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ねむるということ
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昔からニュースを見る事が苦手だった。
商品の値上がりとか、ブレーキとアクセルを踏み間違えて起こった事故とか、SNSから発展した事件とか、選挙の話とか、世界中で起こっている争いの話とか。色んな話が目から耳から飛び込んで来て、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。自分の知らないところで今も誰かが苦しんでいて、死んでしまう人がいて、そう考えると漠然とした恐怖に襲われた。幼い頃はその混乱した頭の中を整理することが出来なくて、訳も分からず泣いてしまうこともあった。
「では、続いてのニュースです。信号無視したトラックが交差点にーーー」
食パンをかじりながらボーッとテレビを見つめる。原稿を読んでいる男性アナウンサーは確か最近入社した新入社員で、少し前にSNSで自己紹介の動画が投稿されてたのを見かけた気がする。そんな事を思い出しながらあくびを1つすれば、ニュースは次の話題に変わっていた。都内の70代の女性が詐欺で500万円を騙し取られたらしい。専門家がその手法を眉間に皺を寄せながら語っていて、へえ、最近の詐欺は巧妙なんだなあ、なんて少し関心してしまう。
「あ、やべ。」
気づけばそろそろを家を出なきゃ行けない時間になっていて慌てて残りの食パンを牛乳で流し込む。今日の1限は少し気難しい教授の授業だ。遅れる訳には行かない。急いで歯磨きをして、リュックを背負ってスマホを握りしめる。部屋を出る直前にテレビを消そうとリモコンを握れば、ニュースはもう終わって定番のお料理コーナーへと移り変わっていた。さっきまでの固い雰囲気はどこへやら、最近ブレイク中の芸人が手を叩いて笑っている。結構面白いんだよな、このコンビ。なんて思ってたらそのまま少しテレビを見てしまって、まずいまずいと慌てて電源を消して部屋を飛び出した。
「千隼、こっちこっち。」
ギリギリで講堂に駆け込めば、後ろの方の席は既にほとんど埋まっていた。うわ、これは前列で授業受けるしかないか、でもこの教授前の方から当ててくんだよなあ、と絶望的な気持ちで辺りを見回していれば、1番後ろの席に座った友人の藤田が手招きしてくれた。
「藤田まじ神、ありがとう。」
「今日のお昼、千隼の奢りな。」
「もちろん奢らせて頂きます。」
おどけて頭を下げれば藤田はケラケラと笑って、その拍子に彼の耳にジャラジャラと付いたピアスが揺れる。ロンTから除く左手首には月がモチーフと思われるタトゥーが入っていて、初めて話した時にお気に入りなんだと教えてくれた。大学で出会った彼は、見た目はいわゆるヤンキーに分類されるかもしれないが、気さくで人の事をよく見ているとても良い奴で、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
「マクロ経済とは個別の経済活動に焦点を当てるのではなく、政府、企業、家計、それら全てを一括りにして経済社会全体に着目する経済学です。そうだな、ではそこの白いTシャツを着た君。前回の講義で話したミクロ経済学との違いは何かね?」
教授がおもむろに一番前の席に座っていた学生にマイクを向ける。出た、この教授はよくこうやって学生に発言をさせる。しかも、答えられるまで解放してはくれない。今だってそうだ。口ごもってしまった生徒に「前回の講義のレジュメに全て書いてある事だけど、読んでいないのかな?」なんて嫌みをこぼしている。ああ、今日前列に座っていたら当てられたのは俺だったかもしれない、ありがとう藤田。学食でデザートもつけてやろう。
「うーわ、カツカレーうま。」
「そりゃよかった。」
「人のカネで食べると思うと増してうまいわ。」
「その一言は余計だけどな。」
俺の言葉にケラケラと笑った藤田は、その細い体のどこに入るのかという勢いでカツカレーと週替わりで変わるデザートのプリンを平らげる。今日の1限が必修の講義だったということもあってか、学食は学生たちで溢れていた。
「千隼、教育学とってたっけ?」
「いや、とってない。」
「そうか、じゃあ3限は空き?一旦帰るの?」
