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香琴国――叢雲 1――
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そこは、藤色の花を満開にさせた藤玉蘭と呼ばれる樹木に占拠された地だった。
玉蘭と名はついているが、通常のものとは花の形が微妙に違う。
魔を退けると伝えられている芳香が一帯を覆っていることで、嗅覚の鋭い者や敏感な者にとってはややきつく感じられる為、魔物どころか獣や人もあまり訪れないらしい。
フィリーネは不快そうに眉間にシワを刻んだが、ロミーは酸っぱい物でも口にしたようなものに近い、形容しにくい表情になっていた。
「やはり魔族にとっても嫌なものですか? 藤玉蘭の香りは」
クラウスはそんな二人の様子を興味深げに見ながら尋ねる。
「今だけは、この鼻をもいでしまいたいと思ってしまうくらいですわ」
「…………くちゃい」
「ロミーにこのような顔をさせている時点で、察して下さいませ」
「……しゃいの。くちゃいの。くちゃ……しゃう……っくちゅんっ!」
「おやおや、困りましたねえ」
そこにいるのは三人だけであった。
ロミーはドレスではなく、薄汚れた黒いワンピースに着替えており、今は靴も履いていない。
「どうします? お帰りになりますか? フィリーネ」
「そうしたい気持ちでいっぱいですけれど、そうもいきませんわ。わたくしはあなた方が何をなさろうとしているのか、しっかりと見届けなくてはなりませんもの」
「悪巧みを働く訳ではないのですが」
「ここまで来て勝手な行動をなさろうとするのがいけないのですわ。疑われて当然です」
「しかし、ここに嗅覚の発達した、大神族の二人を連れて来るのは可哀想ですし、かといって二人だけを残せば、意地でもついてきてしまいそうですから、アメリアさんのことをお任せするしかないと思いましてね。それに――」
言葉を切ったクラウスは、藤玉蘭に囲まれて建つ「藤御殿」と呼ばれている屋敷の方へ目を向ける。
木々の合間を縫って朧気に見える屋敷に、人の気配すら感じ取ることは出来ないが、それでもクラウスの何かを探るような目は険しい。
「アメリア様をお連れして、何かあったら大変ですからね。先ずは確認をと思ったのですよ」
「……そう」
短く答えたフィリーネは、クラウスがアメリアを呼ぶ際に敬称が変わることに違和感を覚えていた。
言い間違えたのか、こちらに合わせているだけと考えられなくはないが、そういったものとは違う意味があるように思えてならない。
今は目映い程に白い六翼だが、その一翼が黒く見えたことについても疑念が起こる。そういった存在を知識として聞き知ってはいたが、目の前にいる青年がそうであるというのは、にわかには信じ難いものがあった。
性格に難が有りそうではあるが、決して穢れてはいない。それなのに内在する闇きものを、ふとした拍子に感じ取れてしまう。未成熟であるが故の危うさを孕んでいるように。
「フィリーネ。行きますよ?」
「え、ええ」
考えていることを見透かしたように、菫色の瞳に揶揄するような色が差し込む。
しかし、見透かされたと思ったのは、フィリーネ側に後ろめたいような気持ちがあったからで、クラウスは藤玉蘭の放つ効能のことで、帰りたい本心を痩せ我慢して隠そうとしているのだろう、といった、あながち勘違いとも言えないことで、揶揄を含めた視線を送っただけかもしれないが。
「こちらには、どの様な方が住んでいらっしゃいますの?」
ロミーがわざわざ着替えてついて来ているということは、ただ知己に会うといった和やかなものではないと思われる。
だが、こうして魔を退ける芳香を放つ樹木に囲まれた屋敷の主であれば、天遣族であるクラウスが警戒する必要はない筈だ。
「こちらには……。おっと、説明は後でも宜しいでしょうか」
答えようとしたクラウスだが、向かおうとした先から漂う邪気に、表情を引き締める。
「仕方ありませんわね。まさか守られている筈の内側から現れるとは、思いも致しませんでしたわ」
二人が身構えるのを見て、ロミーも尻尾をゆっくりと揺らしながら低い体勢を取るが、不思議そうにクラウスを見上げる。
「お待ちしておりましたぞ……クラウス殿……」
緩慢な動きであるのに、現れた男の移動速度は速く、瞬きのうちに距離を詰められ、ロミーは思わず後方へ退く。フィリーネの足元からも、僅かに足を滑らせる砂利の音がした。
「藤玉蘭でも抑えきれませんでしたか」
男は人の姿をしていたが、両足と左腕が異様に大きくなっており、色も赤黒く変色していた。そして爪は獣のものというより魔物のもののように長く鋭い。
