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17.邂逅
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馬車から降り立った女性の顔に思わず見入ってしまう。
どうしてだとか、何故だとか、問い質したい言葉がいくつも頭を過るが何ひとつ声に出すことが出来ない。
身体ごとこちらに向き直った女性もまたカレンの顔をじっと見つめていた。
「こんなところで何をしているの?」
視線を顔から足元へ、そしてまた顔へと戻した女性が声を発した。
どう答えるべきか。そもそも答えて良いものか。
「私はね、お食事をしてきたところよ」
細く白い指先が慣れた手つきで扇子を開き、ゆるりゆるりと優雅に仰ぎ出す。その風に煽られた金髪が陽光を眩く反射させた。
「お相手は誰だと思う?」
穏やかな口ぶりとは裏腹に、カレンを捉える双眸はじっとりと重たく暗い。
その眼差しに絡め取られてしまったかのように、カレンは返事はおろか、身動ぎひとつ出来ずにいた。
ふっと女性の唇が緩む。高貴なドレスを身に纏った婦人に似つかわしくない形に歪んだ。
「伯爵様よ、伯爵様。本来あなたが嫁ぐ予定だった、あの方よ」
流れるような動作で扇子を畳むと、一定のリズムを刻むように掌に打ち付ける。周囲は他の雑音で溢れているはずなのに、カレンの耳にはその耳障りな音しか聞こえてこない。
もう公に母と呼ぶことが出来ない女性は反応を示さないカレンを見る目に冷たい色を宿した。
「どうして私がここにいるのか、あなたにわかるかしら。領地に帰らせてもらえないの。伯爵様のお呼びが掛かるから王都から離れられないの」
耳障りな音と共に、女性の、イノール子爵夫人の声色も次第に強まっていく。
人通りが多いわけではないが全くの無人というわけでもない。付近の店舗には直立不動で店を守る男性たちだっている。詳細を聞き取れなくとも何かしらの揉め事が生じたのは明白だろう。
夫人の後ろに控える御者が狼狽しているが彼の身分では主人を止める術はなく、それはカレンにしても同じことで。関係を絶った母を制止する方法が何も思い浮かばない。歯止めの効かない夫人は更に言葉を募らせた。
「何故お呼びが掛かるのか、理由はわかるかしら。わかるわよね? あなたがいたからこそですものね」
掌を打つ音が止んだ。傷も荒れも知らない両の指が強く扇子を握り締める。
「あなたのその黒髪のせいで、私は身持ちが悪い女扱いよ。悪いことなんて何もしていないのに。その黒髪。あなたが黒髪で生まれてきたばっかりに」
口調が早まるに従って語気も鋭さを増す。このままでは彼女の主張が赤の他人にまで漏れ聞こえてしまう。しかし当の本人はそれすらもお構いなしで一層声を荒げていく。
「旦那様は見て見ぬ振り。何もして下さらない。あなたが生まれてから、ずっとずっとそうよ」
「お、奥様、どうかお声を小さく……」
「どうして私の邪魔ばかりするの。人の幸せを根こそぎ奪って。あなたさえ、あなたさえいなければ!」
足を縫い留められたかのように一歩も動けずにいるカレンは、腕を大きく振りかぶる夫人の動きから目を離せなかった。
扇子を投げ付けるつもりなのね、と他人事のように思う。
それで溜飲が下がるのかしら、とも。
しかし夫人の腕が振り下ろされることも、扇子がカレンにぶつけられることもなかった。夫人とカレンの間に、馴染みとなった深緑の制服が割り込んだから。
「お話しのところを失礼します、ご婦人」
(あぁ……聞かれてしまったわ……)
その声までもが馴染みのあるもので、一瞬にしてどん底に突き落とされる。
庇うようにカレンの前に立ち塞がっている広い背中が、這い上がることを許さない巨壁のように見えて手足の指先がすっと冷えていく。
「そのような場所に停車されては通行の妨げとなります。速やかにご移動願えますか?」
いつものような諭す口ぶりが子爵夫人に作用したのかはわからない。カレンにはレグデンバーの背中しか見えないのだから。
しかし御者の方には通じたのか、慌ただしい靴音に続いて蹄と車輪がゆっくりと音を立てる。そこでようやく身体を動かすことを思い出したカレンはレグデンバーの影から前方を覗き見て、またも全身を強張らせる。
確かに馬車は道端に寄せるように移動したが、子爵夫人は一歩も動かずにじっとカレンだけを見据えていたからだ。