「いや。図書館で経済学のレポート書くつもり。」
「お、じゃあ俺もそうしよっと。」
俺もラーメンを食べ終えて、藤田と共に図書館へと向かう。いつもだったら食堂でダラダラと話すことも多いが、今日みたいな日は食べたらすぐに席を開けるのが暗黙のルールのようなものになっている。キャンパスの規模の割に学食が小さいと教授も先輩も文句を垂れていたし、実際に俺もそう思う。他愛もない話をしながらキャンパス内を歩いていれば、スーツ姿の学生が目に留まった。就活中の4年生だろうか。藤田も同じように目に入ったのか小さくため息をつく。
「就活したくねえなあ。」
「まだ早くね?」
「いやきっとそんな事もないよ、あっという間に俺らも地獄の社会人になるのさ。」
「怖い事いうなよ。」
就活、か。正直まだ1年生の自分にとってはずっと先の事に感じてしまっていて、働いている姿なんて想像が出来ない。将来の夢なんて無いし、こういう仕事がしてみたい、という憧れもない。というか自分が明日生きているかどうかも確実じゃないのに、どうして皆将来の事なんて考えられるのだろう。今朝ニュースで流れていた、信号無視したトラックにはねられた高校生が亡くなったというニュースを思い出す。彼だってまさか昨日死んでしまうなんて思っていなかっただろうな、テストが嫌だなあとか、お弁当には何が入ってるかなとか、そんな事を考えながら歩いていたんだろうな、当たり前に明日が来ると思って__そこまで勝手に想像してしまって、慌てて思考を強制的に止める。昔からそうだ、人より想像力が豊かなのか、頭の整理が下手くそなのか、思考が止まらなくなり得体のしれない恐怖に蝕まれてしまう事がよくあった。だから、ニュースを見るのは今でも苦手だ。でも、昔のように頭がぐちゃぐちゃになってしまうことは無くなった。思考を止める、聞き流すという事を覚えたからだ。良い事では無いのは分かっているけど、でもこれ以外に俺はあの漠然とした恐怖から逃れる方法を見つけられなかった。今日も夜ご飯は何を食べようかとあえてどうでもいい事に頭をフル回転させる。そうしていれば徐々に心臓のバクバクは収まって、小さく息を吐いた。同時にブブブ、とポケットの中で振動を感じる。
「電話出ないの?」
「母さんだから。後でかけ直すわ。」
「いや出なよ。俺ちょっと購買で飲み物買ってくる。」
「・・・ごめん、ありがとう。」
ヒラヒラと手を振って藤田は購買へと消えていく。こういうさりげない気遣いをしてくれるのも、彼の素敵な所だ。
『あ、もしもし千隼?今大丈夫?』
『うん、少しなら。』
2か月ほど前に帰省したばかりだからそんなに久しぶりではないはずなのに、母さんの声がやけに懐かしく感じた。『お米を送ったから』という内容から始まって、ご近所さんからりんごのお裾分けを頂いたとか妹に彼氏が出来たようだとか、最近父さんのご機嫌がナナメだとか、聞いても無い事を弾丸のように話し出す。おしゃべりとは言えない俺とは正反対で、母さんは一人でもいつまでも話しているようなタイプだ。実家にいたときは正直それをうるさく感じることもあったが、1人暮らしを始めてからはその騒がしさが少し恋しかったりもする。こんな事絶対に本人の前では言わないけど。
『あ、そうだそういえば。おばあちゃんとこ出かけてみた?』
『あー、いや。まだ行けてなくて。』
『そうなの。会えるの楽しみにしてるから近いうちに顔出してあげてね。』
俺が生まれ育った岐阜県の田舎町は父さんの実家で、母さんの実家は都内にある。幼い頃は定期的に遊びに行っていたが、中学、高校と部活動に打ち込み始めてからは中々行けなくなっていた。そんな俺が進学で上京したと聞いて、「是非遊びにいらっしゃい」とばあちゃんから言われていたのだった。じいちゃんは数年前にすでに亡くなってしまっていて、ばあちゃんは1人で暮らしている。都会での1人の暮らしを母さんも心配していて、岐阜で一緒に住むことも考えたらしい。けれどばあちゃんが絶対に首を縦に振らなくて、結局今も1人暮らしを続けている。顔を出しに行こうと思いつつ、初めての一人暮らしや講義、課題、バイトでバタバタしていたら会いに行けないまま気づけばもう入学してから半年が経とうとしていた。
『俺も久しぶりに会いたいから、今月中には会いに行くことにするよ。』
『うん、そうしてあげて。・・・そうだ、その事でね、お母さんも最近まで知らなかったんだけどさ。美冬おばさん、分かる?』
