してくれる。
 微笑んで私の顔を拭ってくれた姉上は、以前の姉上のようで。
 私達は、そっと口付けを交わした。


 それから姉上は、時々かつての姉上に戻るようになった。
 ただ、完全に、ではない。
 触れ合っていると、ふと、以前の姉上に戻るのだ。
 体感の記憶、なのだろうか。
 私に抱かれながら、姉上が私の名を呼んでくれる。
 それが、気が遠くなる程嬉しくて堪らない。
 完全に以前の姉上に戻る日も、そう遠くないのかもしれない。
 それを願って、今日も心からの愛を込め、姉上の名を呼ぶ。

 姉上。
 私の半身。
 比翼の鳥。
 永遠の、愛しいひと

「姉上、エリザベス。愛してます」










<終>









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