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第陸話

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「ほう」

 言い放った後で、激しく動揺して泣きたくなった私に対し、千茜様は目をくりんとさせて、口元に笑みを湛えた。
 私が言ったことを全く気にしていないのか、手振りで寝室から続く部屋に通されると、そこには新調されたと思える黒い革張りのソファの一人掛け用が対となる形で丸い猫足テーブルを挟んで置いてあった。こちらの世界でもあったのか、初めて見る可愛らしいハート型の赤いクッションに、泣きそうだった気分が少し取り払われる。
 それから、アンティーク風な飾り棚の中に、黒狼族を模したぬいぐるみがあった。その姿が元の世界で見た朱皇皇子に似ていて、更に気分が上がっていく。
 他にも実物を見掛けたことはないのだけど、猫や羊の置物が小さな風景画の前に並んでいて、なんとなくほのぼのとした雰囲気を添えている。それからエジプトの壁画に見られるグレーハウンドのような犬の鋳造品(シルバー)が大小の家族っぽい配置で置かれていた。
 そういえば犬も見掛けていない。この世界に来て見掛けた動物といえば、鳥くらいだろう。

「気に入った物でもあるのかね?」

 長く見入っていたのだろう。千茜様が傍らに立って、身を屈めた私の目線で飾り棚を覗いた。

「い、いえ。可愛らしいなあと思いまして」

 答えながら距離を取ろうとする私に、今度はソファに座るよう促す。

「し、失礼します」

 いちいちどもってしまうのは、傍で聴く千茜様の声にドキドキしてしまっているからだ。
 声が裏返ってしまっていない分、なんとか誤魔化すことが出来ている……といいのだけど。

「失礼致します」

 私がクッションの手触りの良さにときめきながら、ソファに腰掛けた頃、変声期を迎えていないような声がドア越しに届き、千茜様の返事を待ってまだ幼い子が姿を見せた。
 幼いといっても、小さい朱皇皇子のような姿よりちょっとお兄さんになった感じ。確か少年期と呼ばれている姿だろう。話を聞いた時は人でいう十七歳前後の、少し大人び始めた頃のものを思い浮かべたけれど、まだあどけなさを十分に残した十四歳くらいに思える。

「お部屋にお戻りになられませんでしたので、もしかしたらと思い、お飲み物と軽食を用意させていただきました」

 言って、千茜様の許しを得てから室内に押して来たワゴンには、紅茶のセット、サラダとローストビーフを挟んだパニーニのようなもの、ジュレの中に浮かべられた真ん丸な形のフルーツといったものが載せられていた。
 すると、先程まで微塵にも感じていなかった空腹感に襲われ、お腹が盛大に悲鳴を上げる。

「……ククッ」
「はうっ……。す、すみません……」

 もう嫌だ、このパターン。朱皇皇子ばかりか千茜様にまで聞かれてしまうなんて。
 運んで来てくれた少年くんが、微笑ましいような表情で私を見ているのも恥ずかしい。

「青子。この理杜りずに君の世話を任せる。何かあれば彼に相談することだ。無論、わたしを頼りとしても構わないのだがね」
「えっ……」
「青子様、お初にお目にかかります。理杜と申します。どうぞ末長くお側に置いて下さいませ」
「あ、はい。こちらこそ宜しくお願いします?」

 丁寧な挨拶を受けて、反射的に立ち上がって頭を下げながら、あれ? と思う。

「あ、違うんです。わたし、千茜様の側室にはなりません」

 あわあわと両手を振って否定すると、理杜くんが何故だか傷付いた目で私を見上げた。
 しょんぼりとした耳と尻尾に、何か酷いことを言ってしまっただろうかと焦ってしまう。

「青子様は僕のことをお気に召されなかったのですね。だからといって、殿下の側室をお断りするなんて……。代わりの者は他にちゃんとおりますから、どうかすぐに撤回なさって下さい。――千茜殿下、大変申し訳ありません。青子様の暴言は全て僕の責任です。ですからどうか、青子様を斬首刑に処することだけはお許し下さいっ」

 ――――え?

 ガバリと床に額突ぬかずく理杜くんの姿に、暫く憮然となる。
 何か、おかしなことを聞いたような……?

「理杜くんには、何の落ち度もありません」

 けれどそれより、いつまでも少年にこんなことをさせている訳にはいかない。
 まだぼんやりしている頭をどうにか動かしながら、千茜様に向き直る。

「脅しには屈しません。責任を問われるならば当事者である私だけです。死刑にあたるというならばそれで構いません。このようなことで咎め立てなさるような方の側室になるより救われます」

 言いながら、どうしてこんなに強気で捨て鉢なことを口にしているのかと、激しく混乱していた。
 今の私は「私」だろうか。対等ではない相手に、何様のつもりだと罵倒されてもおかしくない。
 だけど、と何処かで諦めの気持ちがあった。
 何でこんなことになってしまったのか分からないけれど、朱皇皇子の元にいられないなら、消えてしまっても同じことだと思う。だって、丹思様が言っていたのだ。私がこの世界に来たのは朱皇皇子の支えとなる為だと。
 だから、私は――。

「理杜。わたしはそのような茶番を求めた覚えはないのだがね?」

 思考を遮るように、千茜様がそう言って理杜くんを立ち上がらせる。
 茶番? ということは、騙されてる?