『ああ、うん。』
美冬おばさん、そう口に出した母の眉毛がハの字に曲がっているのが、電話口でも容易に想像できた。美冬おばさんは母の姉で、俺が最後に会ったのは中学生の頃だったと思う。とても綺麗な人で、いつも甘ったるい香水の香りがしたのをよく覚えている。そんな美冬おばさんはどうやら男関係にだらしなく、「ろくでもない人」として親戚内でも有名だった。
『美冬のとこの天音くんをね、今おばあちゃんの所で預かってるんだってさ。』
『・・・あまね。』
『そう、天音くん。あんたと最後に会ったのは中学生の頃かなあ、ほら、親戚の集まりで。』
天音という名前を記憶の中から引っ張り出した。美冬おばさんの一人息子で、そうだ、最後に会った時はまだ小学校の低学年くらいだったのでないだろうか。年末の親戚の集まりに珍しく美冬おばさんがいて、天音はおばさんの後ろにずっと隠れていたような気がする。
それじゃあ美冬おばさんはどうしたの?と聞けば、母は電話口で大きくため息をつく。
『相変わらずよ。新しい彼氏だのなんのかんの言って、もうおばあちゃんも見ていられなくなって天音くんを預かったって。』
『そうなんだ。』
美冬おばさんは天音のお父さんとは入籍しなかった。というか、本当は天音のお父さんが誰なのかしっかりと分かっていないようだった。その昔母さんが珍しく酔っ払った時にそうこぼしていたのを聞いた事がある。母さんはもう一度深いため息をついてから、俺の名前を呼んだ。
『天音くん、部屋から中々出てこないみたいなの。だから千隼、少し天音くんとも話してきてあげてよ。』
『話してきてって・・・今までだって全然関わってきてないのに。』
『あらやだ冷たい。いとこなんだから、そんなこと言わないでよねえ。』
『いとこ、ねえ。』
関係性としてはいとこかもしれないが、本当にまともに話した記憶が無いし、会ったのも数回なのではないだろうか。というか向こうも急にこんな年上に話しかけられても困惑するだけなのでは・・・。色々反論はあったが、口に出しても倍で返されるのは容易に想像できたので、はいはい、とだけ答えてそれ以外は飲み込んだ。丁度購買から藤田が出てくるのが遠目に見えたので、まだまだ続きそうな母の電話を半ば無理やりに切った。
商品の値上がりとか、ブレーキとアクセルを踏み間違えて起こった事故とか、SNSから発展した事件とか、選挙の話とか、世界中で起こっている争いの話とか。色んな話が目から耳から飛び込んで来て、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。自分の知らないところで今も誰かが苦しんでいて、死んでしまう人がいて、そう考えると漠然とした恐怖に襲われた。幼い頃はその混乱した頭の中を整理することが出来なくて、訳も分からず泣いてしまうこともあった。
「では、続いてのニュースです。信号無視したトラックが交差点にーーー」
食パンをかじりながらボーッとテレビを見つめる。原稿を読んでいる男性アナウンサーは確か最近入社した新入社員で、少し前にSNSで自己紹介の動画が投稿されてたのを見かけた気がする。そんな事を思い出しながらあくびを1つすれば、ニュースは次の話題に変わっていた。都内の70代の女性が詐欺で500万円を騙し取られたらしい。専門家がその手法を眉間に皺を寄せながら語っていて、へえ、最近の詐欺は巧妙なんだなあ、なんて少し関心してしまう。
「あ、やべ。」
気づけばそろそろを家を出なきゃ行けない時間になっていて慌てて残りの食パンを牛乳で流し込む。今日の1限は少し気難しい教授の授業だ。遅れる訳には行かない。急いで歯磨きをして、リュックを背負ってスマホを握りしめる。部屋を出る直前にテレビを消そうとリモコンを握れば、ニュースはもう終わって定番のお料理コーナーへと移り変わっていた。さっきまでの固い雰囲気はどこへやら、最近ブレイク中の芸人が手を叩いて笑っている。結構面白いんだよな、このコンビ。なんて思ってたらそのまま少しテレビを見てしまって、まずいまずいと慌てて電源を消して部屋を飛び出した。
「千隼、こっちこっち。」
ギリギリで講堂に駆け込めば、後ろの方の席は既にほとんど埋まっていた。うわ、これは前列で授業受けるしかないか、でもこの教授前の方から当ててくんだよなあ、と絶望的な気持ちで辺りを見回していれば、1番後ろの席に座った友人の藤田が手招きしてくれた。