「良いご身分ね、カレン」
皮肉めいた言い回しだが、また穏やかな口調に戻っている。
「あなたが伯爵様の元へお行きなさいな。それがあなたの本来のお役目でしょう? あなたに出来ることなんてそれくらいなのだから」
騎士を、それも銀の腕章を付けた騎士団副団長を前にしても夫人の言葉は止まらなかった。どこか愉快げな雰囲気すら漂わせている母親にぞくりとする。
第三者に彼女の言葉はどう聞こえるのだろう。
全てを聞かずとも貴婦人とカレンの間にただならぬ因縁があることは察せられるに違いない。
事情を知らない人は何を信じ、どう捉えるのか。
(もう何も言わないで……)
足元が崩れていく心地だった。
世間を知らない無知な自分が周囲に助けられて築いてきた小さな居場所。ようやく生きる喜びを見出だせたというのに、それすら奪われて踏み荒らされていく。
「込み入ったお話をするには、この場は不適切でしょう。然るべき場を整えられるのがよろしいかと思いますが」
レグデンバーの平時と変わりない冷静な言葉運びがカレンの意識を引き戻した。
領地にいた頃から言われるがままでやり過ごすことしか出来なかったカレンにとって、母の言葉を断ち切る存在は初めてだった。
「大した用件ではございませんの。こちらで十分間に合っておりますわ」
子爵夫人の視線がようやく剥がれる。
レグデンバーに向けられた微笑みは文句の付け所がないような貴婦人のそれで、先程までカレンに悪口を向けていた人物なのかと疑わせるくらいに嫋やかだった。
これでは彼女の言葉が正当性を帯びるのでは、と不安に陥りかけたのだが。
「人は大袈裟を好むものです。面白おかしく吹聴されてはご家名に瑕が付くのでは?」
カレンが知るレグデンバーには珍しい、どこか棘のある言い方だった。
「瑕にもなり得ない瑣末事ですから。場を改める必要はございませんわ」
「であれば、お話はお済みでしょう。こちらのお嬢さんにはお帰りいただきます」
「いいえ、まだ返事を聞いておりませんのよ」
「それこそ必要ありません。貴族による市民への強要はいかなる場合も認められておりません」
「ですが、その娘は……」
子爵夫人が言い淀む。
リース院長に釘を差されたからか、それとも自身が認めたくないからか、カレンを我が子だと言い切れないのだろう。
「これより馬車の往来が増えます。速やかに退去願いたい」
ぴしゃりと言い放つ様はこれ以上の会話を不要と断じているかに思われた。
いくらかレグデンバーの顔を見つめた子爵夫人は赤い唇に弧を描くと、くるりと馬車へ向き直り、何事もなかったかのように去っていく。やがて動き出したイノール家の馬車が遠ざかっていくのを見て、ようやくカレンは詰めていた息を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
大きな背中の主がこちらを振り返る。面に乗せた表情も声色もカレンを気遣う優しいもので、夫人の言葉が少なからず彼の耳に入っていることを悟り、いたたまれない気持ちになった。
「ご迷惑を、お掛けしました」
消え入りそうな声で何とか絞り出す。
母の主張を未だ上手く飲み込めずに混乱する頭と、他者に聞かれてしまったことによる胸中のざわめきが綯い交ぜになって、どう取り繕えばいいのか全くわからなかった。
「制服を着ていらっしゃるということはお仕事中ですか?」
「はい、あの、今から食堂に戻るところです」
「そうでしたか。任務があってお送り出来ないのですが、お一人で帰れますか?」
「はい、大丈夫です」
俯きそうな頭を気力で持ち上げて答えれば、眦を緩ませた藍色の瞳がカレンを見下ろしている。陽に透けるチョコレート色の髪が眩しかった。
「任務のお邪魔をして申し訳ございませんでした」
「とんでもありません。どうか気を付けてお帰り下さい」
短い会釈をしてカレンはその場を立ち去る。
ただひたすらに足を動かして来た道を忠実に引き返す。
イノール家の馬車はとうに走り去った。王城に戻るのだから、もう出くわすことはない。
そう頭で理解していても恐怖にも似た焦燥感がカレンの足を速くさせた。
持ち帰ったチーズをどう渡したのかも、その後の仕事をどう乗り切ったのかも明確に覚えていない。恐らく失敗らしい失敗はしていない。人出の少ない夕方の当番で良かったと後になって思う。
