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第参話
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「さあ、どうぞ」とばかりに私に合図を送る章杏さん。その狐目が笑みの為に深い弧を描き、口元もゆるんでいる。
ドッキリを仕掛けるようなわくわくしている様子に思えるそれを見ても、こちらとしては緊張と動揺とで硬直しそうな身体をぎこちなく動かしている為、挙動不審になりながらジリジリと眠っている朱皇くんの足元に近寄り、見た目によらずとても軽い掛け布団に手を掛ける。それだけでもう心臓がどうにかなってしまいそうだ。
だって、相手は立派な成年男子なのだ。あの小さな朱皇くんが相手だったなら、含み笑いでもしながらノリノリでいて、ここまで躊躇したりしなかったし緊張もなかっただろう。
この年になってもまだ男の人と触れ合う機会の少なかった私に、痴漢のように布団を捲り上げて尻尾のブラッシングをするなんていうのは難問でしかない。そして更にハードルを上げているのは、相手が綺麗過ぎる顔立ちの持ち主であるということ。
「青子様、お急ぎ下さいっ」
囁くような声で急かされても……あっ、足の裏が。
――チラリと見えただけで、捲った布団を戻してしまう。溜息が漏らされたが、それは勿論章杏さんのものだ。
「うっ……?」
「!!」
その時、呻くような声が聞こえた。しかしそれは章杏さんのものではない。
「はわわっ」
声はひそめられたままで慌てた様子の章杏さんに同調するまでもなく、私も慌てて身を隠そうとしたのかブラシを落として壁に張り付いていた。
そうしたところで隠れたことにならないというのは分かっていたけれど、そうする以外に他はないと体の方が判断したのだろう。
「チッ」
忌々しげな舌打ち。続いて掛け布団がこちらの方へ跳ね飛ばされ。
「きゃっ!?」
布団と壁とに挟まれ、逃げ場を失う。否、正確には布団を被せて押さえ付けて来る力に阻まれたのだ。
「――何をやっているんだ、お前は」
ややあって顔の部分だけ出されたかと思うと、呆れたような口調でそう言われてしまう。
息苦しさから解放されたと思ったのも束の間、朱皇くんの秀麗な顔が目の前にあって呼吸が更に苦しくなる。
「ブラシ……? 狐どもの差し金か」
足元に落ちているブラシを一瞥して状況を理解してくれたようだけど、依然として距離が近い。
「身体が痺れていたのは章杏の仕業だろうが、俺の寝込みを襲うような真似をしたのは青子だろう?」
「……っ……」
鼻の先が触れそうなまでに顔を近づけられ、頭の中が真っ白になってくらくらする。
伏せたような目が妙に色っぽくて、顔が熱くなった。
「あいつは逃げたようだが、お前はどうする? 折角だから、俺と一緒に寝るか? 前に聞いた甘い声をもう一度聞かせて貰おうか」
朱皇くんの両手が私の頬を包む。すぐに片方が首へと滑り落ち、擽ったい ような感覚に首を竦めると、くすくすと笑い声がした。
見れば、朱皇くんが楽しくて堪らないといった表情で私を見下ろしている。
「うぅっ」
揶揄われた。そう思ったら手が出て、朱皇くんの肩をバシリと叩いていた。
「あっ」
そうしてから今一度彼の身分を思い出す。さすがに叩いたりするのは無礼にあたるのじゃないかと思ったのだけれど、朱皇くんは気にした様子もなく。
「やはり、こちらの姿の方が、反応が楽しめて良いな」
なんて。
布団を寝台へと放って、落ちていたブラシを拾うと、その毛先の部分でぽんぽんと軽く私の頭を叩き。
「こいつは没収する」
「えっ? あの、でもそれ、私のじゃなくて……」
「分かってる。だからお前はいらないだろ」
「でも、朱皇くんの尻尾のブラッシングを頼まれたから……」
「される側がいらんと言ってるんだ。それに、何故お前がこのようなことをせねばならない? お前を使用人として扱わせた覚えはないが?」
言葉の端に不快さを示すような雰囲気が混じり、私は慌てて朱皇くんがしているだろう勘違いを正す。
「――成程な。青子のような世話焼きには、そのような考えに至るものかもしれんが、ここでは捨てろ。この屋敷の主の丹思が言うのであれば従っても良いが、それ以外は逆に慎め。お前がお前の立場を考えるならば尚更な」
「私の、立場?」
「俺がこの世界へ戻って来られた標を担う存在がお前だったのか、或いはお前の行動や言動にそれが介在していたのかは分からんが、それでも青子と会わなければ――お前が俺を拾ってくれなければ、叶わなかったやもしれんのだ。そのお前に俺はまだ何の恩返しもしていない。その上、お前はもう向こうの世界に戻れない。仮に、戻してやれる術があるなら、それが叶った時こそ恩を返せたことになるだろう。お前自身だって分かっている筈だ。自分がどれだけ深刻な事態に直面しているか」
「――」
真摯な眼差しが私を貫いて離さない。
多分、立場が変わっただけで、朱皇くんもあの時こんな気持ちだったのだろう。私は朱皇くんの身を哀れんで、ずっと自分が匿おうと決めていた。その為のことをあれこれ考えて、なのに世話にならないと言われて突き放されたような気分になったんじゃなかっただろうか。それを今、逆に私がしてしまっている……?
