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ねむるということ
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ガチャ、と小さな音を立てて玄関のドアを開ける。なんだか悪いことしている気持ちになって、お邪魔します、と小さく呟いた。電気をつけて、階段を上がっていく。2階は真っ暗で、天音の部屋も電気はついていないようだった。
「・・・天音、起きてる?」
ノックをして呼びかけるけど、やはり返答はない。無視されているのか、それとも寝ているのか。やっぱり俺が心配しすぎたかな。自分が地震にビビりすぎていただけかもしれないと少し恥ずかしい気持ちにもなる。まあ現代っ子だし、起きてたとしてもスマホでもいじってるかゲームしてるかな。俺も中学生の頃はよく夜更かししてたしな。なんてボーッと考えながら一応ドアノブに手をかける、と、予想に反してドアノブがクルッと回った。え、と思わず声が出てしまって、そのまま部屋の扉が開く。
部屋の中はやはり真っ暗だったが、窓から差し込む月の光が少しだけ部屋の中を照らしていた。俺の予想に反して、天音は寝てもいなかったしゲームもしていなかった。ベットの上にも勉強机の前にもいなくて、部屋の隅っこに彼の姿を見つける。
「天音?おい、大丈夫か。」
「・・・こ、こないで。」
月の光だけを頼りに部屋の奥へと進むと、蚊の鳴くような声で天音が俺を拒絶する。来ないでとは言われたものの、彼は部屋の隅っこで膝を抱えて小さく震えていて、そんな彼をこのまま放っておくことはどうしても出来なかった。天音は1人で恐怖に耐えていたのだ。スマホなんて、ゲームなんて、そんなことをする余裕もないくらい、怯えていたのだ。ゆっくりと近づいて、正面に少し距離をとって腰かける。
「地震、怖かったな。」
「・・・。」
「しかも夜だし、余計怖いからやめてくれって感じだよな。」
そのまま、俺は話し続ける。通っている大学の話、居酒屋のアルバイトの話、天音にとってはどうでもいいような事をベラベラと話し続けた。そのうち天音の震えが収まっていることに気づいて、心の中でほっと安堵のため息をつく。
「眠いよな。ベッド戻れよ、そろそろ寝よう。」
話し続けて俺の口がカラカラになった頃、俺の言葉に天音は小さく首を振った。反応があった事に驚いていれば、天音がゆっくりと口を開く。
「・・・ねれない。」
「どうして?」
「・・・い、いつも眠れない。夜は、眠れない。」
ずっと人と話していないからか、天音の声は小さくてガラガラだった。それでも言葉を紡ごうと、咳ばらいを繰り返して拳を握り締める。だから俺も、一生懸命彼の言葉を聞いた。
「・・・こわい。」
俯いたまま、天音はそうこぼす。何度も何度もその言葉を繰り返して、叫んでいる訳ではないのに俺にはそれが悲鳴のように聞こえた。
「夜は、怖い。自分が本当に生きているのか分かんない。」
「うん。」
「このまま朝が来なかったらどうしようって、ずっとここから抜け出せないんじゃないかって、こわい。」
「うん。」
「ひとりに、なりたくない。」
天音の声は震えていて、膝を抱え込む両手は力いっぱい握られていた。スウェットから覗く手首はびっくりしてしまうくらい細くて、そして傷だらけだった。この年で、彼は今まで一体どれだけの恐怖と戦ってきたんだろう。どれだけの寂しさと向き合ってきたんだろう、彼の隣には誰もいてくれなかったのだろうか、ひとりで、夜に怯え続けてきたのだろうか。
「天音。」
「・・・。」
「手、出して。」
俺の言葉に、天音は少し驚いたように息をのんだ。「ほら、手。」ともう一度言えば、俯いたままゆっくりと手を開く。俺もゆっくりと彼の左手を掴んで、上からティッシュをゆっくりと押し当てた。今日出来たばかりと思われる傷から、わずかに血が滲んていたからだ。天音も俯いたままだったけど、俺の手を振り払うことはしなかった。
俺も話さないまま、天音も黙ったまま、不思議な時間が流れる。窓から差し込む月明かりがほんのり部屋の中を照らしてくれていて、見上げれば今日は月がやけにはっきりと見えた。
「天音、見て、月。」
「・・・。」
「すんげえ綺麗だよ。」