空が闇色に染まりきった頃、カレンは重い足取りで職員寮の自室に戻った。
誰にも届かないとわかっているから静かな部屋で独りごちた。
「邪魔をしないで……」
どうしてだとか、何故だとか、問い質したい言葉がいくつも頭を過るが何ひとつ声に出すことが出来ない。
身体ごとこちらに向き直った女性もまたカレンの顔をじっと見つめていた。
「こんなところで何をしているの?」
視線を顔から足元へ、そしてまた顔へと戻した女性が声を発した。
どう答えるべきか。そもそも答えて良いものか。
「私はね、お食事をしてきたところよ」
細く白い指先が慣れた手つきで扇子を開き、ゆるりゆるりと優雅に仰ぎ出す。その風に煽られた金髪が陽光を眩く反射させた。
「お相手は誰だと思う?」
穏やかな口ぶりとは裏腹に、カレンを捉える双眸はじっとりと重たく暗い。
その眼差しに絡め取られてしまったかのように、カレンは返事はおろか、身動ぎひとつ出来ずにいた。
ふっと女性の唇が緩む。高貴なドレスを身に纏った婦人に似つかわしくない形に歪んだ。
「伯爵様よ、伯爵様。本来あなたが嫁ぐ予定だった、あの方よ」
流れるような動作で扇子を畳むと、一定のリズムを刻むように掌に打ち付ける。周囲は他の雑音で溢れているはずなのに、カレンの耳にはその耳障りな音しか聞こえてこない。
もう公に母と呼ぶことが出来ない女性は反応を示さないカレンを見る目に冷たい色を宿した。
「どうして私がここにいるのか、あなたにわかるかしら。領地に帰らせてもらえないの。伯爵様のお呼びが掛かるから王都から離れられないの」
耳障りな音と共に、女性の、イノール子爵夫人の声色も次第に強まっていく。
人通りが多いわけではないが全くの無人というわけでもない。付近の店舗には直立不動で店を守る男性たちだっている。詳細を聞き取れなくとも何かしらの揉め事が生じたのは明白だろう。
夫人の後ろに控える御者が狼狽しているが彼の身分では主人を止める術はなく、それはカレンにしても同じことで。関係を絶った母を制止する方法が何も思い浮かばない。歯止めの効かない夫人は更に言葉を募らせた。
「何故お呼びが掛かるのか、理由はわかるかしら。わかるわよね? あなたがいたからこそですものね」
掌を打つ音が止んだ。傷も荒れも知らない両の指が強く扇子を握り締める。
「あなたのその黒髪のせいで、私は身持ちが悪い女扱いよ。悪いことなんて何もしていないのに。その黒髪。あなたが黒髪で生まれてきたばっかりに」
口調が早まるに従って語気も鋭さを増す。このままでは彼女の主張が赤の他人にまで漏れ聞こえてしまう。しかし当の本人はそれすらもお構いなしで一層声を荒げていく。
「旦那様は見て見ぬ振り。何もして下さらない。あなたが生まれてから、ずっとずっとそうよ」
「お、奥様、どうかお声を小さく……」
「どうして私の邪魔ばかりするの。人の幸せを根こそぎ奪って。あなたさえ、あなたさえいなければ!」
足を縫い留められたかのように一歩も動けずにいるカレンは、腕を大きく振りかぶる夫人の動きから目を離せなかった。
扇子を投げ付けるつもりなのね、と他人事のように思う。
それで溜飲が下がるのかしら、とも。
しかし夫人の腕が振り下ろされることも、扇子がカレンにぶつけられることもなかった。夫人とカレンの間に、馴染みとなった深緑の制服が割り込んだから。
「お話しのところを失礼します、ご婦人」
(あぁ……聞かれてしまったわ……)
その声までもが馴染みのあるもので、一瞬にしてどん底に突き落とされる。
庇うようにカレンの前に立ち塞がっている広い背中が、這い上がることを許さない巨壁のように見えて手足の指先がすっと冷えていく。
「そのような場所に停車されては通行の妨げとなります。速やかにご移動願えますか?」
いつものような諭す口ぶりが子爵夫人に作用したのかはわからない。カレンにはレグデンバーの背中しか見えないのだから。
しかし御者の方には通じたのか、慌ただしい靴音に続いて蹄と車輪がゆっくりと音を立てる。そこでようやく身体を動かすことを思い出したカレンはレグデンバーの影から前方を覗き見て、またも全身を強張らせる。
確かに馬車は道端に寄せるように移動したが、子爵夫人は一歩も動かずにじっとカレンだけを見据えていたからだ。
「良いご身分ね、カレン」
皮肉めいた言い回しだが、また穏やかな口調に戻っている。