――でも、それでもやっぱり、居場所を提供されて色々与えて貰って。そればかりじゃ息苦しい程に居心地が悪い。好意に甘えて怠惰に過ごす厚かましい人間のように思えて。
「お前の気持ちを察していないなんて思わないでくれ。いずれは青子の気の済むように仕事をして貰うこともあるだろう。だが、今はお前がこの世界で生きることを受け止めることから始めて欲しい。理解しただけじゃ駄目なんだ。ゆっくりでいい。何日でもかければいい。この世界のことを知って、どう生きるかを考える時間を持つんだ」
――この世界で生きること……どう生きるか……?
ゾクリと背筋に悪寒が走る。そのことならちゃんと理解したつもりでいたのに、言葉にされるとまだ怯む自分がいる。
「その上で、俺のブラッシングをしたいって言うなら、特別にさせてやってもいい」
「!」
ぼそりと続けられた言葉に自然に笑みがこぼれた。唇を尖らせた朱皇くんが可愛らしく見えたこともあって。
そうして、今更ながら気付く。私が朱皇くんの腕の中にいるのだということを。
ずっと顔が近かったから、そちらにばかり意識が行っていた。けど、だからといって背中に回されている腕の温もりにすら気付かずにいたなんて。
顔に熱が集中する。朱皇くんの言葉で冷めていた頭の中まで行き渡りそうだ。
そんな風に、今度はそちらにばかり意識が向かいそうになっていた時。
コンコン、と躊躇いがちなノックの音が。
「入れ」
と返答する朱皇くんは、私を抱き締めていることなんて、何とも思っていないのかもしれない。「失礼します」とドアを開けた丹思様が、こちらを見てハッとした表情を見せても動揺する様子もないのだから。
私が意識し過ぎているだけなのかな。と過剰に反応していたことを恥ずかしく思っていると、丹思様は少し困ったような表情をしながら口を開く。
「朱皇様、大変申し訳ないのですが、暫く青子様のお時間を頂いても宜しいでしょうか」
「そのようなこと、俺に遠慮することでもないだろう」
「――」
私の髪を指に絡めさせてくるくるしている朱皇くん。しかしそれは、丹思様の次なる言葉で動きを止めた。
「外に蒼慈殿が迎えに来られています。千茜様の元へお連れになるそうなのです」
ドッキリを仕掛けるようなわくわくしている様子に思えるそれを見ても、こちらとしては緊張と動揺とで硬直しそうな身体をぎこちなく動かしている為、挙動不審になりながらジリジリと眠っている朱皇くんの足元に近寄り、見た目によらずとても軽い掛け布団に手を掛ける。それだけでもう心臓がどうにかなってしまいそうだ。
だって、相手は立派な成年男子なのだ。あの小さな朱皇くんが相手だったなら、含み笑いでもしながらノリノリでいて、ここまで躊躇したりしなかったし緊張もなかっただろう。
この年になってもまだ男の人と触れ合う機会の少なかった私に、痴漢のように布団を捲り上げて尻尾のブラッシングをするなんていうのは難問でしかない。そして更にハードルを上げているのは、相手が綺麗過ぎる顔立ちの持ち主であるということ。
「青子様、お急ぎ下さいっ」
囁くような声で急かされても……あっ、足の裏が。
――チラリと見えただけで、捲った布団を戻してしまう。溜息が漏らされたが、それは勿論章杏さんのものだ。
「うっ……?」
「!!」
その時、呻くような声が聞こえた。しかしそれは章杏さんのものではない。
「はわわっ」
声はひそめられたままで慌てた様子の章杏さんに同調するまでもなく、私も慌てて身を隠そうとしたのかブラシを落として壁に張り付いていた。
そうしたところで隠れたことにならないというのは分かっていたけれど、そうする以外に他はないと体の方が判断したのだろう。
「チッ」
忌々しげな舌打ち。続いて掛け布団がこちらの方へ跳ね飛ばされ。
「きゃっ!?」
布団と壁とに挟まれ、逃げ場を失う。否、正確には布団を被せて押さえ付けて来る力に阻まれたのだ。
「――何をやっているんだ、お前は」
ややあって顔の部分だけ出されたかと思うと、呆れたような口調でそう言われてしまう。
息苦しさから解放されたと思ったのも束の間、朱皇くんの秀麗な顔が目の前にあって呼吸が更に苦しくなる。
「ブラシ……? 狐どもの差し金か」
足元に落ちているブラシを一瞥して状況を理解してくれたようだけど、依然として距離が近い。
「身体が痺れていたのは章杏の仕業だろうが、俺の寝込みを襲うような真似をしたのは青子だろう?」
「……っ……」
鼻の先が触れそうなまでに顔を近づけられ、頭の中が真っ白になってくらくらする。
伏せたような目が妙に色っぽくて、顔が熱くなった。
