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8.プラナ・ローカ
■□■
週末は呆気ないほど速やかに流れ去り、月曜になればまた決算という業務が大量に残っている。
いつものようにタイムカードを押し、経理一課の課長の席に座った加賀を見て、明るい色の髪や服をした、常に爪を綺麗に塗って飾っている若い女性の派遣社員が、大きな目をくりくりと輝かせながら弾む声で話し掛けてきた。
「あれ?加賀課長。なんか、いつもと雰囲気違いませんかぁ?」
「──え、何だろう。床屋に行ってもいないし、別段、何も……」
常に机に男性アイドルの写真を飾って、お洒落にも気を遣っている若い女性の方から話し掛けられることは稀で、加賀は小首を傾げる。いつもであれば、若い社員に気を遣って雑談を振るのは加賀の役目。しかも、それが雰囲気の話だというのだから、ますますわからない。
「なんか、顔色が明るいっていうか…んー、顔の周りがスッキリした?かな?みたいな?」
まだ二十代前半の、天真爛漫な女性にそう言われ、思い出したことがひとつある。
「ああ…。ちょっとマッサージで疲れを取ったからかもしれないね。…しかし、驚いたなぁ。若い子って、そんな細かいところまで見てるのか。これは、身だしなみに手抜きはできないな…」
「えー、すごい。超スッキリしてますよ!あたしも、エステ行きたくなってきちゃいましたぁ…!」
笑顔で何気ない雑談を交わしながら、加賀の中には、しかし半分ほどは気のせいではないかという思いもある。何せ、三日前にたった一回、数時間きりの施術で、他人が見てそれと解るほど見た目が変わっているとは、にわかに信じられなかったのだ。しかし、加賀自身も、朝の身支度で鏡を見た時に違和感を覚えていた。シェーバーを当てる顎の皮膚の張りや輪郭が、いつもの自分のものではないような気がする。自分で目にするのが嫌になるほど疲れが溜まり、目の下に薄く浮いていた隈すら、すっきりと無くなっていた。
これがもし、本当にリフレクソロジーの効果なのだとしたら、その手腕は魔法の領域だとしか言いようがない。
しかし同時に、加賀の中には、どうしても解き明かしたくてならない疑問が生じていた。
果たしてこれは、曽根川の手腕がそうさせたのか。
それとも、今まで知らなかったリフレクソロジーというものは、全てこのような劇的な効果が生じるものなのか。
今ですら、曽根川の熱い指の軌跡を思い出して気もそぞろになりかけるというのに、これでは仕事に身が入らない。雑念を振り払うように頬を軽く叩いて気合を入れ直すと、処理しなければならない山積みの書類をひとつひとつ、丹念に捌き始めた。この時期は、ひとつ捌けばまた次が積み重ねられていくのが常。ならば、少しくらい自分を甘やかしても構わないじゃないか、と、加賀は内心でそう思い始めていた。
■□■
その週の金曜日が訪れる。
「いらっしゃいませ、当店は初めてですか…?」
「ええ、よろしくお願いします」
ネットで調べた、可もなく不可もないリフレクソロジーのチェーン店で、にこやかな若い受付の女性の応対に微笑で受け答えする。男性客可、と書かれていても、明らかに女性客を意識した内装と、甘ったるいくらいに焚かれたアロマの香りは、どうにも落ち着かない気分になる。
幾つにも区切られた個室には、何人ものセラピストがいて、複数人の客の気配がするのも落ち着かない。狭い個室の中でガウンに着替え終え、合図のブザーを押すと、清潔な白い服装をした女性のセラピストが入室してきた。
「加賀様、本日はご来店ありがとうございます。ではまず、問診からさせていただきますね……」
結論、加賀は、圧倒的に物足りない気分でそのリフレ店を後にすることになった。
別段、女性セラピストの腕が悪かったという訳ではない。オイルを使った施術はそこそこ気分が良かったし、滞っていたものが流れる、という意味では効果を感じていない訳でもない。
しかし、どうしても物足りない。焦れったい。
もう少し、というところで逸れていく少し冷たい指先を感じる度に、痒いところに手の届く、曽根川のあの施術を思い出してしまう。賑やかな雑居ビルの一角にありながら、じっくりと浸れる落ち着いた空気を思い出してしまう。
『これ、十日か二週間か後に、もう一回診せて欲しいなぁ…。経過が気になります…』
ふと、曽根川の言葉が脳裏にリフレインした瞬間、もう堪らなかった。
街中の、とあるビルのエントランス前で一度足を止め、スマートフォンの滅多に使わないメッセンジャーアプリを起動させて、親指で文字を打ち込む。
そんな自分の中に、飢餓感にも似た急き立てられるような感覚が宿っていることが、自分自身でもとても不思議に思えた。
