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緩慢な異変
しおりを挟む茎と刃元の境目に指を引っ掛け、刀を引き抜く。
軽く回し、逆手に構え、三度振るう。
掌へと伝わる軽い衝撃。ほぼ同時に響く、鼓膜を刺す硬質な金属音。
音も無く飛び出して来た仕掛け矢が五本六本、からからと床に散らばった。
「お見事。流石、大したものだ」
「こんな薄暗い中、よくもまあ正確に打ち落とせるな……」
手中で暫し刀を弄んだ後、再び背に戻す。
足元の矢を一本拾った。
つや消しの黒で、鏃が無い。鉄拵えだが妙に軽く、恐らく中は空洞。
刺さったところで大した怪我も負わぬだろう、虚仮脅しの仕掛け。
……先程から、万事この調子。
最初の水といい、ここへ来るまで幾つか踏んだトラップといい、対侵入者用の罠であるにも拘らず、まるで殺意が感じられない。
故にこそ真意を汲み取れず、却って気味が悪い。
夢魔が一体、何を企んでいるのか。
今のまま奥へ奥へと進んでしまって、本当に大丈夫なのか。
そんな形持たざる不安が胸中にて渦巻き、落ち着かない気分にさせられる。
或いは、それが目的であろうか。
疑心を煽り、猜疑を掻き立て、精神的な消耗を強いる。性根の腐りきった悪魔どもが、如何にも好みそうな手口だ。
何にせよ、此方は敵陣に入り込んだ側。
攻め手と言えば聞こえは良いが、地の利があるのは間違い無く相手の方。
一歩先でどう転ぶかすら、全くの不明瞭。
ポケットに手を突っ込む。深く静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
否が応にも高まってしまう緊張を適度に整え、心を鎮める。
満を持して夢魔と対面したその時、疲れて動けませんでは笑い話にもならない。
体力の長続きしない私は、未だ終点が見えず、あとどれくらい道が続くのかも分からぬ現状、少しでも温存に努めるべき。
懐から、コンパスと懐中時計を引っ張り出す。
歩いた時間、進んだ方角、私の平均的な歩幅などを頭の中で弾く。
ぼんやり浮かぶ大体の現在位置、入り口からここに至るまでの地図。
かなり複雑な構造。罠の存在も考えて、少なくとも左手法では抜けられそうになかった。
鬱陶しい限り。まさしく陰湿な夢魔の住まいに相応しい。
壁面に耳を当てながら、指先で叩く。暫く一本道が続きそうだ。
なんとはなし、コートの裾を払う。あれだけ濡れていたにも拘らず、いつの間にか殆ど乾いていた。
幾ら水捌けの良い生地と言えど、少し奇妙に思う。
下手すればアルコールにも並ぼう揮発性。無味無臭だったが、もしかすると、ただの水ではなかったのやも知れない。
…………。
まあ、いい。毒でなければ構わない。構っていられない。
後ろの二人を促す。ローガンが何か言ってるけれど、どうせ聞く価値も無い戯言だろうから聞き流し、歩き始める。
あぁ、それにしても――身体が、熱い。
歩く。
石床に靴音が矢鱈と響く。
歩く。歩く。
ワイヤートラップを見付けたので、跨いで避ける。
ローガンが引っ掛かった。馬鹿な男だ。
「いや言えよ!? 死ぬかと思ったわ!」
ちゃんと言った。言い終わる前に引っ掛かってたけど。
それに助けてあげたんだから、そう目くじらを立てないで貰いたい。
……歩く。歩く、歩く、歩く。
懐中時計を見る。入り口を発ってより既に三時間。罠を警戒しながらの足運びとは言え、結構な距離を進んだ筈。
果たして、いつまで続くのやら。些か辟易してきた。
「なあ嬢ちゃん……嬢ちゃん!」
ふと、ローガンに呼び止められる。
背中を触られそうになったから、振り返り様、数歩ほど距離を取った。
「おりょ?」
触るな。背中は特に。
軽く撫でられただけで、ぴりぴりと胎の奥が痺れるんだ。
ついでに、うっかり刀に触れれば耐熱布越しであっても彼が火傷してしまう。
こんな下らないことで怪我人など、出したくない。
――なに?
「な、なんか怒ってねぇか嬢ちゃん……よく分からんが、悪かったよ。だから機嫌直せって、な?」
低頭するローガンだが、生憎とその態度は此方の苛立ちを助長させるだけだ。
理由も分からず謝るな。日和見を私は好まない。芯の無い男など獣にも劣る。
だからと言って、男の好みを聞かれても返答に困るが。
取り敢えずもう一度、何の用か尋ねてみた。
「お? あーいや、少し休まねぇかってな。ここまでずっと歩き通しだったしよ」
休憩。小休止、か。
言われて漸く気付く。胸の内で幾度も体力の温存を繰り返しておきながら、考えてすらいなかった。
強行軍など愚の骨頂。何事にも適度な休息は不可欠。
思えば長らく黙りこくったままのサファール女史を窺ってみれば、表に出さぬよう取り繕ってはいるものの、隠しきれぬ疲労の色。
恐らくローガンは彼女を気遣い、休憩の提案をしたのだろう。
情けない。こいつの方が、よほど周りを見てるじゃないか。
冷静に振る舞っていたつもりだったが、まさしくつもりに過ぎなかったらしい。
賢しらに思案を巡らせたところで、所詮、夢魔を前に感情を凪ぐなど私には無理な芸当か。滑稽な限りだ。
――そうね。どこか、腰を下ろせそうな場所を見繕いましょう。
自嘲を呑み込み、溜息混じりに呟く。
抜いた刀の切っ先で床を叩き、耳を澄ませた。
幾らか進んだあたりに、開けた空間を探り当てる。
見通しが利けば、何か起きた際も対処がし易い。休むには御誂え向きだ。
ローガンとサファール女史に向けて顎をしゃくる。
振り返りながら、手の甲で首筋を拭う。
……熱い。身体が熱い。
汗ばんだ喉が、強く渇きを訴えていた。
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