俺の言葉に天音は俯いたままだった。別に満月という訳ではなくて普通の三日月だけど、空が晴れているからかとても綺麗に見えて、思わずじっと見入ってしまう。不意に、言葉がポロポロとこぼれだした。
「多分、多分だけどさ。眠れない夜はそんなに怖いもんじゃないよ。」
「え・・・。」
俺の言葉に、天音は少し戸惑ったような声を出す。三日月を見上げたまま、彼の手の温度を感じたまま、言葉を続ける。
「静かで真っ暗でなんだか一人ぼっちみたいな気がしちゃうけど、そんな事ない。待ってても待たなくても朝が来るし、眠れないのはお前のせいじゃないし、だから、ひとりで泣くなよ。じっと耐えるなよ。」
不意に視線を感じて天音の方を見れば、彼はずっと俯いていた顔を挙げていた。少し癖毛の前髪からのぞいた瞳は真っ黒で、不安げに揺れていた。少しハの字に曲がった眉毛は母さんの困った顔によく似ていて、そういえば美冬おばさんもよくこんな表情してたなあ、なんてぼんやりと思い出した。俺も、天音の目を真っすぐに見つめる。夜は怖い、怖いけど、でもきっと、怯える必要なんてない。
「眠れない夜を、勝手に敵にすんなよ。」
俺の言葉に天音は小さく息をのんで、そのままゆっくりと視線を窓の外に移した。三日月を眺める天音の横顔があまりに綺麗で、俺はまた美冬おばさんの甘ったるい香水の匂いを少し思い出した。
その日から俺は、週に1度は必ずばあちゃんの家に寄るようになった。寄る度にドア越しに天音に声をかけて、その日あったどうでもいい事を話した。藤田の髪色が青色になっていた話、バイトでお皿を割ってしまった話、駅の近くで上手いラーメン屋さんを見つけた話。意外と自分がペラペラと話が出来る事に気づいて、母さんの血をきちんと引いている事を感じて少し笑いそうになってしまった。最初は返事も何も返って来なかったけど、その内、少しずつ反応が返ってくるようになった。「へえ。」とか「ふうん。」ばかりだったけれど、大学の友人に教えてもらったケーキ屋さんの話をした時に初めて質問が返ってきて、天音が甘いものが好きだという事が分かった。
「はい、これ。」
「・・・ありがとう。」
「どういたしまして。」
そのうちドアを開けてくれるようになって、甘いものの差し入れを受け取ってくれるようになった。スイーツのお店ばかり探しているから藤田には彼女が出来たのかと勘違いされて冷やかされたが、事情を話すととおすすめのケーキ屋さんやお菓子屋さんを見つけてすぐ教えてくれた。やっぱりアイツはいい奴だ。
「・・・あ。」
「ん?」
今日も藤田に教えてもらったお菓子屋さんでマフィンをばあちゃんと天音に1つずつ買ってきて、部屋まで持ってきた所だった。いつもだったらそれをドアの前で手渡して帰るのだが、珍しく、天音がドアを閉める前に口ごもる。
「なんか、言いたい事ある?」
「・・・。」
「いいよ、ゆっくりで。待つ。」
拳を握り締めて俯いてしまった天音にそう言って、ふああ、と欠伸を一つこぼす。
少しの沈黙の後、天音が小さく一つ深呼吸をしたのが分かった。
「・・・・・・下、で、食べる。」
俯いたままだったけれど、小さな声で確かにそう言った。内心とても嬉しくて表情に出てしまいそうなのを必死で堪えて、何でもないような顔で階段を下りた。いつも通り俺1人で降りてくるものだと思い込んでいたであろうばあちゃんは、嬉しそうな、でも泣きそうな、なんとも言えない表情で俺と天音を交互に見つめた。
「・・・お茶入れるからねえ、ちょっと待ってね。」
始めて用意された3つ目のコップはティーカップではなくマグカップで、ばあちゃんが使うにしては少し若すぎるそのデザインは、どう見たって天音のために買ってあったものだった。
それから1年かけて、天音に出来る事は徐々に増えていった。部屋から出られるようになって、ばあちゃんともご飯が食べられるようになった。電車にはまだ乗れないけれど、俺のアパートにも自転車で来られるようになった。学年的には高校1年生になり、通信制の高校にも通い始めた。天音がいない時に、ばあちゃんは本当にありがとう、と俺の手を握って涙を流したけれど、俺は何もしていない。頑張ったのは天音だし、頑張れたのは一度も急かすことなくずっと優しく見守ってくれていたばあちゃんがいたからだ。そう言えばばあちゃんはまだ涙を流して、俺もなんだか泣きそうになってしまった。