「あなたが伯爵様の元へお行きなさいな。それがあなたの本来のお役目でしょう? あなたに出来ることなんてそれくらいなのだから」
騎士を、それも銀の腕章を付けた騎士団副団長を前にしても夫人の言葉は止まらなかった。どこか愉快げな雰囲気すら漂わせている母親にぞくりとする。
第三者に彼女の言葉はどう聞こえるのだろう。
全てを聞かずとも貴婦人とカレンの間にただならぬ因縁があることは察せられるに違いない。
事情を知らない人は何を信じ、どう捉えるのか。
(もう何も言わないで……)
足元が崩れていく心地だった。
世間を知らない無知な自分が周囲に助けられて築いてきた小さな居場所。ようやく生きる喜びを見出だせたというのに、それすら奪われて踏み荒らされていく。
「込み入ったお話をするには、この場は不適切でしょう。然るべき場を整えられるのがよろしいかと思いますが」
レグデンバーの平時と変わりない冷静な言葉運びがカレンの意識を引き戻した。
領地にいた頃から言われるがままでやり過ごすことしか出来なかったカレンにとって、母の言葉を断ち切る存在は初めてだった。
「大した用件ではございませんの。こちらで十分間に合っておりますわ」
子爵夫人の視線がようやく剥がれる。
レグデンバーに向けられた微笑みは文句の付け所がないような貴婦人のそれで、先程までカレンに悪口を向けていた人物なのかと疑わせるくらいに嫋やかだった。
これでは彼女の言葉が正当性を帯びるのでは、と不安に陥りかけたのだが。
「人は大袈裟を好むものです。面白おかしく吹聴されてはご家名に瑕が付くのでは?」
カレンが知るレグデンバーには珍しい、どこか棘のある言い方だった。
「瑕にもなり得ない瑣末事ですから。場を改める必要はございませんわ」
「であれば、お話はお済みでしょう。こちらのお嬢さんにはお帰りいただきます」
「いいえ、まだ返事を聞いておりませんのよ」
「それこそ必要ありません。貴族による市民への強要はいかなる場合も認められておりません」
「ですが、その娘は……」
子爵夫人が言い淀む。
リース院長に釘を差されたからか、それとも自身が認めたくないからか、カレンを我が子だと言い切れないのだろう。
「これより馬車の往来が増えます。速やかに退去願いたい」
ぴしゃりと言い放つ様はこれ以上の会話を不要と断じているかに思われた。
いくらかレグデンバーの顔を見つめた子爵夫人は赤い唇に弧を描くと、くるりと馬車へ向き直り、何事もなかったかのように去っていく。やがて動き出したイノール家の馬車が遠ざかっていくのを見て、ようやくカレンは詰めていた息を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
大きな背中の主がこちらを振り返る。面に乗せた表情も声色もカレンを気遣う優しいもので、夫人の言葉が少なからず彼の耳に入っていることを悟り、いたたまれない気持ちになった。
「ご迷惑を、お掛けしました」
消え入りそうな声で何とか絞り出す。
母の主張を未だ上手く飲み込めずに混乱する頭と、他者に聞かれてしまったことによる胸中のざわめきが綯い交ぜになって、どう取り繕えばいいのか全くわからなかった。
「制服を着ていらっしゃるということはお仕事中ですか?」
「はい、あの、今から食堂に戻るところです」
「そうでしたか。任務があってお送り出来ないのですが、お一人で帰れますか?」
「はい、大丈夫です」
俯きそうな頭を気力で持ち上げて答えれば、眦を緩ませた藍色の瞳がカレンを見下ろしている。陽に透けるチョコレート色の髪が眩しかった。
「任務のお邪魔をして申し訳ございませんでした」
「とんでもありません。どうか気を付けてお帰り下さい」
短い会釈をしてカレンはその場を立ち去る。
ただひたすらに足を動かして来た道を忠実に引き返す。
イノール家の馬車はとうに走り去った。王城に戻るのだから、もう出くわすことはない。
そう頭で理解していても恐怖にも似た焦燥感がカレンの足を速くさせた。
持ち帰ったチーズをどう渡したのかも、その後の仕事をどう乗り切ったのかも明確に覚えていない。恐らく失敗らしい失敗はしていない。人出の少ない夕方の当番で良かったと後になって思う。
空が闇色に染まりきった頃、カレンは重い足取りで職員寮の自室に戻った。
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