「しかし、二度までもきっぱりと拒絶を表明されるのは、少しばかり堪えるものがあるのだよ」
「ああ、殿下。おいたわしい……」

 片方の耳を伏せ、胸をおさえる千茜様と、目元に手をあてて涙をおさえる振りをする理杜くん。まさか茶番とやらに千茜様が乗っかった? そもそも、千茜様ってそういう方でしたっけ?
 と、反応に困っていると、千茜様がクスクス笑いながら理杜くんを労って退室させる。
 そして改めて私を座るよう促すと、先ずは空腹を満たすようにとすすめられ、自身はゆったりとした雰囲気で紅茶を飲み始めた。

 腑に落ちない気分のまま、約一日振りの食事を摂り、一息ついたところで顔も洗っていなかったことを、今更ながらに思い出し、別のドアから続くトイレ付きのバスルームであれこれ済ませ、ドレッサーでせめて化粧水だけでもとウロウロしている私を、千茜様が視線だけで追っているのが分かった。
 何だか高級ホテルのようだなといった感想を抱く。一晩十万を下らないだろう。イメージ的なもので、一万以下のお手頃なところしか泊まったことはないし、実家の旅館だって一番高値の部屋でも二万と少しだったから、あまり高級なところと縁がなかった。……否、もう考えたら駄目だ。
 手早く身仕度を終わらせて「大変お待たせしました」と千茜様に頭を下げた時点で、一時間近く掛かってしまっていただろうか。それでも千茜様は気を悪くした風もなく、立ち上がって私に近付くと。

「もう少し、時間を掛けてくれても構わなかったのだがね」

 と、何だか残念そうに言われてしまう。
 多分、お化粧をしていないからだろう。私はどうも下手のようで、してもしなくてもそう変わらないという程度でしかないものだから、つい手抜きをしてしまうのだ。これは相手が朱皇皇子でもそんなに違いはない。
 せめて口紅くらいは常識だったかな、と反省していると、千茜様に顎をクイッと上げられて。

「紅をかないのは、わたしの唇に付いてしまわないよう、配慮したということかね?」
「っっ!」

 当然のようにキスしそうなまでに顔を近付けて来られ、私はその場に座り込むことで回避した。

 …………。

 なんのことはない。ただ、千茜様の声が深みと甘さを増したお陰で腰を抜かしてしまっただけのことだった。

「ふむ。少々計算が狂ったか。やはり人族は一筋縄ではいかない、ということかね」

 楽しそうな千茜様に助けられながらソファに座らせて貰い、お礼を口にしながらも、こうなったのは千茜様の所為なのだから言うまでもなかったかな、と思ってみたりする。どちらにしても、そんなに横柄な態度を取るつもりはないけれど。

「君に一つ、忠告しておこうか」

 お行儀悪く肘掛けに腰を下ろして、私の耳を指でもてあそびながら千茜様が声をひそめる。

「青子が誰を想っていても、わたしが君を側室にと望んだことで、この決定は覆らない。わたしより地位の高い者――皇帝でもない限りは、奪い取ろうとすることも大罪だ」
「……そんな……」
「それでもわたしの側室になりたくないと言うのであれば、少しだけ時間をあげよう。時が時であるからね、急いては君を真実わたしのものとは出来ぬだろう。これでもわたしは青子を気に入っているのだよ。特にこの耳とか」
「ひゃっ!?」

 ふぅ、と息を吹き掛けられ、首を竦めて反対側の肘掛けに凭れるようにして逃げる。

「間違っても他の者の前でわたしの側室にならないといったことを、口にしてはいけないよ。断れば斬首刑。この国ではそう定められているのだから」
「――!」
「でなければ、朱皇が君をこちらに寄越す筈もあるまい?」

 尚もこちらに手を伸ばして、私の耳に触ろうとしてくる指を警戒しながら、千茜様の紅玉のような瞳を見つめた。

「まあ、あれがわたしの意に背くことなどないのだから、定められておらずとも渡したに違いないが――今は青子を護ることが大事だからね。わたしを信じて託したとも言える」

 優しい眼差しだった。愛しいように錯覚してしまいそうな程。
 つい、陶然としてしまいそうだった私は、しかし千茜様が続けられた言葉で何とも言えない気分になるのだった。

「妄信的にわたしを慕っている朱皇に、少しばかり嫌がらせをした、とも言えるのだがね」
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