「天音、またぶっさいくな顔。」
「ちょっと失礼なんだけど。」
すっかり肌寒くなった大学2年生の冬。授業が終わってアパートに帰るとベットに寝転んで天音が漫画を読んでいた。こうやって彼が勝手に部屋にいることももう珍しくはなくて、大あくびをしながら俺を睨みつける。天音は本当に話すのが好きな子だった。どちらかといえば考えるよりも先に口が動いてしまうタイプで、出会った頃の天音がどれだけ本来の自分を閉じ込めていたのかを想像すると今でも切なくなってしまう。ご飯も徐々に食べられるようになり、まだまだ細いがでも前よりかは少し健康的になったように見える。けれど、眠れない夜は続いているようで。目の下に作った大きなクマは中々消えない。ふああ、と天音はまた大きな欠伸をした。
「今日はバイト?」
「そう。着替えたら出るかな。」
「そっか。夜までいてもいい?」
「いいよ。ばあちゃんにだけ連絡しとけよ。」
ふあい、と気の抜けた返事をして天音はまた漫画へと視線を戻す。着替えながら、俺も自分が眠れなかった夜の事を思い出していた。発表会や大事な大会の前の日は眠れなくなってしまうタイプで、不安な気持ちで布団の中で一生懸命目をつぶっていたっけな。なんだか悪い事をしている気持ちになって、ひとりぼっちなような気がして、必死で朝を待っていた気がする。小さい頃は母さんか父さんか、妹でもいいから起きてくれないかなあと、わざと寝返りをたくさんうったこともあったなあ、なんて。馬鹿だな、でも話し相手が欲しかったんだよな。そこまで考えて、あ、と一つのアイデアが頭に浮かんだ。
「・・・話し相手。」
「へ?」
「話し相手になってやればいいんだ、天音が。」
「え?何が?」
「だから天音が話し相手を探すんじゃなくて、話し相手になってあげんの。」
「いやだから、何の話?」
思いついたまま天音に説明すれば、彼の瞳は徐々に輝く始める。不意に出会った頃の彼の何も映していなかった真っ黒の瞳を思い出して、なんだか少し泣きそうになった。
「なるほど、眠れない夜のお相手ね!それすごくいい!のった!!」
「あ、でもあれだぞ、お前は話聞く側だからな、自分からベラベラ喋っちゃダメだからな。分かってる?」
「分かってる分かってる!」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、鼻歌を歌いながら天音はスマホとメモ帳を取り出してなにやら一生懸命メモを取り始めた。どうやら本当にとても乗り気のようだ。嬉しい反面、単なる思いつきで口走ってしまったが本当に大丈夫だろうか、と少し不安な気持ちになる。しかしそんな心配を他所に、天音は着々と準備を進めていった。
「ヒツジ電話番?いやなんだよそれ、ダサいだろ。」
「はあ!?可愛いじゃん!」
数日後にはホームページまで用意した天音は、俺の言葉に口を尖らせた。
「まず、なんで電話番?」
「・・・あー、それは、ちょっとね。」
最近の天音にしては珍しく、なにやらモゴモゴと口ごもる。・・・まあでも、そうか。銀行とかだってお昼とか交代で行くもんな、電話取れる人がいなくなったらどこでも困るか。なんて最近インターンで行った地方銀行の様子を思い出してそう言えば、天音が手を叩いて俺を指差す。
「あ、そうそう、それ。そういう事。」
「いや完全後付けだろ。」
「へへ。」
おどけたように笑って、「でもこれ可愛いでしょ!」と得意げに自作のホームページを見せてくれる天音に、俺も思わず笑ってしまう。そのまま天音のキラキラした勢いは止まることなく、ついに、電話番開始の夜を迎えた。
ルンルン、と効果音が目に見えそうな様子で天音はカーテンを開けて空を見上げる。
その日は満月だった。俺が住んでいるこの部屋はアパートの3階で、街の景色を見下ろすことが出来る。もうほとんど電気の消えている深夜の街を月の明かりがぼんやりと照らしていて、なんだかとても綺麗だった。
「千隼。」
「ん?」
「ありがとうね。」
「・・・なんだよ急に。」
急な言葉に思わず顔を背けてしまえば、天音も少し照れたように笑った。と、同時にプルル、と小さく着信音が鳴る。目を合わせて小さく頷けば、彼は微笑みながら人差し指でゆっくりとボタンを押した。
