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第陸話
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しおりを挟む「ねえアオコ。彼ってば酷いんだよ? ずっと二股かけてたの。それどころか、あたし本命じゃなかったって……」
優理花が泣いてる。制服姿なのは高校生の頃を思い出しているのか。
またか。といった慣れに似たやるせなさと、どうしてこんなことばかり彼女の身に起きるのか神さまを恨みたいような気持ちと、自分までもが傷つけられたような錯覚が、胸中で鬩ぎ合う。
「あんなに優しかったのに、急に殴られて……。ううん、大丈夫。痣が凄かったけどあまり目立たなくなってきたし……。何でいつもこうなんだろう。あたしのこと、好きになってくれる人なんて、いないのかなあ? 誰かを好きになるのはいけないこと? カッコいい人は他の誰かのもので、あたしなんかじゃ相手にされないってこと? だったら初めから相手にしてくれなきゃいいのに。嘘ついて喜ばせて騙すの、あんまりだよ……」
泣きじゃくる優理花に、私は何も言ってあげられなかった。ただ、抱き締めて、その背中を摩ることくらいしか出来なくて、もどかしくて不甲斐なくて、何で自分はこうなんだろうって悔しかった。
「そんな人ばかりじゃないよ」
私の代わりに他の友人たちが優理花を慰める。
「今は、男を見る目を養ってる最中なんだから、次はイイ男を捕まえられるって」
「そうだよ。優理花は可愛いんだから、大事にしてくれる人がすぐに現れるよ」
本当に? と確認する優理花に、彼女たちは笑顔で頷く。きっと気休めじゃなくて、本心からの願いでもあっただろう。
恋を知らない訳じゃない。それが他人から見れば幼稚なものだったとしても、私の中では本当の恋だった。
誰かを好きになるという気持ちは、自由に持っていいものだと思っていた。
それはまだ、私が子供だったからだ。
「千茜兄上は立派な方だ。きっとお前を幸せにしてくれる」
――どうして、そんなこと言うの?
優理花たちの姿が消え、馴染みのある声が私の胸にそっとトゲを刺す。
記憶なのか妄想なのか分からない言葉で傷付くなんて、おかしなことだ。そう頭の隅では理解しているのに、感情は理解してくれない。
「兄上こそが皇帝に相応しい。側室だからといってお前の身が軽んじられることはない」
既に側室候補がいる千茜様にとって、私は何番目?
本当に必要とされているの? 側室になる理由の中に、愛情は含まれている?
あなたにとっての私は――物の数にもならない存在だったの……?
「おや、目が覚めたようだね」
「っ!?」
何か夢を見ていたような気がする。と、ぼんやりした頭で思い出そうとしながら瞬きを繰り返していると、私が横たわっている真横に重心を掛ける手が置かれ、甘さを滲ませた低音の声が降りてくるのを感じた。
それはあまりにも不意打ちで、予想すらつかなかったことで、既に倒れたような状態であって良かったと心底思う。
――いいえ。前言撤回します。横になってる場合でもありませんでした。
「随分と驚いた顔をしている。今の状況を理解しているかね?」
仰向けになった私の目前。鼻先がくっつきそうなまでに近い……近すぎる距離に、朱皇皇子に似た面差しの、それでも皇子より年齢が上な分、美しさの中に妖艶さと精悍さを併せ持った大人の男性の顔がある。
紅玉のような瞳に怯えたような私の顔が映り込んでいるのが、やけにハッキリと見えるのが、私の全てを見透かされているようで怖い。
黒狼族であるが故に、愛嬌を添えてくれそうな耳も、何故だか神聖なものに思えてしまって、可愛らしいと和むことも出来なかった。
どうして、千茜様が?
