ヒのないところに

崎田毅駿

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2.焚きつけ

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 数日後、晴菜が僕に対して口を開いた。夜の八時過ぎ、書斎に籠もり、持ち帰った仕事を片付けているときだった。
「……ねえ、お父さん」
 まったく予期していなかった突然の呼びかけに、僕は本当に驚いた。一瞬だけ、希望の光を見た気がした。
 ドアの方を振り返ると、晴菜だけでなく、澄江も立っていた。娘はいつもに比べて俯きがちで、表情はまだよく見えない。一方、妻は戸惑いを伴った硬い表情ををしていると感じた。
 次に、娘の久しぶりの呼びかけが、決して優しい言葉ではないことを察した。顔を起こし、彼女は言ったのだ。
「私、男の子だったらよかったの?」
 背筋が凍るような質問だった。
「……どういう意味だい?」
 ある程度分かっていながら、僕はとぼけてそんな風に聞き返した。
 晴菜は静かにこちらを見据えた。僕の反応を探るかのように。そしてやおら、踏ん切りが付いたみたいに言葉を紡ぐのを再開した。
「聞いていたんだよ、私。お父さんもお母さんも、事故の直後にそう言ってたじゃない? 『男の子だったらまだましだったのに』って」
 ずきん。
 心臓が跳ねるのを自覚した。あの時の僕らの会話を晴菜が聞いていたなんて。僕は知らなかった。妻も知らなかったに違いない。その証拠に、両手で口元を覆ったまま硬直している。
「晴菜、違うのよそれは――」
「言い訳しないで」
 晴菜の声は意外にも淡々としていた。けれども、そこには深い痛みが滲んでいるように思えてならない。
 しばらく痛いほどの沈黙が続く。その痛みは、晴菜の感じている痛みに比べれば取るに足りないものなんだろうけれども、それでも僕は答えるべき言葉を失っていた。あの日あのとき、病院の廊下で交わしたやり取りが、否応なしに思い起こされる。
 あれは確か、晴菜が最初の手術を終えたあとだった。執刀医から予定した通りに無事終了したという言葉をもらい、ほっとする。そのすぐあとに続いた、これから経過を診ていくことになりますというフレーズに、痕跡がまだどうなるか分からないのだと理解した。言うなれば、宙ぶらりんの状態に、僕らも晴菜も置かれていた。

 あのときの僕たち夫婦は気が動転していた。どうしようもない状況の中で、何かにすがるように、そんな言葉を口にしただけだった。
 無論、本心じゃなかった。晴菜が男の子だったらよかった、なんて思ったことは一度もない。あのときはただただ、火傷の跡が残るかもしれない、男性だったならまだしも、女性の顔や腕など、傍目から分かる箇所に傷が残ったら……よくない未来を描いてしまってつい、意味のない愚痴がこぼれてしまった。
 だけど、僕らの口からそんな心ないフレーズが出たのは確かだし、晴菜はそれを覚えている。
 今になって、また思い知らされた。僕は火傷を負う原因を作っただけでなく、その後の不用意な言葉を吐き出したことで、晴菜にさらなる痛み、苦しみを重ねてしまっていたのだ。それが、どれほど時間が経とうとも、娘の心の中から消えることのない傷を作る最後の一押しになったのか……。
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