ただ今ヒツジ電話番

夏目はるの

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はたらくということ

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「ただいま。」
「おかえり。」

今日の帰宅は21時前だった。美玲も今日は帰りが少し遅かったようで、久しぶりに一緒に夜ご飯を食べた。

「美玲、金曜日大丈夫そうだった?」
「うん。予定通り休み取れそうだよ。ようちゃんこそ大丈夫?有休、取りづらくなかった?」
「大丈夫大丈夫。どっか行きたいところある?」

俺の言葉に美玲はうーん、と腕を組んで眉を寄せる。考え込んでいるのかあまりにも険しい顔になっているから思わず笑ってしまった。そんな俺を見て、美玲も「なんで笑うの。」とすこし恥ずかしそうに笑う。

俺の名前は「陽」とかいて「ひかる」とすこし珍しい読み方をする。大学生の時、講義でグループワークをした時に同じグループになった美玲は俺の名前を読み間違えて、訂正すると「ごめんなさい。」と恥ずかしそうに笑った。その笑顔に一目惚れしたことを、今、急に思い出した。
その時に連絡先を交換して、付き合うまでにはかなりの時間を要した。美玲はとても人見知りで最初は中々心を開いてくれなかったのだ。それでも徐々に距離は縮まって、「ようちゃん。」という読み間違えは美玲だけが呼ぶ愛称みたいなものになった。

卒業して、美玲はずっとアルバイトをしていた本屋さんでそのまま就職した。本が大好きな美玲はそこでの就職になんの迷いもなかった。俺は機械メーカーの営業として働く事を選んだけれど、別に夢だったわけではないし、ただ内定をもらったから、それだけの理由だった。だからだろうか、時々美玲の事が無性に羨ましくなってしまって、そんな自分が情けなくて消えたくなることが、ある。




「ようちゃん、まだ寝ないの?」
「ちょっとこれだけ目通したくて。」

歯磨きを終えた美玲が心配そうにリビングを覗いてくる。パソコンに目を向けたまま、美玲に「おやすみ」と声をかけた。

「でも明日も朝早いし、寝た方がいいんじゃない?」
「大丈夫。すぐ終わるから。」
「でも・・・。」
「別に美玲は先に寝てればいいよ。」

あ、しまった、と思った。口調が冷たくなってしまったのが自分でも分かった。慌ててパソコンから顔を上げれば、そこにいた美玲は、いつもの笑顔で、笑う。

「そうする。ようちゃんもあんまり無理しないでね。」
「うん、ありがとう。」
「おやすみなさい。」

パタン、とドアが閉まって美玲の足音が遠ざかっていく。俺はなんだか途端にとても寂しい気持ちになって、慌ててパソコンに向き合った。

昨年から、少し大きな仕事も任されるようになった。その頃から仕事のことがなかなか頭から離れなくて、やり残しがないか気になってしまって、ソワソワして眠れないことがよくあった。そのうち「気になって眠れないくらいなら仕事をしてしまおう」なんて気持ちになって、家に持ち帰って仕事をすることも増えた。美玲はいつもそんな俺を心配してくれたけど、ずっと不安な気持ちでいるよりもこうやって確認できた方が自分の気持ちが楽で、そのうち、心配されるのが鬱陶しくなってしまった。美玲の心配しているような呆れているような顔も見たくなくて、目を合わせないまま「おやすみ」を言ってしまうことも増えていた。俺はちゃんと、気づいていた。




美玲の誕生日当日、外は清々しいくらいに快晴だった。彼女の希望で海を見にいくことになっていて、海鮮が大好きな彼女は朝からルンルンとお化粧をしていた。

車を走らせて、途中コンビニに寄る。飲み物とドライブのお供のお菓子を買って、ナビを設定して、その時、俺のスマホが鳴った。自分のではなくて会社用のものだ。美玲の顔がサッと暗くなったのが分かった。車を下りて電話に出る。

