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19. アトリエ水無月

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 ただベッドの上でじっとしていると、ゆっくりと部屋の中が白み始めてきた。

「うう……」

 動くのはひどく億劫だった。だが、カイの前でこれ以上情けない姿を晒したくない一心でヴィクトールは呻きながら体を起こした。何をするのもしんどくて、時間がかかる。危険な兆候だと感じたが、何とかその思いを振り払ってのろのろと着替えをする。髭まで剃る気力はなかった。
 階下に降りると、朝食の準備をしていたロジウムがぎょっとした様子でトマトを取り落とした。

「ヴィー!? ま、まだ寝てていいわよ?」
「だいじょうぶ……散歩、いってくるから」

 前もこうやって段々動けなくなって、そして何もできなくなったのだ。最初は作業場に入れなくなって、そして部屋から出られなくなって、最終的にベッドの上で体を起こすこともできなくなってしまった。あの頃に戻りたくはなかったし、自分の世話すらできなくなった状態をカイにだけは見られたくなかった。
 あの時ロジウムが世話を焼き、無理やりにでも食べさせてくれなかったらとうにヴィクトールはベッドの上で餓死していただろう。ロジウムが後継者に推薦したせいでヴィクトールが潰れたという罪悪感、あるいはリリーの工房を守りたいという使命感からの行動だったかもしれないが、ヴィクトールはロジウムに大いに感謝していた。

 いつも通りに振舞わなくては。ヴィクトールの頭の中にはもうそれしかなかった。工房の裏手から出る。一睡もしていない頭には爽やかな初夏の朝日すらきつく、目の前がくらくらした。家に戻りたいと思ったが、なけなしのプライドがそれを許さない。足を動かすことだけをただ考えて前に進み、目についたベンチに座った。よろよろと顔を上げると、ヴィクトールはただ工房前の広場を渡っただけで、そこからはゼーア工房の割れた窓ガラスがよく見えた。

(ああ、早く帰って……片づけなきゃ。中にあった作成途中の角燈も全滅だろうし、店舗に置いていたやつもいくつか割れていた気がするし……ええと、それと……)

 のろのろと頭を巡らせる。幸いにして納期が近いものはなかったはずだから、今から急いで作り直せば何とか間に合うだろう。ヴィクトールが動ければ、の話だが。

(頑張らなきゃ、いけないのに)

 今回のことでカイからの信用はなくなっているだろう。それでも、だからこそ、ヴィクトールはやらなくてはいけない。そう思うものの体が動かなかった。
 朝の黄色い日差しに照らされる自分の工房の壁をぼうっと見ていると、不意にベンチの隣に誰かが腰掛けた。ぎし、と木のきしむ音に横を見る。年の頃は50過ぎ、見た目は酒場でくだを巻いているごろつきそのものである。

「おいヴィクトール、お前んとこ昨日爆発してたけど平気か? いや平気じゃねえなそのツラは」
「……レオンさん」

 以前ゼーア工房にいて、そして今はアトリエ水無月の店主である魔道具師の名前をヴィクトールは呼んだ。レオンは最後まで解雇に抵抗した職人の一人で、辞めた今でも何かとヴィクトールを気にかけてくれていた。

「あれだろ? 最近入った茶髪の子がやったんだろ」
「まあ……」
「気にすんなって。工房吹き飛ばすのなんて新人の通過儀礼じゃないか」
「はあ……」

 べしんと強く背中を叩かれ、ヴィクトールは言外に責められているような気がした。辞めてもらう時、「余裕が出たら必ず雇い戻す」と言っていたからだ。言い訳のしようもない。

「すいません。本当は、一番に皆さんに声を掛けなくちゃいけなかったんですが」
「いいって、それは。こっちはこっちでそれなりにやってるから」
「そうですよね」

 今のレオン以上の待遇を、ヴィクトールは提示できないだろう。これから先そうなる未来も見えないけれど、と暗い気持ちで広場を眺める。今を時めくアトリエ水無月に追いつける日が来るとは思えなかった。

「材料とかも全部だめになったろ。欲しいもんがあったら分けてやるから」
「ありがとうございます。でも、うちのことなんで」

 そう言ってくれるのはありがたいが、自分の工房のことで他人を頼るのは気が引けるし、自分の能力のなさを晒すようで恥ずかしい。

「ほら! もう! そういう水臭いこと言うなよ! そうやって一人でぐだぐだ考えてるとまた寝込むぞ!」

 昨日壊れた棚を掴んだせいで傷だらけの両手を組み合わせていると、わしゃわしゃと大きな手で頭を撫でられた。やめてくれ、と思うがそういう気力もなくされるがままになる。30過ぎのヴィクトールだが、彼にとってはいつまでたっても小さい弟のような気分なのだろう。まあ、本当はヴィクトールのほうが兄弟子にあたるのだが。
 きっと、こういう人こそ、師匠として仰ぐにふさわしい人間なのだろうとヴィクトールは思った。頼りがいがあって、小さなことには動じない。人生の先輩として尊敬できる相手だ。

「レオンさん、人を増やす余裕ってありますか?」
「え? 余裕どころか常時募集中だよ。もうずっと人手は足りてねえし、それこそ猫でも犬でも雇いたいくらいだけどこんな辺鄙な村に来るやつなんてそうそう……」

そこまで言ったところでレオンはハッとした顔をした。

「なに? 昨日ので『もう辞めたい』とか言われたのか?」
「そうじゃないですけど……まだ僕には、弟子を取るとか早かったんだな、って……」
「いやいやいや、落ち着けってヴィクトール! 本当に落ち込んでるのはやらかした本人の方だろ。一緒になって凹んでどうすんだ」

 熊のような両手を広げたレオンは「まあ、お前がくよくよしてなかったことなんてねえけどよ」と余計なことをつけ足してくる。

「それは……確かに」

 昨晩からの行動を思い出してヴィクトールはため息をついた。動揺し過ぎて、自分の感情だけで手一杯になっていた。今のカイの気持ちまで、全く想像が及んでいなかったことに呆れるしかない。

「シャキッとしろよ~。今はお前が師匠なんだろ? 何でもかんでもうまくいくわけなんてないんだし、腹括って構えてるしかないだろ」
「はい……」

 主だからこそ、堂々としていなくてはならない。おろおろと優柔不断で、自分のことですぐ手一杯になってしまう相手には、誰もついてこないからだ。それは、目の前のレオンはじめ水無月へと行った職人たちが教えてくれたことだった。
 このままでは、また同じことになってしまうのだろうか。それは避けたかった。突き動かされるように立ち上がった瞬間、地面が揺れる。

「おい! おいヴィクトール!」
「……?」

 気がついたときには、ヴィクトールはレオンの腕に抱きかかえられていた。立ち眩みを起こしたのだろう。瞬きをしていると、「ああよかった」と上からレオンの声が降ってくる。

「あ……すいません」
「まあ……無理はすんなよ」
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