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第壱話

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 まるで、いつでも飛び掛かれるよう準備するように身を低くし、腰の左側に手をあてた後に、何かに気付いた様子で自分の腰回りを確認し、項垂れる。

「何かなくしちゃったの? 探しに行って来ようか?」

 朱皇くんの様子から察したつもりで、落としたとしたら、階段の辺りに行けば見つかるだろうか。そう安易に考えて言ってみたそれは、猜疑を抱いたその心へと疑いを増幅させることになってしまっただけのようだった。

「お前、一体何者だ? 異世界の者だからと考えたが、やはり青の名を冠するということは白狼族の王家の血筋の者か。争いから百年以上経ていると聞くが、まだその根は深くのさばっていたようだな。俺をこんなところへ放り出したのもお前の差し金ということか」
「ん? ん? 名前に青がついたらいけないの? でも、これはお祖父ちゃんがつけてくれたものだし、朱皇くんのところはともかく、日本じゃ……うーんと、他の県とか地方とかにはもしかしたら何かあったりするかもしれないけど、少なくとも私が生まれたところには、そういう名前に関するルールは特になかったんだと思うよ?」

 小さいながらも牙を剥くように威嚇され、悲しくなりながらも朱皇くんの前に正座して、何とか誤解を解いて貰おうと必死になる。

「血筋とかもよく分からないけど、朱皇くんみたいな尻尾ないし、耳も違うって話、したよね? 朱皇くんとは初めましてだから、確かに家に連れて来ちゃったけど、何処かから拐って来たりなんかしてないよ?」

 それとも、家に連れて来ちゃった時点で誘拐が確定してしまったのだろうか。やっぱり交番に連れて行った方が良かったってこと?

 慌てながら考えているからか、どう説明すればいいのか、上手く頭が働かない。まあ、冷静に考えても同じだったかもしれないけれど。

「あ、もしかして『王子様』って言ったのが嫌だった? でも小さくて可愛い子はみんな王子様だしお姫様だよね? ちなみに、実家の王子様はあの子だよ!」

 と、壁に掛けてある安い額縁を指差す。格子柄のように六つあるそれのどれもに、実家の王子様ことパピヨンの藤四郎くんの写真が嵌め込まれている。

「――は?」

 そこで、毒気を削がれたように朱皇くんが口をぽかんと開けた。
 ゆっくりと壁に近付き、見上げる。

「何だ、この白い獣は」
「犬だよ? パピヨン。今ね、五歳なの」
「犬、だと? これが、か?」
「うん。写真、他にもあるけど、見る?」
「――要らん」

 棚からアルバムを引っ張り出そうと立ち上がり掛けたところを拒否され、残念な気持ちになるけれど、藤四郎くんのお陰で朱皇くんは少し落ち着いてくれたようだった。

「お前は、俺が何をなくしたと思ったんだ?」
「え? 分からないけど、朱皇くんと会った階段のところに落ちてないかなと思って。私が驚かせちゃったから、朱皇くん逃げようとしたでしょ? 慌てて転んじゃったし、私が抱っこした時に暴れたから、その弾みで落としちゃったのかなって……」

 あの時のことを思い出しながら言うと、朱皇くんは凄く嫌そうな、呆れたような溜め息を盛大についてみせた。

「分からないことならば、分かった風に口にするな。あらぬ疑いで詮議せんぎに掛けられたくはないだろう」
「ごめんなさい」
「……仮にお前が白狼族の王族と繋がりがあったとしても、種族が違う上に女性の身に『青』の名を与えることはしないだろう。考えずとも分かることだったのに、どうかしていたな」

 ぺたんと足を投げ出した形で座り、項垂れる朱皇くん。耳までしょんぼりしているし、丸くなった背中が寂しそう。
 しゃんと背筋を伸ばして正座する朱皇くんは凛々しくていいけど、こういう崩れた感じも抱き締めたくなるくらいにいい。つまり、とても可愛い。本当に可愛い。堪らなく可愛い。
 どうしよう、私。さっきまで悲しくて仕方なかったのに、今は朱皇くんをぎゅっとしたくてうずうずが止まらない。

「…………」

 そんな私に気付いたのか、こちらを向いた朱皇くんの目が、思いきり怪しい人を見るようなものになっている。

「そ、そうだ、ご飯! すぐに用意するからね」

 その目から逃れる言い訳に、求められていた朝食のことを思い出した私は、脚を畳んでいた卓袱台を出すと、昨夜コンビニで買って来たサラダや菓子パンを並べ、もう数えきれないくらいに漏らされた、呆れたような溜め息をつかれてしまうのだった。

 毎食手作りのご馳走を口にしているらしい朱皇くんは、それでも出されたものを残してはいけないと言われているのか(駄目なものは駄目ってことくらいあると思うけど)何だか儀式でもしてるかのような神妙な顔付きで、ブルーベリーのベーグルを食べ、不思議そうな表情で今度はチョコの入ったクロワッサンを食べた瞬間、尻尾が上機嫌で振られ、サラダを口にした頃に落ち着いた。
 美味しかったみたいで良かった。私が作ったものじゃないけど。

「これはもうないのか?」

 と、やっぱり最後はお茶がいいらしく、飲んで一息ついたところで朱皇くんが示したのは、クロワッサンの入っていた袋だった。

「買いに行かないとないよ。行っても、売り切れてるかもしれないけど……行って来ようか? そしたら落とし物も探して来れるし」
「否、ないならば良い。それに、俺が探していたものは多分この世界にはないだろう。俺をこのような姿に変えたのも、助けを望めぬ異世界へ放ったのも、野垂れ死ぬことを狙ってのことだろうからな」
「どうして朱皇くんがそんな目に遭わなきゃならないの? それより、どうしたらそんなことが出来るの? 朱皇くんの世界の人は、別の世界に簡単に往き来出来たりするの?」

 不思議で不思議で堪らないことがてんこ盛りだから、話したくないことかもしれないけれど、訊かずにいられない。
 朱皇くんは疲れたような表情で、ぬるくなったお茶の残りを飲み干すと、卓袱台を挟んだ正面に座る私に向けて凛とした声で語り始めてくれた。

「俺は、ロッソ皇国の第三皇子だ。現在の皇帝である父、潭赫たんかくが退位を表明したことによって、時期皇帝を定めるにあたり、よりによって皇帝は俺の名を示された。第一皇子であり、もっとも皇帝に相応しい千茜ちせん殿下がおられるのだから、一時の気の迷いに違いないが、その為に俺の存在が目障りとなった者たちがいるんだろう」
「えっ……朱皇くん、王子様なの? 本当に? 皇帝になるの? まだこんなに小さいのに?」
「小さいは余計だ、愚か者。実際の俺は21歳だと言っただろうが。霞の月には22歳だ。こんな幼年期の身体である筈がなかろう」

 …………どうしよう。分からないことを訊いてる筈なのに、分からないことが増えていく。
 何より、王子様(後に皇子だと訂正される)だった朱皇くんに対し、どう接すればいいか分からなくなって、頭の中がぐるぐるして真っ白になった。
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