「藤田まじ神、ありがとう。」
「今日のお昼、千隼の奢りな。」
「もちろん奢らせて頂きます。」
おどけて頭を下げれば藤田はケラケラと笑って、その拍子に彼の耳にジャラジャラと付いたピアスが揺れる。ロンTから除く左手首には月がモチーフと思われるタトゥーが入っていて、初めて話した時にお気に入りなんだと教えてくれた。大学で出会った彼は、見た目はいわゆるヤンキーに分類されるかもしれないが、気さくで人の事をよく見ているとても良い奴で、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
「マクロ経済とは個別の経済活動に焦点を当てるのではなく、政府、企業、家計、それら全てを一括りにして経済社会全体に着目する経済学です。そうだな、ではそこの白いTシャツを着た君。前回の講義で話したミクロ経済学との違いは何かね?」
教授がおもむろに一番前の席に座っていた学生にマイクを向ける。出た、この教授はよくこうやって学生に発言をさせる。しかも、答えられるまで解放してはくれない。今だってそうだ。口ごもってしまった生徒に「前回の講義のレジュメに全て書いてある事だけど、読んでいないのかな?」なんて嫌みをこぼしている。ああ、今日前列に座っていたら当てられたのは俺だったかもしれない、ありがとう藤田。学食でデザートもつけてやろう。
「うーわ、カツカレーうま。」
「そりゃよかった。」
「人のカネで食べると思うと増してうまいわ。」
「その一言は余計だけどな。」
俺の言葉にケラケラと笑った藤田は、その細い体のどこに入るのかという勢いでカツカレーと週替わりで変わるデザートのプリンを平らげる。今日の1限が必修の講義だったということもあってか、学食は学生たちで溢れていた。
「千隼、教育学とってたっけ?」
「いや、とってない。」
「そうか、じゃあ3限は空き?一旦帰るの?」
「いや。図書館で経済学のレポート書くつもり。」
「お、じゃあ俺もそうしよっと。」
俺もラーメンを食べ終えて、藤田と共に図書館へと向かう。いつもだったら食堂でダラダラと話すことも多いが、今日みたいな日は食べたらすぐに席を開けるのが暗黙のルールのようなものになっている。キャンパスの規模の割に学食が小さいと教授も先輩も文句を垂れていたし、実際に俺もそう思う。他愛もない話をしながらキャンパス内を歩いていれば、スーツ姿の学生が目に留まった。就活中の4年生だろうか。藤田も同じように目に入ったのか小さくため息をつく。
「就活したくねえなあ。」
「まだ早くね?」
「いやきっとそんな事もないよ、あっという間に俺らも地獄の社会人になるのさ。」
「怖い事いうなよ。」
就活、か。正直まだ1年生の自分にとってはずっと先の事に感じてしまっていて、働いている姿なんて想像が出来ない。将来の夢なんて無いし、こういう仕事がしてみたい、という憧れもない。というか自分が明日生きているかどうかも確実じゃないのに、どうして皆将来の事なんて考えられるのだろう。今朝ニュースで流れていた、信号無視したトラックにはねられた高校生が亡くなったというニュースを思い出す。彼だってまさか昨日死んでしまうなんて思っていなかっただろうな、テストが嫌だなあとか、お弁当には何が入ってるかなとか、そんな事を考えながら歩いていたんだろうな、当たり前に明日が来ると思って__そこまで勝手に想像してしまって、慌てて思考を強制的に止める。昔からそうだ、人より想像力が豊かなのか、頭の整理が下手くそなのか、思考が止まらなくなり得体のしれない恐怖に蝕まれてしまう事がよくあった。だから、ニュースを見るのは今でも苦手だ。でも、昔のように頭がぐちゃぐちゃになってしまうことは無くなった。思考を止める、聞き流すという事を覚えたからだ。良い事では無いのは分かっているけど、でもこれ以外に俺はあの漠然とした恐怖から逃れる方法を見つけられなかった。今日も夜ご飯は何を食べようかとあえてどうでもいい事に頭をフル回転させる。そうしていれば徐々に心臓のバクバクは収まって、小さく息を吐いた。同時にブブブ、とポケットの中で振動を感じる。
「電話出ないの?」
「母さんだから。後でかけ直すわ。」
「いや出なよ。俺ちょっと購買で飲み物買ってくる。」
「・・・ごめん、ありがとう。」
