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187【最愛㉖】
しおりを挟む「長々と、お付き合いありがとう」
全てを話し終えた課長はそう言うと、正座をしたまま両手をフローリングについて深く頭を下げた。私もそれに倣って深々と頭を下げる。
「こちらこそ、すてきな贈り物までいただき、ありがとうございました」
二人同時に顔を上げれば、自然と晴れやかな笑みがこぼれた。
なんだか、やっと長~いトンネルから抜けでた気分だ。
私の心の奥底に降り積もっていた万年雪のような積年の思いも、告げられた春の訪れにサラサラと溶けだしもう見る影はない。
今度こそは、課長の大事な話はめでたく終了。
「お茶、おかわり、入れますね……って、ててて、てっ!?」
時間にすれば数十分ほどの正座でも、椅子に座る生活に慣れすぎた足はすっかりしびれていた。
でも、グラリとバランスを崩したのは、そのせいじゃない。課長に、手を引っ張られたからだ。不意を突かれた私は、引っ張られるまま課長の足の間に背中からすとんと収まった。
――ふ、ふぇっ!?
「お茶より、こっちの方がいい」
「こ、こ、こっちって」
「こっち」
ギュッと後ろから抱きしめられて、耳元に低い囁きが落とされる。
ドキドキドキドキ、たやすく暴走し始める心臓と連動して、一気に顔が上気する。
――うわーうわー。
まだ、心の準備ができてないよ。
というか、いろいろな情報が一気に頭の中に入ってきて、まだ頭も心も混乱気味だ。
それに、ただでさえこういう甘い雰囲気は、どうも照れが前面に立って挙動不審になってしまう。
そりゃあ、過去には恋人どうしだったんだから、今更って思わなくもないけど。
これはもう本能的な反応で、頭で考えてどうこうできるものじゃない。
「か、課長、『こっち』は逃げも隠れもしないので、とりあえずお茶のおかわりを、なんならコーヒーでも……」
「この期に及んでまだ『課長』言うのかこの課長フェチ!」
人の言うことはさらりと無視して、笑いを含んだ声で人聞きの悪い断定を口走りつつ、課長は私の首筋に一つ軽い口づけを落とす。
触れるか、触れないか。
――ふひゃっ!?
くすぐったい感触に支配された脳細胞は、思考をすぐさま停止した。
「まさか結婚しても、課長とか言うつもりか?」
「……そんなことを言われても、もう口癖になっちゃってるんですっ」
「じゃ、俺も、『あずりん』って呼ぶぞ?」
――あ、あ、あずりんっ!?
なに、その、恥ずかしすぎる呼称は!?
返答に困っていると、課長は私の首筋に顔を埋めたまま、楽しげにクスクスと笑う。
――や、やめれっ!
そこはダメ。
ダメだったら、ダメっ!
くすぐったさマックスで、身をよじって逃れようとするけど、後ろからがっちりとホールドされていて身動きできない。
「わ、わかりました。二人の時は、もう課長っていうのやめますから、この状態でクスクス笑うのやめてください!」
「じゃ、ついでに、敬語もやめよっか?」
だーかーらー、首筋に唇くっつけたまま、喋るんじゃない、いじめっ子!
「わかりましたっ」
「んじゃ、はいどうぞ」
どうぞって言われて、思わずうっと言葉に詰まる。
でもさすがに、ずっとこのまま課長って呼び続けるわけにもいかないのも分かっている。
どこかで切り替えなきゃいけないなら、今でも同じだ。
行け、私!
「……わかったよ、東悟……」
恥ずかしさで、もごもごと口の中に消える語尾。
すぐさま反応するとばかり思っていた課長は、私の首筋に顔を埋めたまま、ウンともスンとも言わない。
「……あの?」
「ちょっと待った。今、本能と理性が脳内バトル中だから」
「……へ?」
「このまま抱き上げて寝室に連れ込もうか、それとも、このまま床に押し倒そうか、激戦中」
「それ、理性がどこにもないと思うけど……」
「うん。だから、今、必死で呼び出し中」
まんざら嘘でもなさそうに、『うーーん』と、背中で唸る課長――、
じゃなくて東悟の様子に、思わずプッと吹きだしてしまう。
「何を笑う。これでも、真剣なんだぞ?」
「だって」
クスクス笑いが止まらない。
東悟の気持ちは、分かってる。
二人の心は決まっていても、まだ現実に誰にも認められているわけではない、私たちの婚約。
お義父さんに認められて晴れて胸を張って公言できる日まではと、考えているんだと思う。
それは臆病なのではなく、私を傷つけまいとする慎重さの現れ。
『私を大切に思ってくれている』のだと嬉しい反面、『我慢しなくてもいいのに』と、イケナイ思考が脳裏を過った。
――言っちゃえ。
私の中の小悪魔が、甘く囁きかけてくる。
でも、それを実行するには、私の羞恥心の守りは鉄壁すぎた。
「ふふふ。それで、脳内バトルの勝者は決まった?」
「……我ながら、忍耐強いと感心するよ」
ふう、と一つ溜息を吐き、東悟は私を抱き寄せていた両腕を、するりと外した。
どうやら、バトルは理性の勝利に終わったらしい。
が――。
「じゃ、コーヒーでも入れる――」
言って立ち上がりかけた私は、またもや東悟の腕の中に閉じ込められてしまった。
今度は、背中からではなく、正面から。
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