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1.婚約破棄
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テオドシーネという名は仰々しくて、あまり好きではなかった。
栗色の髪に同じ色の瞳という外見の平凡さとも、ユフというシンプルな家名ともバランスに欠ける。
コンプレックスを跳ねかえすべく、名前に負けないように生きてやろうと決めたのが十二のとき。
それから自分なりに努力してきた。学問、マナー、花嫁修業における必須技能の数々。
十六の誕生日、ようやく立場にも名前にもふさわしい内面を整えられたと安堵したのに。
その名を、まさか婚約者から、こんなふうに呼ばれることになるなんて。
「テオドシーネ・ユフ、君との婚約は破棄することにした。俺はここにいるマリリンと、真実の愛を育むのだから」
ピエトロの声が広間に響く。
前半は冷たく、後半は甘く。まるで芝居の口上のようだ。ピエトロにとっては人生自体が華々しい舞台のようなもの。
集められた彼の取り巻きたちを見わたし、テオドシーネはどこか他人事のように考えた。
「君がそんなに酷い人間だとは思わなかった。俺を慕うマリリンに嫌がらせをくりかえし、侯爵家の権力をふりかざしておびえさせ……」
「本当に。怖くてたまりませんでした。でもピエトロ様がいらっしゃってくれたから……♡」
やや自己陶酔の気を見せつつピエトロが語るのに、マリリンは表情を暗くしたり明るくしたりしながら合いの手を打つ。
取り巻きたちもそうだとそうだと囃したてる。
この場にテオドシーネの味方はいない。
ピエトロはこの国の第一王子であり、王太子である。テオドシーネとは十二のころから四年間にわたって婚約関係にあった。
しかしそこに愛がないのは一目瞭然だった。
煌めく金色の髪と蒼海の瞳をもつピエトロは、派手さのない容姿のテオドシーネをあからさまに見下していた。立派な女性になろうと奮闘する様を笑っているようでもあった。
自分は特別な存在であることを、ピエトロは疑っていなかった。
ならば、婚約相手もまた、美しい者を――ということなのだろう。
ピエトロの腕を抱く令嬢に視線をやる。こんな状況で畏縮することもなく厭な笑みを浮かべる男爵令嬢。
たしかにマリリンは美しい。青みがかった深緑の髪はゆたかに艶めき、見ようによっては琥珀色にもなる瞳はピエトロの色彩を対照をもってひきたてる。顔立ちも身体つきもメリハリがあって、テオドシーネとは比べようもなかった。
気の多いピエトロも相当に入れ込んだ。結果がこの有様だ。
婚約者のいる相手に媚を売るマリリンにも、鼻の下をのばしてそれに応えるピエトロにも。何度もたしなめる言葉をかけたけれども、意味がなかった。
ピエトロはテオドシーネが諫言を重ねるほど頑なになり、ついにはテオドシーネを「悪の侯爵令嬢」と呼んだ。無邪気なマリリンに嫉妬しているのだと、王妃の座に執着しているのだと。
その物言いに危機感を覚えたテオドシーネは、彼が婚約を破棄する腹づもりであることを知った。
一方的に婚約破棄を通告するなどという暴挙、どちらに非があるかは一目瞭然だ。
いくらなんでも、と心の中で否定してはきたが。
今日、ついに恐れていたことが現実となったのだ。
けれどもテオドシーネは、恐れから目を逸らしていたわけではない。
「わたくしに異存の申せる立場ではありません。けれど、この婚約は国王陛下と我が父の同意のもとに結ばれたもの。そのような短慮が陛下の知れるところとなれば……」
「あぁ煩いうるさい! お前の説教は聞き飽きた! 俺とお前、父上にとってどちらが大切かくらい考えればわかるだろう。父上が俺の願いを許してくださらぬわけがない」
「……わかりました」
最後の忠告すらさえぎられて、テオドシーネはため息をつくと口を閉じた。
もう、ピエトロの心を変えることはできない。
格下の令嬢に婚約者を奪われ当の王太子から婚約破棄を突きつけられたとあっては、王都にテオドシーネの居場所はない。
こうなる予感を覚えてから、準備だけはしておいた。
屋敷へ戻り、父母に事の次第を告げ、前々から準備していたとおり叔父の治める伯爵領へひっこんで――。
気持ちを切り替え、今後の予定を考えるテオドシーネであったが、ピエトロとマリリンは彼女の沈黙を勝利の証ととらえたようだ。
「お楽しみはまだありますわ、テオドシーネ様」
意味深なマリリンの言葉にピエトロがうなずく。
「このまま独り身を腐らせては可哀想だからな。お前には新たな伴侶を用意した。シエルフィリード・クイア――公爵家の当主だ。どうだ、相手に不満はあるまい?」
この数年の恨みがほとばしるかのような、ねちっこい声色だった。あぁ、ピエトロは取り返しのつかないところまできてしまったのだと心が重くなる。
同時にテオドシーネの心臓を揺らしたのは、伴侶という言葉と、その相手の名前。
呆然とするテオドシーネの表情を、周囲はまるで見世物を楽しむかのようにながめる。
「シエルフィリード・クイア公爵閣下……」
「そうだ。光栄だろう」
その名はテオドシーネも知っている。
領地にひきこもりほとんど人前に姿を現さず、ときたま人に会えばその姿は獣であったとか、魔物であったとか、黒魔術を行っているとか、謎多き噂の絶えない人だ。
テオドシーネの物心ついたときには変人公爵として人々の口の端にのぼっていた。
年齢は二十も年上であったはずだ。
「すでに馬車が出立を待っている。さぁ行け」
