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私のご主人さま

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 諦めてばかりの人生だった。
 何か願いを叶えるどころか、ささやかな日常にさえも手が届かなかった。

 汚物を見るような視線。
 存在を否定するような声。

 誰も私を見てくれない。
 誰も私と会話をしてくれない。

 じゃあ、もう、いいや。
 人間を辞めよう。家畜のように生きよう。

 愛も友情も求めない。
 命令されるだけの存在で構わない。

 私を見て。
 私と話をして。

 そんな願いすら、叶わなかった。

 私は無価値だ。奴隷として、どれだけ値段を下げてもご主人さまは現れなかった。

 本当なら家畜の餌になっていたはずだ。
 しかしあの奴隷商人には全ての商品を売るという矜持、あるいは意地があった。

「必ずお前を売りつけてやるからな!」

 彼は私に質素な食事を渡す度、怒鳴った。

 まともな会話は無い。
 目が合ったことも無い。

 私は狭い部屋に一人きり。
 いつも、小さな窓の外を見ていた。

 それでも商品として売れ残る以前より良い生活だと思えるのだから、自分が惨めで仕方なかった。


 だから、未だに現実感が無い。
 

 ずっと不安だった。 
 買われた理由が分からなかった。

 彼は迷宮に挑む仲間が欲しいと言った。
 そんなの嘘だ。普通、もっと良いスキルを持った奴隷を選ぶ。

 二日、一緒に行動して分かった。
 彼は貧乏で、しかも常識に疎い。

 どこか遠いところから来たのかな?
 その可能性に思い至った時、気が付いた。

 私は、次の奴隷を買うまでの繋ぎだ。
 ある程度のお金が集まったら捨てられるのかもしれない。

 普通、そうだ。
 私なんて、傍に置く理由が無い。

 だけど彼は、私の目を見てくれた。
 私の声を聞いて、話をしてくれた。

 とても酷い人だ。
 こんなの、期待しないわけがない。

 もしかして夢が叶うの?
 あんなにも綺麗な人と一緒にいられるの?

 そんなわけない。
 きっと隷属魔法のせいだ。

 私を邪険に扱ったら警告が出ると思って、我慢しているに決まっている。

 私は一時も安心できなかった。
 むしろ、彼と過ごす程に不安が募った。

 人前に出れば嫌な視線を向けられる。
 ひそひそとした声が聞こえる度に、消えてしまいたいほど惨めな気持ちになった。

 彼も気が付いているはずだ。
 それなのに、何も言わない。

 不気味で仕方がない。
 時間が経つほど、不安が大きくなった。

 だから私は、奴隷として有り得ないことをしてしまった。主人に向かって怒鳴るなんて普通はその場で処分される。 

 だけど彼は怒らなかった。
 それどころか私に願いを聞いた。

 初めて人の温もりを知った。

 冷え切った身体が加速度的に熱を持った。
 二人分の体温では説明できない熱だった。

 訳が分からなかった。
 どうして不幸を吐き出したのに、幸せが返ってくるのだろう。

 理由を知りたい。考えたい。
 しかし冷静な私は瞬く間に溶けて消えた。

 温かい。私の身体とは全く違う。
 大きくて、とてもゴツゴツしている。

 お腹に当たる一部分が、特別に熱い。

 我ながら品が無いとは思う。
 だけど、その熱が決め手だった。

(……私なんかに、興奮してるの?)

 不思議な感覚があった。
 私はそれを形容する言葉を持たない。

 幸福を感じたのかもしれない。
 あるいは発情しただけなのかもしれない。

 言葉にしたくないと思った。
 この感情に名前が付いたら、価値が落ちるような気がした。

 彼は私に背中を向けた。
 そして私は、息を呑んだ。

 傷だらけだった。
 傷跡の無い部分を探す方が難しいような背中だった。

 愛おしく思えた。
 とても綺麗な彼の醜い部分を見て、親近感を覚えた。

 矮小な発想だと思う。
 自覚はあるのに、嬉しい気持ちを止められなかった。

 彼は背中も温かかった。
 こんなにも穏やかな気持ちで目を閉じたのは初めてだった。

(……この人が、私のご主人さま)

 初めて、売れ残って良かったと思った。
 初めて、生きていて良かったと思えた。

(……私の全てを支配してくれる人)

 生きる意味なんてなかった。
 だけど、死ぬ理由も無かった。

 だから生きていた。
 ただただ、息をしていた。

(……ご主人さまのために生きよう)

 彼の目的は迷宮へ挑むこと。
 そして未だ私が詳細を知らない復讐を遂げること。

 いつかきっと弱い私は不要になる。
 それならば、戦闘以外で価値を示そう。

 いつまでも傍に居られるように。
 ご主人さまに、求められるように。

(……何が、できるかな)

 ふと不安が生まれた。
 それをごまかすようにして、広い背中に頬を押し当てる。

 絶対に離れない。
 こんなにも温かい時間をくれる人、きっと二度と現れない。

(……私の全てを捧げよう)

 目を見て、話をして、抱きしめてくれた。
 ただそれだけ。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。

(……もっと触れたい)

 頭の先から足の裏まで。触れたことのない場所が無くなるまで、触れてみたい。

(……もっと、触れて欲しい)

 彼は女性が苦手なのかもしれない。
 普通、裸で密着してるのに、そういうことをしないなんて有り得ない……はず。

 でも、良い。
 今はまだ、これで良い。

(……温かい)

 息を吸って、静かに吐き出す。
 私がやっているのは、ただそれだけ。

 永遠に続けと思った。
 夜明けなんて、来なくていい。

 ……噓。
 早く、朝になってほしい。

 ねぇ、ご主人さま。

 明日も私を見てくれる?
 明日も私と話をしてくれる?
 明日もまた、抱きしめてくれる?

 ああ、ダメだ。止まらない。
 時間が経つ程に愛おしくなる。

 過剰だ。やり過ぎたんだ。
 いきなりこんなの、刺激が強過ぎる。

(……ずっと、お傍に)

 私は目を開ける。
 それから、ひとつの傷跡をそっと撫でて、キスをした。

 瞬間、全身が苦しい程の熱を持った。
 思わず出そうになる声を必死に堪えていると、直ぐにおさまった。

(……今の、何?)

 この時の私は知らなかった。


 ──それは始まりの熱。
 ご主人さまの力が、目を覚ました瞬間だった。
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