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第4章 ファーストキスは助手席で
72 走り出す気持ち③
しおりを挟む別に、社長に彼女がいたって、奥さんがいたって、私には関係ない。
企業の社長なんだもの。いい年なんだもの。恋人や奥さんの一ダースぐらいいたって、おかしくないじゃない。
私は、ただの昔のご近所さんで、ただの、社員。社長にとって、それ以上でもそれ以下でもない。だたそれだけのこと、そのはずなのに。
どうしてこんなに、心の奥がギュッと締め付けられるように痛いんだろう?
どうしてこんなに、目の奥が熱いんだろう?
その熱は、医務室で薫さんの顔を見たとたんに、決壊してしまった。
止める術もなく、ぽろぽろぽろぽろ、あふれ出す涙の雫。
「あら、あら、茉莉ちゃんじゃないの。どうしたの?」
「薫さぁん……」
足首にシップを貼って手際よく包帯を巻いてくれた後、薫さんは笑いながら私のほっぺをツンツンと突っついた。
「足首の方は軽い捻挫だから、しばらく無理をしなければ心配ないわ。心配なのは、こっちの方ね。足が痛くて泣いたんじゃないでしょ? ほぉら、お姉さんが聞いてあげるから言ってごらんなさい」
向けられる笑顔があまりに優しくて少しのかげりもなくて、それが返って私の中に言いようのない罪悪感みたいなものを育ててしまう。
――こんなの嫌だ。
薫さんのこと、とても好きなのに。
こんな、モヤモヤとした煮え切らない気持ちを感じてしまうなんて、嫌だ。
「とても、気になる人がいて……」
薫さんは急かすことなく、私の次の言葉を待ってくれている。
私は社長の事とは言わずに、今の自分が感じていることや正直な気持ちを、洗いざらい話してみた。
とても気になる男性がいること。
その人は子供の頃からの憧れの人で、でも今は、以前とはすっかり変わってしまっていて。でも、時々垣間見せてくれる昔の面影に、ドキドキする自分がいて。その人に、恋人がいるって知って、とてもショックを受けている。
そんな想いを、たどたどしく、でも心を込めて、言葉にしてみた。
うんうんと相槌を打ちながら、薫さんは、最後まで私の長い話を聞いてくれた。
「そっかぁ。茉莉ちゃんは、その人に恋をしてるんだね」
ニコニコと、とんでもないことをサラリと言ってのける薫さんの顔を、ポカンと見つめる。
「……え?」
――恋? 私が、恋してる?
不動社長に、祐兄ちゃんに、恋をしている?
「気になって、ドキドキして、女性の影にやきもち焼いちゃったりするんでしょ? だったら、それはもう立派な恋よ」
「で、でも私、つい一か月前に失恋したばかりなのに」
その失恋した日に出会った人に、恋をしている?
あの、社長相手に、恋をしている?
そんな、バカな。
人って、そんなに簡単に、恋に落ちてしまったりしていいものなの?
「ふふふふ。人が人を恋い慕う気持ちに時間は関係ないわ。DNAが引き合うっていうのか、一目ぼれっていうのも確かに存在するしね」
『はいどうぞ』と、薫さんは笑いながら、入れてくれたミルクココア入りのマグカップをを手渡してくれる。ふんわりと甘く優しい香りが鼻腔に届く。いただきますをして一口口に含めば、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「で、その恋のお相手が、不動祐一郎ってことね?」
もう一口口に含んだところで薫さんが放った言葉に、口の中のミルクココアは、一気に気道を直撃した。
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