くすくすと笑い声を響かせるマリリンの肩を抱き、ピエトロは頬が裂けそうなほどに口角をつりあげた。
栗色の髪に同じ色の瞳という外見の平凡さとも、ユフというシンプルな家名ともバランスに欠ける。
コンプレックスを跳ねかえすべく、名前に負けないように生きてやろうと決めたのが十二のとき。
それから自分なりに努力してきた。学問、マナー、花嫁修業における必須技能の数々。
十六の誕生日、ようやく立場にも名前にもふさわしい内面を整えられたと安堵したのに。
その名を、まさか婚約者から、こんなふうに呼ばれることになるなんて。
「テオドシーネ・ユフ、君との婚約は破棄することにした。俺はここにいるマリリンと、真実の愛を育むのだから」
ピエトロの声が広間に響く。
前半は冷たく、後半は甘く。まるで芝居の口上のようだ。ピエトロにとっては人生自体が華々しい舞台のようなもの。
集められた彼の取り巻きたちを見わたし、テオドシーネはどこか他人事のように考えた。
「君がそんなに酷い人間だとは思わなかった。俺を慕うマリリンに嫌がらせをくりかえし、侯爵家の権力をふりかざしておびえさせ……」
「本当に。怖くてたまりませんでした。でもピエトロ様がいらっしゃってくれたから……♡」
やや自己陶酔の気を見せつつピエトロが語るのに、マリリンは表情を暗くしたり明るくしたりしながら合いの手を打つ。
取り巻きたちもそうだとそうだと囃したてる。
この場にテオドシーネの味方はいない。
ピエトロはこの国の第一王子であり、王太子である。テオドシーネとは十二のころから四年間にわたって婚約関係にあった。
しかしそこに愛がないのは一目瞭然だった。
煌めく金色の髪と蒼海の瞳をもつピエトロは、派手さのない容姿のテオドシーネをあからさまに見下していた。立派な女性になろうと奮闘する様を笑っているようでもあった。
自分は特別な存在であることを、ピエトロは疑っていなかった。
ならば、婚約相手もまた、美しい者を――ということなのだろう。
ピエトロの腕を抱く令嬢に視線をやる。こんな状況で畏縮することもなく厭な笑みを浮かべる男爵令嬢。
たしかにマリリンは美しい。青みがかった深緑の髪はゆたかに艶めき、見ようによっては琥珀色にもなる瞳はピエトロの色彩を対照をもってひきたてる。顔立ちも身体つきもメリハリがあって、テオドシーネとは比べようもなかった。
気の多いピエトロも相当に入れ込んだ。結果がこの有様だ。
婚約者のいる相手に媚を売るマリリンにも、鼻の下をのばしてそれに応えるピエトロにも。何度もたしなめる言葉をかけたけれども、意味がなかった。
ピエトロはテオドシーネが諫言を重ねるほど頑なになり、ついにはテオドシーネを「悪の侯爵令嬢」と呼んだ。無邪気なマリリンに嫉妬しているのだと、王妃の座に執着しているのだと。
その物言いに危機感を覚えたテオドシーネは、彼が婚約を破棄する腹づもりであることを知った。
一方的に婚約破棄を通告するなどという暴挙、どちらに非があるかは一目瞭然だ。
いくらなんでも、と心の中で否定してはきたが。
今日、ついに恐れていたことが現実となったのだ。
けれどもテオドシーネは、恐れから目を逸らしていたわけではない。
「わたくしに異存の申せる立場ではありません。けれど、この婚約は国王陛下と我が父の同意のもとに結ばれたもの。そのような短慮が陛下の知れるところとなれば……」
「あぁ煩いうるさい! お前の説教は聞き飽きた! 俺とお前、父上にとってどちらが大切かくらい考えればわかるだろう。父上が俺の願いを許してくださらぬわけがない」
「……わかりました」
最後の忠告すらさえぎられて、テオドシーネはため息をつくと口を閉じた。
もう、ピエトロの心を変えることはできない。
格下の令嬢に婚約者を奪われ当の王太子から婚約破棄を突きつけられたとあっては、王都にテオドシーネの居場所はない。
こうなる予感を覚えてから、準備だけはしておいた。
屋敷へ戻り、父母に事の次第を告げ、前々から準備していたとおり叔父の治める伯爵領へひっこんで――。
気持ちを切り替え、今後の予定を考えるテオドシーネであったが、ピエトロとマリリンは彼女の沈黙を勝利の証ととらえたようだ。
「お楽しみはまだありますわ、テオドシーネ様」
意味深なマリリンの言葉にピエトロがうなずく。
「このまま独り身を腐らせては可哀想だからな。お前には新たな伴侶を用意した。シエルフィリード・クイア――公爵家の当主だ。どうだ、相手に不満はあるまい?」
この数年の恨みがほとばしるかのような、ねちっこい声色だった。あぁ、ピエトロは取り返しのつかないところまできてしまったのだと心が重くなる。
同時にテオドシーネの心臓を揺らしたのは、伴侶という言葉と、その相手の名前。
呆然とするテオドシーネの表情を、周囲はまるで見世物を楽しむかのようにながめる。
「シエルフィリード・クイア公爵閣下……」
「そうだ。光栄だろう」
その名はテオドシーネも知っている。
領地にひきこもりほとんど人前に姿を現さず、ときたま人に会えばその姿は獣であったとか、魔物であったとか、黒魔術を行っているとか、謎多き噂の絶えない人だ。
テオドシーネの物心ついたときには変人公爵として人々の口の端にのぼっていた。
年齢は二十も年上であったはずだ。
「すでに馬車が出立を待っている。さぁ行け」
くすくすと笑い声を響かせるマリリンの肩を抱き、ピエトロは頬が裂けそうなほどに口角をつりあげた。
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