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4.芽生え

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「では、あらためまして、この婚姻、お受けいたします」
「本当に? 本当にいいのか? 君の人生を縛ることになるのだぞ?」
 
 さして悩むこともなく、テオドシーネはこの仕組まれた婚姻を受け入れた。
 シエルフィリードはあっさり承諾を口にしたテオドシーネに恐慌をきたしたようだ。一生の選択をここでして本当によいのかと何度も念を押された。
 
 シエルフィリードこそ、自分を妻に迎えていいのだろうか。
 ピエトロになにか悪口を吹きこまれたのではないのかと尋ねてみれば、
 
「素行の悪さで婚約破棄の憂き目にあった娘を引きとってやってほしいと言われたが、来たのが君だし、君の素行が悪いなどと言えばぼくなんて……」
 
 とクヨクヨしていたので、どうやらピエトロの婚約者であったことは知らないらしい。
 家令が微妙な顔で口をもぐもぐさせていたので身辺調査はされているようだが、シエルフィリードに伝えていないのは使用人たちもやっと訪れた主人の結婚のチャンスを逃がす気はないのだろう。
 ピエトロの自分勝手なふるまいで嫌がらせのために嫁がされたなどと聞けば、シエルフィリードはテオドシーネを丁重にユフ家に送り返してしまうだろうから。
 
 
 翌朝にはユフ家へ手紙を書き、王太子の企みを呑むこと――クイア家当主シエルフィリードに寄り添うつもりであることを説明した。ただし事情が事情だけに、式は行わず、ただ婚姻誓約書を王家に提出するだけにとどめるつもりであることを書き、その手配も依頼した。
 
(お父様、お母様も、しばらくは来てもらわないほうがいいわね……シエルフィリード様を見たら、お互いに腰を抜かしてしまうに違いないわ)
 
 誓約書と輿入れの家具や衣類のみを届けてもらい、顔合わせは時機を見てから。変に動きまわってピエトロを刺激したくはない。
 もう王都に自分の居場所はないのだ。
 だからといって自棄ヤケになって婚姻を承諾したわけではないが、どうしても戻りたいとも思えない。
 
 どうせ愛のない政略結婚上等でピエトロのもとへ嫁ぐ気だったのである。
 いまの状況は、シエルフィリードという夫は、幸運に恵まれたといえる――。
 
 たぶん。
 
 
***
 
 
 馬でなくても、かぶりものは虎でも、ドラゴンでも、ゴブリンでもいい、とシエルフィリードは説明したが、やはり一番好きなのは馬であるようだった。
 
 細長い馬のおもては、中に入ったシエルフィリードの顔よりも上に相手の視線をずらす。テオドシーネもつい馬の顔を見ようとして顔をあげてしまう。それが、気のせいでも視線が合うことがなく、安心するのだ。
 だから家令もまずかぶりものコレクションのうちの馬を捨てさせようとしたわけである。なかなか業がふかい。
 
「旦那様……!! どうか、どうか奥様の前では、これは……!!」
「待って、セバスチャン」
 
 翌日、テオドシーネはふたたび馬のたてがみをつかんで泣きすがる家令セバスチャンを制し、なだめた。
 シエルフィリードにとってはこの結婚は相当な環境の変化だ。そこで心安らげるアイテムまでとりあげてしまっては、本当によりどころがなくなってしまう。
 
「馬のかぶりものはこのままにしておきましょう」
 
 その代わり、とテオドシーネは交換条件を出した。
 
「互いを愛称で呼びあうことにいたしませんか。わたくしはシェル様とお呼びしますから、わたくしのことはテオと呼んでください」
「……」
 
 シエルフィリードはテオドシーネを見た。おそらく。実際には馬の鼻面に見下ろされている光景なのだが、かぶりものの内部ではシエルフィリードが必死の顔をしているに違いない。
 
 シエルフィリードからの返事はなかった。
 無言のまま、数分の時が流れる。
 
 そして、二人を見守る家令の眉がもうこれ以上は下がるまいというところまできて。
 馬のかぶりものの奥から、ようやく弱々しい声が聞こえた。
 
「テオ……」
 
 おずおずと名を呼ばれる。
 その呼びかけは、これまでにされたどんなものよりもくすぐったい心地がした。
 
「はい、シェル様。これからはそのようにお呼びください」
 
 笑いかければ、シエルフィリードは大きくうなずいた。関節を持たない馬の首が上下にがくんがくんと跳ねる。
 顔は見えないけれども精いっぱいの同意を感じて、テオドシーネはまたほほえんだ。うなずきがいっそう大きくなる。
 その拍子に、馬のかぶりものが脱げて飛んだ。
 
「あ!!」
 
 一瞬見えたシエルフィリードの表情は、すぐに驚愕にとってかわられた。
 あわあわとこの世の終わりのような顔をしてかぶりものを拾おうとするが家令にとりあげられ、シエルフィリードは両腕で顔を覆う。
 見えているのは耳だけだが、その耳は真っ赤だ。
 
 しかしテオドシーネは表情を変えない。
 
「わたくしのすごし方はシェル様にお任せいたします。シェル様のお気持ちが苦しくないようにとりはからってください」
 
 ただにこやかな笑顔でそれだけ言って、頭を下げると部屋を出た。
 真顔をたもったまま自室に戻り、音を立てぬよう扉を閉め、それからようやく侍女たちを置いてきてしまったことに気づいた。
 優秀な彼女たちは扉の外でテオドシーネの気持ちが収まるのを待っていてくれるのだろう。
 
 そう思った途端、ボッと顔から火が噴いた。
 馬が脱げた瞬間の、シエルフィリードの顔。
 
 本当に自分より二十も年上なのかと疑いたくなるほどの無邪気なよろこびを浮かべ、照れて薄桃色の肌はつやっつやだし、唇はぷるんぷるんだった。かぶりものの保湿効果のおかげであろう。
 彼が天使と見まごうほどの美貌の持ち主であることを、テオドシーネはいまさらながらに実感した。
 最初に会った日には衝撃のほうが大きくて麻痺していた感覚が、じんわりと浸透していく。
 つまりは。
 
(ものすごく……かわいかった……)
 
 ということである。
 公爵閣下に申しあげることでも、突然の夫にいだく感情でも、ましてや三十六の男に告げる賛辞でもないのはわかっているのだが。
 勝手に口元がゆるんでしまう。
 
(かわいかったぁぁああ~~~~!!)
 
 ドキドキと鳴る胸を押さえ深呼吸をする。
 これまでピエトロには感じたことのない気持ちが、心の底に芽吹いていた。
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