「はい、こちらヒツジ電話番です。」
あなたの眠れない夜を、教えてください。
「・・・天音、起きてる?」
ノックをして呼びかけるけど、やはり返答はない。無視されているのか、それとも寝ているのか。やっぱり俺が心配しすぎたかな。自分が地震にビビりすぎていただけかもしれないと少し恥ずかしい気持ちにもなる。まあ現代っ子だし、起きてたとしてもスマホでもいじってるかゲームしてるかな。俺も中学生の頃はよく夜更かししてたしな。なんてボーッと考えながら一応ドアノブに手をかける、と、予想に反してドアノブがクルッと回った。え、と思わず声が出てしまって、そのまま部屋の扉が開く。
部屋の中はやはり真っ暗だったが、窓から差し込む月の光が少しだけ部屋の中を照らしていた。俺の予想に反して、天音は寝てもいなかったしゲームもしていなかった。ベットの上にも勉強机の前にもいなくて、部屋の隅っこに彼の姿を見つける。
「天音?おい、大丈夫か。」
「・・・こ、こないで。」
月の光だけを頼りに部屋の奥へと進むと、蚊の鳴くような声で天音が俺を拒絶する。来ないでとは言われたものの、彼は部屋の隅っこで膝を抱えて小さく震えていて、そんな彼をこのまま放っておくことはどうしても出来なかった。天音は1人で恐怖に耐えていたのだ。スマホなんて、ゲームなんて、そんなことをする余裕もないくらい、怯えていたのだ。ゆっくりと近づいて、正面に少し距離をとって腰かける。
「地震、怖かったな。」
「・・・。」
「しかも夜だし、余計怖いからやめてくれって感じだよな。」
そのまま、俺は話し続ける。通っている大学の話、居酒屋のアルバイトの話、天音にとってはどうでもいいような事をベラベラと話し続けた。そのうち天音の震えが収まっていることに気づいて、心の中でほっと安堵のため息をつく。
「眠いよな。ベッド戻れよ、そろそろ寝よう。」
話し続けて俺の口がカラカラになった頃、俺の言葉に天音は小さく首を振った。反応があった事に驚いていれば、天音がゆっくりと口を開く。
「・・・ねれない。」
「どうして?」
「・・・い、いつも眠れない。夜は、眠れない。」
ずっと人と話していないからか、天音の声は小さくてガラガラだった。それでも言葉を紡ごうと、咳ばらいを繰り返して拳を握り締める。だから俺も、一生懸命彼の言葉を聞いた。
「・・・こわい。」
俯いたまま、天音はそうこぼす。何度も何度もその言葉を繰り返して、叫んでいる訳ではないのに俺にはそれが悲鳴のように聞こえた。
「夜は、怖い。自分が本当に生きているのか分かんない。」
「うん。」
「このまま朝が来なかったらどうしようって、ずっとここから抜け出せないんじゃないかって、こわい。」
「うん。」
「ひとりに、なりたくない。」
天音の声は震えていて、膝を抱え込む両手は力いっぱい握られていた。スウェットから覗く手首はびっくりしてしまうくらい細くて、そして傷だらけだった。この年で、彼は今まで一体どれだけの恐怖と戦ってきたんだろう。どれだけの寂しさと向き合ってきたんだろう、彼の隣には誰もいてくれなかったのだろうか、ひとりで、夜に怯え続けてきたのだろうか。
「天音。」
「・・・。」
「手、出して。」
俺の言葉に、天音は少し驚いたように息をのんだ。「ほら、手。」ともう一度言えば、俯いたままゆっくりと手を開く。俺もゆっくりと彼の左手を掴んで、上からティッシュをゆっくりと押し当てた。今日出来たばかりと思われる傷から、わずかに血が滲んていたからだ。天音も俯いたままだったけど、俺の手を振り払うことはしなかった。
俺も話さないまま、天音も黙ったまま、不思議な時間が流れる。窓から差し込む月明かりがほんのり部屋の中を照らしてくれていて、見上げれば今日は月がやけにはっきりと見えた。
「天音、見て、月。」
「・・・。」
「すんげえ綺麗だよ。」
俺の言葉に天音は俯いたままだった。別に満月という訳ではなくて普通の三日月だけど、空が晴れているからかとても綺麗に見えて、思わずじっと見入ってしまう。不意に、言葉がポロポロとこぼれだした。
「多分、多分だけどさ。眠れない夜はそんなに怖いもんじゃないよ。」
「え・・・。」