心臓が壊れてしまうんじゃないかというくらいに、激しい鼓動に息が苦しい。
相手がどういう立場にある人なのかも忘れて、その近すぎる距離から解放されるべく、思いきり突き飛ばしてしまいたくなる。
「ククッ」
「!」
喉の奥で笑うと、ゆっくりと離れていく。
身体が緊張で強張っていたらしく、物凄い脱力感と疲労感に見舞われた。
距離の近さとか、揶揄っていたみたいなところとか、本当によく似た兄弟だと思う。お陰で大変な思いをさせられる側としては、微笑ましく思えないことだけれど。
「体調に不具合はないかね? 些細なことでも気にせず言葉にしてくれ。キミに何かあった場合には、すぐに報せなければならないのだからね」
やたらと大きな寝台の上にいることを、起き上がってから知り、さっぱり状況が飲み込めない。
見渡せる限りの室内は、このキングサイズというものなのか、私にはちょっと分からないのだけど、兎に角広くて大きな寝台――藤四郎くん(パピヨン)がはしゃぎ回っても十分なくらいだ――を中心に据えて、飾り気のない、渋い色をした重厚な造りのチェストに、見覚えのあるドレッサー。
「ああ、それは丹思の元から運び込んだものだよ。慣れた物を使う方が良いと思ってね」
「……運び、込んだ……」
言われたことをおうむ返しするように呟いてハッとする。
あのお屋敷は襲撃に遭ったのだ。跳ねるように寝台から下りてドレッサーに飛び付くと、割れたガラスが刺さったような跡と、僅かな焦げ目があるのが分かる。それでも材質が良いものだからか職人の腕か、まだまだ十分に使えそうだ。鏡も綺麗でホッとしたのは、それほど長い間使っていた訳でもないけれど、愛着があったのだろう。こちらに来て、私物もお金もなくて惨めだった私にとっての贅沢品でもあるのだから。
「成程。条件の一つとして聞き入れたのは正解だったということか」
それは独り言だったのか、私に向けて言ったのか分からないけれど、こちらはそれどころではなかった。
「章杏さんは……? 章杏さんのこと、何かご存知ありませんか?」
鏡に映った自分の姿。着ている服を目にして、彼女の笑顔が浮かぶ。
私には必要のない尻尾の部分を、自分が縫ったのだと言って見せてくれた章杏さん。捻った足を治してくれた章杏さん。何かしてくれる度に丹思様に報告してと念押しする章杏さん。
私がこの世界に来てから、きっと一番長い時間を共に過ごしてくれた彼女が、もうこの世にいないなんて、まだ信じられない。信じたくないことだった。
「――」
千茜様が黙って私を見据えた。そこで、失敗してしまったと思う。
どれだけ大事なことであっても、相手を無視するような質問のぶつけ方だった。ましてや相手は皇族。同じ皇族でも、朱皇皇子や丹思様と同じように接してしまえる人ではなかった。
「も、申し訳ありません」
深く頭を下げる。そうしながら、ここは膝を着くべきだろうか。土下座というものが通じるならば、そちらの方がいいだろうかと考える。
「否。気を悪くした訳ではない。少し驚いただけなのだよ。君が今一番知りたいことがそれであるということに」
「……?」
「青子が倒れたのは、わたしからの書状を読み上げた後だと聞いている。それから丸一日目覚めなかったのだ。自分が何処にいるか、何故わたしと一緒であったのかを訊ねるのが普通ではないのかね?」
言われてみれば、そちらが気にならなかった訳ではない。十分疑問に思ったし動揺もした。そして、あれから一日が経過していたという事実にも驚いている。
それだけの時間があったから、私の中である程度の整理がついていたのかもしれない。
だからこそ、確認したいものの一番は章杏さんのこととなったのだ。
だって、仮に丹思様に顔向け出来ないことをしてしまっていたとしても、自害するには性急過ぎるから。
蒼慈さんから事情を聞いていたらしい千茜様にそう告げると、何故か私を凝視して「クッ」と笑う。
「なかなかに頭の回る娘だ」
「……」
「だが、その点であれば丹思どもも気付いているよ。一応、自害する決意を固めたのは『自分と入れ違いにあの場所へ仲間を引き入れたところを、栞梠に見咎められたからだ』となってはいるがね」
「――栞梠さんが……?」
「その者は丹思が赤子の頃から仕えていた。乳母の代わりとして面倒をみてやっていたこともあると聞く。それだけに、アレへの執着は強い。裏切りを知れば容赦なく責め立てただろう。その叱責に耐えられなくなってのことだとは考えられないかね?」
「それでも、あまりにも時間が早すぎます」
自害のその手段は聞いていないけれど、妖狐族なら蘇生は無理でも生かそうと手を尽くす筈。だって、仮に……本当にもしもの話として、章杏さんが玖涅くんが捕まえたあの黒塗りの人を引き入れたのだとしても、そして私が食べた睡眠薬入りのドライフルーツを入れたのだとしても、彼女一人で考えて実行する筈がないのだ。唆した誰かを追及する為に、証言を必要とするものじゃないのだろうか。あんな短時間で済まされることとはとても思えない。
睡眠薬の臭いを誤魔化す為に、腐ったものを入れていたとする玖涅くんの言葉を思い出した時、それを手にした時の章杏さんの、悪いことを考えていそうな笑みまで思い出してしまったけれど、あれは絶対に関係ないことだ。じゃなければ見間違いだったんだろう。ランタンの灯りによる陰影の所為だ。
「そうなると、他に怪しい者が浮上することになるが、そのことに気が付いた上で言っているのかね? 栞梠を疑えと言っているようだが?」
「――っ!」
そんなつもりはなかった。頭にもなかった。
頭を振る私に、千茜様は再び笑う。
「どちらにせよ、あの屋敷には戻ることは出来ない。妖狐族に預ける訳にもいかず、城に置いておく訳にもいくまい。故にわたしが下した決定は、実に良い頃合いだったということだね」
「決定……?」
「青子をわたしの側室に迎えることだよ。よもや忘れてはおるまい?」
「何を――!」
近付いて来た千茜様の手がこちらに伸びる。
その分だけ後退した私の中で「こんな時に何を言っているのか」とか「今はそんな話をしていない」とか「側室になることが決定だなんておかしい」とか「頃合いの問題じゃない」とか、言葉として成立しないものを含めて様々な思いが溢れだしたけれど、結局口を突いて出たのは。
「嫌です。私は側室になんかなりませんっ」
だった――。
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