週末は呆気ないほど速やかに流れ去り、月曜になればまた決算という業務が大量に残っている。
いつものようにタイムカードを押し、経理一課の課長の席に座った加賀を見て、明るい色の髪や服をした、常に爪を綺麗に塗って飾っている若い女性の派遣社員が、大きな目をくりくりと輝かせながら弾む声で話し掛けてきた。
「あれ?加賀課長。なんか、いつもと雰囲気違いませんかぁ?」
「──え、何だろう。床屋に行ってもいないし、別段、何も……」
常に机に男性アイドルの写真を飾って、お洒落にも気を遣っている若い女性の方から話し掛けられることは稀で、加賀は小首を傾げる。いつもであれば、若い社員に気を遣って雑談を振るのは加賀の役目。しかも、それが雰囲気の話だというのだから、ますますわからない。
「なんか、顔色が明るいっていうか…んー、顔の周りがスッキリした?かな?みたいな?」
まだ二十代前半の、天真爛漫な女性にそう言われ、思い出したことがひとつある。
「ああ…。ちょっとマッサージで疲れを取ったからかもしれないね。…しかし、驚いたなぁ。若い子って、そんな細かいところまで見てるのか。これは、身だしなみに手抜きはできないな…」
「えー、すごい。超スッキリしてますよ!あたしも、エステ行きたくなってきちゃいましたぁ…!」
笑顔で何気ない雑談を交わしながら、加賀の中には、しかし半分ほどは気のせいではないかという思いもある。何せ、三日前にたった一回、数時間きりの施術で、他人が見てそれと解るほど見た目が変わっているとは、にわかに信じられなかったのだ。しかし、加賀自身も、朝の身支度で鏡を見た時に違和感を覚えていた。シェーバーを当てる顎の皮膚の張りや輪郭が、いつもの自分のものではないような気がする。自分で目にするのが嫌になるほど疲れが溜まり、目の下に薄く浮いていた隈すら、すっきりと無くなっていた。
これがもし、本当にリフレクソロジーの効果なのだとしたら、その手腕は魔法の領域だとしか言いようがない。
しかし同時に、加賀の中には、どうしても解き明かしたくてならない疑問が生じていた。
果たしてこれは、曽根川の手腕がそうさせたのか。
それとも、今まで知らなかったリフレクソロジーというものは、全てこのような劇的な効果が生じるものなのか。
今ですら、曽根川の熱い指の軌跡を思い出して気もそぞろになりかけるというのに、これでは仕事に身が入らない。雑念を振り払うように頬を軽く叩いて気合を入れ直すと、処理しなければならない山積みの書類をひとつひとつ、丹念に捌き始めた。この時期は、ひとつ捌けばまた次が積み重ねられていくのが常。ならば、少しくらい自分を甘やかしても構わないじゃないか、と、加賀は内心でそう思い始めていた。
■□■
その週の金曜日が訪れる。
「いらっしゃいませ、当店は初めてですか…?」
「ええ、よろしくお願いします」
ネットで調べた、可もなく不可もないリフレクソロジーのチェーン店で、にこやかな若い受付の女性の応対に微笑で受け答えする。男性客可、と書かれていても、明らかに女性客を意識した内装と、甘ったるいくらいに焚かれたアロマの香りは、どうにも落ち着かない気分になる。
幾つにも区切られた個室には、何人ものセラピストがいて、複数人の客の気配がするのも落ち着かない。狭い個室の中でガウンに着替え終え、合図のブザーを押すと、清潔な白い服装をした女性のセラピストが入室してきた。
「加賀様、本日はご来店ありがとうございます。ではまず、問診からさせていただきますね……」
結論、加賀は、圧倒的に物足りない気分でそのリフレ店を後にすることになった。
別段、女性セラピストの腕が悪かったという訳ではない。オイルを使った施術はそこそこ気分が良かったし、滞っていたものが流れる、という意味では効果を感じていない訳でもない。
しかし、どうしても物足りない。焦れったい。
もう少し、というところで逸れていく少し冷たい指先を感じる度に、痒いところに手の届く、曽根川のあの施術を思い出してしまう。賑やかな雑居ビルの一角にありながら、じっくりと浸れる落ち着いた空気を思い出してしまう。
『これ、十日か二週間か後に、もう一回診せて欲しいなぁ…。経過が気になります…』
ふと、曽根川の言葉が脳裏にリフレインした瞬間、もう堪らなかった。
街中の、とあるビルのエントランス前で一度足を止め、スマートフォンの滅多に使わないメッセンジャーアプリを起動させて、親指で文字を打ち込む。
そんな自分の中に、飢餓感にも似た急き立てられるような感覚が宿っていることが、自分自身でもとても不思議に思えた。
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