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12.クロンヘイム家
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クロンヘイム家は、国王の兄が立てた家である。王位継承権を弟に譲った彼は、静かな暮らしを望み、王都から遠く離れた国の東端に領地を得てそこで暮らした。
それからもう、四十年にもなる。
クロンヘイム家に関する事柄は口にすることを憚られるようになり、世代が変わるとともに貴族たちの記憶からも消え去ってしまった。
触れてはいけない家の名は、いつしか侮蔑をもって〝白豚〟の名を冠されるようになり、しかしそれに反論するだけの気力もなく、ノアは領地から出ようとはしなかった。
「……ウルリカがやってこなければ、あのままでよかったのだが」
貴族の誇りを持つウルリカに、ノアは心を打たれた。
一生踏むまいと思っていた王都の土を踏んだのはひとえにウルリカを守りたかったから。
「ただ、それには心の準備と身体の準備が必要だったからな……ひと月姿を消していたんだ。悪かった」
「いえ」
「むちむちじゃなくなって悪かった」
「はい……」
「そこは否定しないのだな」
半眼になるノアに、ウルリカはこほんと咳払いをして目を逸らした。
貴族たちに衝撃を与えた舞踏会が終わって、一夜が明け、ふたりは王宮の一室で向きあっていた。
これまでの経緯を、ノアはウルリカに説明した。
国王へ直談判し、侯爵を説き伏せてウルリカとの結婚を認めさせた。
パトリックに追随すべきかを悩みつつあった侯爵は、国王の心が動いたと見るやすぐに従ってくれたという。
ついで、パトリックを扇動したと思われるマルメル男爵家に捜査の手がのびた。
「王家転覆の狙いがあったらしい。彼らは国外追放になるだろう」
王宮内で貴族に対して行われる裁判を見たパトリックは、自身の立場が揺らいでいることに気づいた。顔面蒼白になってウルリカを探していたそうだ。
ノアが寸前までウルリカをクロンヘイム領に匿っていたのは正しかったのである。
「それにしてもどうして〝クロンヘイム家〟は禁句のように……? 国王陛下のお兄様の家なのですよね」
「それはまあ、父のせいだな」
「王兄殿下の?」
「王位を譲った、と言ったが……実は駆け落ちして、国を出たんだ」
「まあ」
「その相手が、昨夜も言ったように隣国の姫君で」
「それは国際問題なのでは?」
「いや、隣国にとってはよい縁談だったのだ。ただ、先代国王……俺のお祖父様が大反対して揉めたらしくてな」
どういう意味なのだろうかとウルリカが首をかしげると、ノアは手帳から一枚の紙を取りだした。厚めの紙には、よりそう二人の肖像が描かれている。
一人は、今のノアに似ていた。体格のよい、はっきりとした顔立ちで、国王にも似ている。これが王兄殿下なのだ。
そしてもう一人は、クロンヘイム領での……つまり、羊のころのノアに似ていた。夫を抱え込むように抱きよせている彼女の身体は、夫の三倍ほどあった。
「父上は好みが独特な方でな……」
「……ノア様は、ご両親どちらにも似られたのですね……」
「次期国王が隣国の姫君と駆け落ちでは外聞が悪いから、弟に王位継承権を譲り、隣国との国境に公爵領をいただくという条件で戻ってきた……と、そのように聞いている」
それがあの遠くて小さくて穏やかなクロンヘイム領の理由だったのだ。
「国王陛下には初めて会ったんだ。ウルリカを手放すことはできない、だが国のために使い潰すことも望まない、と悩んでおられたようだった」
パトリックが王の器でないことは国王にもわかっていた。それでもウルリカがいれば、という親心もあったのだという。
王の目を覚まさせたのは、パトリックが起こした婚約破棄事件だった。
「国王陛下が……そうだったのですね」
「君を認める者はちゃんといたんだ」
ノアの青い目がやさしく細められた。
心から喜んでくれているとわかる表情に、ウルリカの胸が熱くなる。
あふれそうになる涙を拭ってやると、ノアはウルリカの手をとった。
「昨日も言ったが……俺と結婚してほしい」
ウルリカはノアを見つめ返した。
羊みたいでなくなってしまった彼は、輝くような貴公子になった。真剣な眼差しで見つめられると、鼓動がうるさくなる。
頬に血がのぼるのがわかった。
(わたくし、幸せだわ)
熱くなって、ふやけてしまったかのように表情がゆるむ。うまくできているかわからないけれど、これが心からの笑顔というものだろうとウルリカは思った。
「ウルリカ……」
「変ですね、心臓がドキドキします。でも、それが嫌ではないのです」
むしろ照れくさくて、嬉しい。
「ノア様なら、羊でも、羊じゃなくても……わたくし、おそばにいたいと思います」
「では……!」
「はい、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
ぱっと顔を輝かせ、ノアは握っていた手を引きよせるとウルリカを抱きしめた。
柔らかい髪が頬に触れる。
と思ったら、唇が重なった。
……ちなみに、幸せそうな顔でたっぷりと口づけを落としたノアは、数秒後、ふと気づいた顔になった。