ヒラヒラと手を振って藤田は購買へと消えていく。こういうさりげない気遣いをしてくれるのも、彼の素敵な所だ。
『あ、もしもし千隼?今大丈夫?』
『うん、少しなら。』
2か月ほど前に帰省したばかりだからそんなに久しぶりではないはずなのに、母さんの声がやけに懐かしく感じた。『お米を送ったから』という内容から始まって、ご近所さんからりんごのお裾分けを頂いたとか妹に彼氏が出来たようだとか、最近父さんのご機嫌がナナメだとか、聞いても無い事を弾丸のように話し出す。おしゃべりとは言えない俺とは正反対で、母さんは一人でもいつまでも話しているようなタイプだ。実家にいたときは正直それをうるさく感じることもあったが、1人暮らしを始めてからはその騒がしさが少し恋しかったりもする。こんな事絶対に本人の前では言わないけど。
『あ、そうだそういえば。おばあちゃんとこ出かけてみた?』
『あー、いや。まだ行けてなくて。』
『そうなの。会えるの楽しみにしてるから近いうちに顔出してあげてね。』
俺が生まれ育った岐阜県の田舎町は父さんの実家で、母さんの実家は都内にある。幼い頃は定期的に遊びに行っていたが、中学、高校と部活動に打ち込み始めてからは中々行けなくなっていた。そんな俺が進学で上京したと聞いて、「是非遊びにいらっしゃい」とばあちゃんから言われていたのだった。じいちゃんは数年前にすでに亡くなってしまっていて、ばあちゃんは1人で暮らしている。都会での1人の暮らしを母さんも心配していて、岐阜で一緒に住むことも考えたらしい。けれどばあちゃんが絶対に首を縦に振らなくて、結局今も1人暮らしを続けている。顔を出しに行こうと思いつつ、初めての一人暮らしや講義、課題、バイトでバタバタしていたら会いに行けないまま気づけばもう入学してから半年が経とうとしていた。
『俺も久しぶりに会いたいから、今月中には会いに行くことにするよ。』
『うん、そうしてあげて。・・・そうだ、その事でね、お母さんも最近まで知らなかったんだけどさ。美冬おばさん、分かる?』
『ああ、うん。』
美冬おばさん、そう口に出した母の眉毛がハの字に曲がっているのが、電話口でも容易に想像できた。美冬おばさんは母の姉で、俺が最後に会ったのは中学生の頃だったと思う。とても綺麗な人で、いつも甘ったるい香水の香りがしたのをよく覚えている。そんな美冬おばさんはどうやら男関係にだらしなく、「ろくでもない人」として親戚内でも有名だった。
『美冬のとこの天音くんをね、今おばあちゃんの所で預かってるんだってさ。』
『・・・あまね。』
『そう、天音くん。あんたと最後に会ったのは中学生の頃かなあ、ほら、親戚の集まりで。』
天音という名前を記憶の中から引っ張り出した。美冬おばさんの一人息子で、そうだ、最後に会った時はまだ小学校の低学年くらいだったのでないだろうか。年末の親戚の集まりに珍しく美冬おばさんがいて、天音はおばさんの後ろにずっと隠れていたような気がする。
それじゃあ美冬おばさんはどうしたの?と聞けば、母は電話口で大きくため息をつく。
『相変わらずよ。新しい彼氏だのなんのかんの言って、もうおばあちゃんも見ていられなくなって天音くんを預かったって。』
『そうなんだ。』
美冬おばさんは天音のお父さんとは入籍しなかった。というか、本当は天音のお父さんが誰なのかしっかりと分かっていないようだった。その昔母さんが珍しく酔っ払った時にそうこぼしていたのを聞いた事がある。母さんはもう一度深いため息をついてから、俺の名前を呼んだ。
『天音くん、部屋から中々出てこないみたいなの。だから千隼、少し天音くんとも話してきてあげてよ。』
『話してきてって・・・今までだって全然関わってきてないのに。』
『あらやだ冷たい。いとこなんだから、そんなこと言わないでよねえ。』
『いとこ、ねえ。』
関係性としてはいとこかもしれないが、本当にまともに話した記憶が無いし、会ったのも数回なのではないだろうか。というか向こうも急にこんな年上に話しかけられても困惑するだけなのでは・・・。色々反論はあったが、口に出しても倍で返されるのは容易に想像できたので、はいはい、とだけ答えてそれ以外は飲み込んだ。丁度購買から藤田が出てくるのが遠目に見えたので、まだまだ続きそうな母の電話を半ば無理やりに切った。
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