俺の言葉に、天音は少し戸惑ったような声を出す。三日月を見上げたまま、彼の手の温度を感じたまま、言葉を続ける。
「静かで真っ暗でなんだか一人ぼっちみたいな気がしちゃうけど、そんな事ない。待ってても待たなくても朝が来るし、眠れないのはお前のせいじゃないし、だから、ひとりで泣くなよ。じっと耐えるなよ。」
不意に視線を感じて天音の方を見れば、彼はずっと俯いていた顔を挙げていた。少し癖毛の前髪からのぞいた瞳は真っ黒で、不安げに揺れていた。少しハの字に曲がった眉毛は母さんの困った顔によく似ていて、そういえば美冬おばさんもよくこんな表情してたなあ、なんてぼんやりと思い出した。俺も、天音の目を真っすぐに見つめる。夜は怖い、怖いけど、でもきっと、怯える必要なんてない。
「眠れない夜を、勝手に敵にすんなよ。」
俺の言葉に天音は小さく息をのんで、そのままゆっくりと視線を窓の外に移した。三日月を眺める天音の横顔があまりに綺麗で、俺はまた美冬おばさんの甘ったるい香水の匂いを少し思い出した。
その日から俺は、週に1度は必ずばあちゃんの家に寄るようになった。寄る度にドア越しに天音に声をかけて、その日あったどうでもいい事を話した。藤田の髪色が青色になっていた話、バイトでお皿を割ってしまった話、駅の近くで上手いラーメン屋さんを見つけた話。意外と自分がペラペラと話が出来る事に気づいて、母さんの血をきちんと引いている事を感じて少し笑いそうになってしまった。最初は返事も何も返って来なかったけど、その内、少しずつ反応が返ってくるようになった。「へえ。」とか「ふうん。」ばかりだったけれど、大学の友人に教えてもらったケーキ屋さんの話をした時に初めて質問が返ってきて、天音が甘いものが好きだという事が分かった。
「はい、これ。」
「・・・ありがとう。」
「どういたしまして。」
そのうちドアを開けてくれるようになって、甘いものの差し入れを受け取ってくれるようになった。スイーツのお店ばかり探しているから藤田には彼女が出来たのかと勘違いされて冷やかされたが、事情を話すととおすすめのケーキ屋さんやお菓子屋さんを見つけてすぐ教えてくれた。やっぱりアイツはいい奴だ。
「・・・あ。」
「ん?」
今日も藤田に教えてもらったお菓子屋さんでマフィンをばあちゃんと天音に1つずつ買ってきて、部屋まで持ってきた所だった。いつもだったらそれをドアの前で手渡して帰るのだが、珍しく、天音がドアを閉める前に口ごもる。
「なんか、言いたい事ある?」
「・・・。」
「いいよ、ゆっくりで。待つ。」
拳を握り締めて俯いてしまった天音にそう言って、ふああ、と欠伸を一つこぼす。
少しの沈黙の後、天音が小さく一つ深呼吸をしたのが分かった。
「・・・・・・下、で、食べる。」
俯いたままだったけれど、小さな声で確かにそう言った。内心とても嬉しくて表情に出てしまいそうなのを必死で堪えて、何でもないような顔で階段を下りた。いつも通り俺1人で降りてくるものだと思い込んでいたであろうばあちゃんは、嬉しそうな、でも泣きそうな、なんとも言えない表情で俺と天音を交互に見つめた。
「・・・お茶入れるからねえ、ちょっと待ってね。」
始めて用意された3つ目のコップはティーカップではなくマグカップで、ばあちゃんが使うにしては少し若すぎるそのデザインは、どう見たって天音のために買ってあったものだった。
それから1年かけて、天音に出来る事は徐々に増えていった。部屋から出られるようになって、ばあちゃんともご飯が食べられるようになった。電車にはまだ乗れないけれど、俺のアパートにも自転車で来られるようになった。学年的には高校1年生になり、通信制の高校にも通い始めた。天音がいない時に、ばあちゃんは本当にありがとう、と俺の手を握って涙を流したけれど、俺は何もしていない。頑張ったのは天音だし、頑張れたのは一度も急かすことなくずっと優しく見守ってくれていたばあちゃんがいたからだ。そう言えばばあちゃんはまだ涙を流して、俺もなんだか泣きそうになってしまった。
「天音、またぶっさいくな顔。」
「ちょっと失礼なんだけど。」