「……ちょっと待て、羊ってなんだ?」
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
それからもう、四十年にもなる。
クロンヘイム家に関する事柄は口にすることを憚られるようになり、世代が変わるとともに貴族たちの記憶からも消え去ってしまった。
触れてはいけない家の名は、いつしか侮蔑をもって〝白豚〟の名を冠されるようになり、しかしそれに反論するだけの気力もなく、ノアは領地から出ようとはしなかった。
「……ウルリカがやってこなければ、あのままでよかったのだが」
貴族の誇りを持つウルリカに、ノアは心を打たれた。
一生踏むまいと思っていた王都の土を踏んだのはひとえにウルリカを守りたかったから。
「ただ、それには心の準備と身体の準備が必要だったからな……ひと月姿を消していたんだ。悪かった」
「いえ」
「むちむちじゃなくなって悪かった」
「はい……」
「そこは否定しないのだな」
半眼になるノアに、ウルリカはこほんと咳払いをして目を逸らした。
貴族たちに衝撃を与えた舞踏会が終わって、一夜が明け、ふたりは王宮の一室で向きあっていた。
これまでの経緯を、ノアはウルリカに説明した。
国王へ直談判し、侯爵を説き伏せてウルリカとの結婚を認めさせた。
パトリックに追随すべきかを悩みつつあった侯爵は、国王の心が動いたと見るやすぐに従ってくれたという。
ついで、パトリックを扇動したと思われるマルメル男爵家に捜査の手がのびた。
「王家転覆の狙いがあったらしい。彼らは国外追放になるだろう」
王宮内で貴族に対して行われる裁判を見たパトリックは、自身の立場が揺らいでいることに気づいた。顔面蒼白になってウルリカを探していたそうだ。
ノアが寸前までウルリカをクロンヘイム領に匿っていたのは正しかったのである。
「それにしてもどうして〝クロンヘイム家〟は禁句のように……? 国王陛下のお兄様の家なのですよね」
「それはまあ、父のせいだな」
「王兄殿下の?」
「王位を譲った、と言ったが……実は駆け落ちして、国を出たんだ」
「まあ」
「その相手が、昨夜も言ったように隣国の姫君で」
「それは国際問題なのでは?」
「いや、隣国にとってはよい縁談だったのだ。ただ、先代国王……俺のお祖父様が大反対して揉めたらしくてな」
どういう意味なのだろうかとウルリカが首をかしげると、ノアは手帳から一枚の紙を取りだした。厚めの紙には、よりそう二人の肖像が描かれている。
一人は、今のノアに似ていた。体格のよい、はっきりとした顔立ちで、国王にも似ている。これが王兄殿下なのだ。
そしてもう一人は、クロンヘイム領での……つまり、羊のころのノアに似ていた。夫を抱え込むように抱きよせている彼女の身体は、夫の三倍ほどあった。
「父上は好みが独特な方でな……」
「……ノア様は、ご両親どちらにも似られたのですね……」
「次期国王が隣国の姫君と駆け落ちでは外聞が悪いから、弟に王位継承権を譲り、隣国との国境に公爵領をいただくという条件で戻ってきた……と、そのように聞いている」
それがあの遠くて小さくて穏やかなクロンヘイム領の理由だったのだ。
「国王陛下には初めて会ったんだ。ウルリカを手放すことはできない、だが国のために使い潰すことも望まない、と悩んでおられたようだった」
パトリックが王の器でないことは国王にもわかっていた。それでもウルリカがいれば、という親心もあったのだという。
王の目を覚まさせたのは、パトリックが起こした婚約破棄事件だった。
「国王陛下が……そうだったのですね」
「君を認める者はちゃんといたんだ」
ノアの青い目がやさしく細められた。
心から喜んでくれているとわかる表情に、ウルリカの胸が熱くなる。
あふれそうになる涙を拭ってやると、ノアはウルリカの手をとった。
「昨日も言ったが……俺と結婚してほしい」
ウルリカはノアを見つめ返した。
羊みたいでなくなってしまった彼は、輝くような貴公子になった。真剣な眼差しで見つめられると、鼓動がうるさくなる。
頬に血がのぼるのがわかった。
(わたくし、幸せだわ)
熱くなって、ふやけてしまったかのように表情がゆるむ。うまくできているかわからないけれど、これが心からの笑顔というものだろうとウルリカは思った。
「ウルリカ……」
「変ですね、心臓がドキドキします。でも、それが嫌ではないのです」
むしろ照れくさくて、嬉しい。
「ノア様なら、羊でも、羊じゃなくても……わたくし、おそばにいたいと思います」
「では……!」
「はい、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
ぱっと顔を輝かせ、ノアは握っていた手を引きよせるとウルリカを抱きしめた。
柔らかい髪が頬に触れる。
と思ったら、唇が重なった。
……ちなみに、幸せそうな顔でたっぷりと口づけを落としたノアは、数秒後、ふと気づいた顔になった。
「……ちょっと待て、羊ってなんだ?」
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
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