『はい、小平です。』
『悪い休みの日に。今日の会議資料、小平作ってくれたよな?』
『そうです。・・・もしかして何か不備ありましたか?』
『ちょっとな、データがさ、最新のじゃなくて古いのだったんだよ。全然俺の方で作り直そうと思ったんだけど、元データが小平しか持ってないなと思って。』

やってしまった、と冷や汗がこぼれた。今日会議は責任者も出席する少し大きなもので、瞬時に『今すぐ行きます。』と言葉が出る。

『いやいいよ、と言いたいところなんだけど俺もちょっと今日色々立て込んでて⋯、出勤できるならありがたい、けど、大丈夫か?』
『もちろんです、本当すみません。』
『悪い、助かる。』

電話を切って車に乗り込む。美玲に仕事になってしまったことを伝える、自分のミスがあって、先輩に迷惑かけちゃって、どうしても行かなきゃいけなくて、口だけがよく回った。その時の俺はもう仕事のことで頭がいっぱいで、それ以外のことはどこかへ飛んでしまっていた。

「ごめん本当に、この穴埋めは必ず⋯。」
「ようちゃん。」

「別れよう。」

突然の言葉に、一瞬全ての時が止まった。

今、なんて言った?
聞き返そうとしたのに声が出なくて、間抜けな顔で美玲を見つめてしまった。彼女はいつもと同じ表情をしていた、少し微笑んで、俺を見ていた。

「やっとこっち見た。」
「え⋯。」
「気づいてた?電話が終わって戻ってきてから、ようちゃん私の方一回も見ないまま喋ってたんだよ。スマホと時計だけ見て、ずっと喋ってたよ。」

俺が何かを言う前に、美玲はもう一度口を開く。

「別れよう、わたし達。」

なんで、急にどうして、そう言おうとして言えなかった。なんでって俺は本当に分かっていなかったのか?急にどうしてって本当に急だったのか?違う、俺は気づいていた。自分が美玲を蔑ろにしてしまっている事も、それを美玲が我慢してくれている事も、自分がその優しさに甘えてしまっていることも。

だから、俺は何も言えなかった。そんな俺を見て彼女は少し呆れたように笑う。

「私、自分の仕事が好きだよ、大変なこともあるけど、でも自分の好きなものに関われてとっても楽しいの。でもね、いつからそれをようちゃんの前では言えなくなった。」

俺が、そう言えないような雰囲気を作ってしまっていた。

「話せないことが溜まるとね、喉の奥が苦しくなるんだ。なんか詰まってみたいに苦しくて、そろそろ、溢れちゃいそうだなって。」

美玲が車のドアを開ける。ここからアパートまでなら歩いて30分くらいだから歩いてでも帰れるか、でも今日はこんなにも暑いから、美玲日傘とか持ってたっけな。ずっと欲しがってたカバン、プレゼントで買ってあったのにな、なんて変に冷静に頭が働く。頭だけ働いているのに、体は全く動かなかった。

バタン、と助手席のドアが閉まった。俺は、最後まで何も言えなかった。






「小平、これ目通しといて。」
「分かりました。」

しょぼつく目に耐えられなくなって、自動販売機で缶コーヒーを買う。はあ、とため息が零れた。俺が6年間付き合った彼女に振られようと、この世界は何も変わらない。よく行くコンビニの店員さんはいつも通り無愛想だし、仕事は相変わらず忙しいし、悲しくてもお腹は減るし、何も、変わらない。ブブ、とポケットに振動を感じて慌ててスマホを開く。メッセージの主は大学の時の友人の窪田くぼたで、思わず項垂れてしまった。あれから美玲と連絡をとったのは彼女が荷物を片付けに来る時の一度きりだ。自分から連絡すればいいのに、俺はそんなことも出来なかった。自分がどうすればいいのかもどうしたいのかも分からなくて、結局来るはずもない連絡を待ち続けてしまっていた。
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