すっかり肌寒くなった大学2年生の冬。授業が終わってアパートに帰るとベットに寝転んで天音が漫画を読んでいた。こうやって彼が勝手に部屋にいることももう珍しくはなくて、大あくびをしながら俺を睨みつける。天音は本当に話すのが好きな子だった。どちらかといえば考えるよりも先に口が動いてしまうタイプで、出会った頃の天音がどれだけ本来の自分を閉じ込めていたのかを想像すると今でも切なくなってしまう。ご飯も徐々に食べられるようになり、まだまだ細いがでも前よりかは少し健康的になったように見える。けれど、眠れない夜は続いているようで。目の下に作った大きなクマは中々消えない。ふああ、と天音はまた大きな欠伸をした。
「今日はバイト?」
「そう。着替えたら出るかな。」
「そっか。夜までいてもいい?」
「いいよ。ばあちゃんにだけ連絡しとけよ。」
ふあい、と気の抜けた返事をして天音はまた漫画へと視線を戻す。着替えながら、俺も自分が眠れなかった夜の事を思い出していた。発表会や大事な大会の前の日は眠れなくなってしまうタイプで、不安な気持ちで布団の中で一生懸命目をつぶっていたっけな。なんだか悪い事をしている気持ちになって、ひとりぼっちなような気がして、必死で朝を待っていた気がする。小さい頃は母さんか父さんか、妹でもいいから起きてくれないかなあと、わざと寝返りをたくさんうったこともあったなあ、なんて。馬鹿だな、でも話し相手が欲しかったんだよな。そこまで考えて、あ、と一つのアイデアが頭に浮かんだ。
「・・・話し相手。」
「へ?」
「話し相手になってやればいいんだ、天音が。」
「え?何が?」
「だから天音が話し相手を探すんじゃなくて、話し相手になってあげんの。」
「いやだから、何の話?」
思いついたまま天音に説明すれば、彼の瞳は徐々に輝く始める。不意に出会った頃の彼の何も映していなかった真っ黒の瞳を思い出して、なんだか少し泣きそうになった。
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「あ、でもあれだぞ、お前は話聞く側だからな、自分からベラベラ喋っちゃダメだからな。分かってる?」
「分かってる分かってる!」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、鼻歌を歌いながら天音はスマホとメモ帳を取り出してなにやら一生懸命メモを取り始めた。どうやら本当にとても乗り気のようだ。嬉しい反面、単なる思いつきで口走ってしまったが本当に大丈夫だろうか、と少し不安な気持ちになる。しかしそんな心配を他所に、天音は着々と準備を進めていった。
「ヒツジ電話番?いやなんだよそれ、ダサいだろ。」
「はあ!?可愛いじゃん!」
数日後にはホームページまで用意した天音は、俺の言葉に口を尖らせた。
「まず、なんで電話番?」
「・・・あー、それは、ちょっとね。」
最近の天音にしては珍しく、なにやらモゴモゴと口ごもる。・・・まあでも、そうか。銀行とかだってお昼とか交代で行くもんな、電話取れる人がいなくなったらどこでも困るか。なんて最近インターンで行った地方銀行の様子を思い出してそう言えば、天音が手を叩いて俺を指差す。
「あ、そうそう、それ。そういう事。」
「いや完全後付けだろ。」
「へへ。」
おどけたように笑って、「でもこれ可愛いでしょ!」と得意げに自作のホームページを見せてくれる天音に、俺も思わず笑ってしまう。そのまま天音のキラキラした勢いは止まることなく、ついに、電話番開始の夜を迎えた。
ルンルン、と効果音が目に見えそうな様子で天音はカーテンを開けて空を見上げる。
その日は満月だった。俺が住んでいるこの部屋はアパートの3階で、街の景色を見下ろすことが出来る。もうほとんど電気の消えている深夜の街を月の明かりがぼんやりと照らしていて、なんだかとても綺麗だった。
「千隼。」
「ん?」
「ありがとうね。」
「・・・なんだよ急に。」
急な言葉に思わず顔を背けてしまえば、天音も少し照れたように笑った。と、同時にプルル、と小さく着信音が鳴る。目を合わせて小さく頷けば、彼は微笑みながら人差し指でゆっくりとボタンを押した。
「はい、こちらヒツジ電話番です。」
あなたの眠れない夜を、教えてください。
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