「あいつは逃げたようだが、お前はどうする? 折角だから、俺と一緒に寝るか? 前に聞いた甘い声をもう一度聞かせて貰おうか」
朱皇くんの両手が私の頬を包む。すぐに片方が首へと滑り落ち、擽ったい ような感覚に首を竦めると、くすくすと笑い声がした。
見れば、朱皇くんが楽しくて堪らないといった表情で私を見下ろしている。
「うぅっ」
揶揄われた。そう思ったら手が出て、朱皇くんの肩をバシリと叩いていた。
「あっ」
そうしてから今一度彼の身分を思い出す。さすがに叩いたりするのは無礼にあたるのじゃないかと思ったのだけれど、朱皇くんは気にした様子もなく。
「やはり、こちらの姿の方が、反応が楽しめて良いな」
なんて。
布団を寝台へと放って、落ちていたブラシを拾うと、その毛先の部分でぽんぽんと軽く私の頭を叩き。
「こいつは没収する」
「えっ? あの、でもそれ、私のじゃなくて……」
「分かってる。だからお前はいらないだろ」
「でも、朱皇くんの尻尾のブラッシングを頼まれたから……」
「される側がいらんと言ってるんだ。それに、何故お前がこのようなことをせねばならない? お前を使用人として扱わせた覚えはないが?」
言葉の端に不快さを示すような雰囲気が混じり、私は慌てて朱皇くんがしているだろう勘違いを正す。
「――成程な。青子のような世話焼きには、そのような考えに至るものかもしれんが、ここでは捨てろ。この屋敷の主の丹思が言うのであれば従っても良いが、それ以外は逆に慎め。お前がお前の立場を考えるならば尚更な」
「私の、立場?」
「俺がこの世界へ戻って来られた標を担う存在がお前だったのか、或いはお前の行動や言動にそれが介在していたのかは分からんが、それでも青子と会わなければ――お前が俺を拾ってくれなければ、叶わなかったやもしれんのだ。そのお前に俺はまだ何の恩返しもしていない。その上、お前はもう向こうの世界に戻れない。仮に、戻してやれる術があるなら、それが叶った時こそ恩を返せたことになるだろう。お前自身だって分かっている筈だ。自分がどれだけ深刻な事態に直面しているか」
「――」
真摯な眼差しが私を貫いて離さない。
多分、立場が変わっただけで、朱皇くんもあの時こんな気持ちだったのだろう。私は朱皇くんの身を哀れんで、ずっと自分が匿おうと決めていた。その為のことをあれこれ考えて、なのに世話にならないと言われて突き放されたような気分になったんじゃなかっただろうか。それを今、逆に私がしてしまっている……?
――でも、それでもやっぱり、居場所を提供されて色々与えて貰って。そればかりじゃ息苦しい程に居心地が悪い。好意に甘えて怠惰に過ごす厚かましい人間のように思えて。
「お前の気持ちを察していないなんて思わないでくれ。いずれは青子の気の済むように仕事をして貰うこともあるだろう。だが、今はお前がこの世界で生きることを受け止めることから始めて欲しい。理解しただけじゃ駄目なんだ。ゆっくりでいい。何日でもかければいい。この世界のことを知って、どう生きるかを考える時間を持つんだ」
――この世界で生きること……どう生きるか……?
ゾクリと背筋に悪寒が走る。そのことならちゃんと理解したつもりでいたのに、言葉にされるとまだ怯む自分がいる。
「その上で、俺のブラッシングをしたいって言うなら、特別にさせてやってもいい」
「!」
ぼそりと続けられた言葉に自然に笑みがこぼれた。唇を尖らせた朱皇くんが可愛らしく見えたこともあって。
そうして、今更ながら気付く。私が朱皇くんの腕の中にいるのだということを。
ずっと顔が近かったから、そちらにばかり意識が行っていた。けど、だからといって背中に回されている腕の温もりにすら気付かずにいたなんて。
顔に熱が集中する。朱皇くんの言葉で冷めていた頭の中まで行き渡りそうだ。
そんな風に、今度はそちらにばかり意識が向かいそうになっていた時。
コンコン、と躊躇いがちなノックの音が。
「入れ」
と返答する朱皇くんは、私を抱き締めていることなんて、何とも思っていないのかもしれない。「失礼します」とドアを開けた丹思様が、こちらを見てハッとした表情を見せても動揺する様子もないのだから。
私が意識し過ぎているだけなのかな。と過剰に反応していたことを恥ずかしく思っていると、丹思様は少し困ったような表情をしながら口を開く。
「朱皇様、大変申し訳ないのですが、暫く青子様のお時間を頂いても宜しいでしょうか」
「そのようなこと、俺に遠慮することでもないだろう」
「――」
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