異様であるのはそれだけではなく、背中に皮膜の翼が片方だけ生えていることだった。
天遣族のものは数に違いはあれど、等しく鳥の翼に似たものだが、男のそれは蝙蝠のものに似ていた。皮膜全体に張り巡らされた血管が、脈打つ度に赤く光って見える。
元の色が定かでない程に目は白濁し、鈍色の髪は胸の辺りまで長さがあるが、ボサボサであるからということを除外しても、艶がなく長さもあちこちで違っているようだ。
「魔族堕ち……ですわね……?」
「堕ちていません。――まだ、間に合う」
フィリーネの言葉を否定し、クラウスは牙を剥いて襲い掛かって来るのをヒラリと飛んでかわすと、男の背後に回り、脈打つ皮膜に手を掛けて広げさせ、その真ん中を顕現させた小さな剣で一気に斬り裂いた。
玉蘭と名はついているが、通常のものとは花の形が微妙に違う。
魔を退けると伝えられている芳香が一帯を覆っていることで、嗅覚の鋭い者や敏感な者にとってはややきつく感じられる為、魔物どころか獣や人もあまり訪れないらしい。
フィリーネは不快そうに眉間にシワを刻んだが、ロミーは酸っぱい物でも口にしたようなものに近い、形容しにくい表情になっていた。
「やはり魔族にとっても嫌なものですか? 藤玉蘭の香りは」
クラウスはそんな二人の様子を興味深げに見ながら尋ねる。
「今だけは、この鼻をもいでしまいたいと思ってしまうくらいですわ」
「…………くちゃい」
「ロミーにこのような顔をさせている時点で、察して下さいませ」
「……しゃいの。くちゃいの。くちゃ……しゃう……っくちゅんっ!」
「おやおや、困りましたねえ」
そこにいるのは三人だけであった。
ロミーはドレスではなく、薄汚れた黒いワンピースに着替えており、今は靴も履いていない。
「どうします? お帰りになりますか? フィリーネ」
「そうしたい気持ちでいっぱいですけれど、そうもいきませんわ。わたくしはあなた方が何をなさろうとしているのか、しっかりと見届けなくてはなりませんもの」
「悪巧みを働く訳ではないのですが」
「ここまで来て勝手な行動をなさろうとするのがいけないのですわ。疑われて当然です」
「しかし、ここに嗅覚の発達した、大神族の二人を連れて来るのは可哀想ですし、かといって二人だけを残せば、意地でもついてきてしまいそうですから、アメリアさんのことをお任せするしかないと思いましてね。それに――」
言葉を切ったクラウスは、藤玉蘭に囲まれて建つ「藤御殿」と呼ばれている屋敷の方へ目を向ける。
木々の合間を縫って朧気に見える屋敷に、人の気配すら感じ取ることは出来ないが、それでもクラウスの何かを探るような目は険しい。
「アメリア様をお連れして、何かあったら大変ですからね。先ずは確認をと思ったのですよ」
「……そう」
短く答えたフィリーネは、クラウスがアメリアを呼ぶ際に敬称が変わることに違和感を覚えていた。
言い間違えたのか、こちらに合わせているだけと考えられなくはないが、そういったものとは違う意味があるように思えてならない。
今は目映い程に白い六翼だが、その一翼が黒く見えたことについても疑念が起こる。そういった存在を知識として聞き知ってはいたが、目の前にいる青年がそうであるというのは、にわかには信じ難いものがあった。
性格に難が有りそうではあるが、決して穢れてはいない。それなのに内在する闇きものを、ふとした拍子に感じ取れてしまう。未成熟であるが故の危うさを孕んでいるように。
「フィリーネ。行きますよ?」
「え、ええ」
考えていることを見透かしたように、菫色の瞳に揶揄するような色が差し込む。
しかし、見透かされたと思ったのは、フィリーネ側に後ろめたいような気持ちがあったからで、クラウスは藤玉蘭の放つ効能のことで、帰りたい本心を痩せ我慢して隠そうとしているのだろう、といった、あながち勘違いとも言えないことで、揶揄を含めた視線を送っただけかもしれないが。
「こちらには、どの様な方が住んでいらっしゃいますの?」
ロミーがわざわざ着替えてついて来ているということは、ただ知己に会うといった和やかなものではないと思われる。
だが、こうして魔を退ける芳香を放つ樹木に囲まれた屋敷の主であれば、天遣族であるクラウスが警戒する必要はない筈だ。
「こちらには……。おっと、説明は後でも宜しいでしょうか」
答えようとしたクラウスだが、向かおうとした先から漂う邪気に、表情を引き締める。
「仕方ありませんわね。まさか守られている筈の内側から現れるとは、思いも致しませんでしたわ」
二人が身構えるのを見て、ロミーも尻尾をゆっくりと揺らしながら低い体勢を取るが、不思議そうにクラウスを見上げる。
「お待ちしておりましたぞ……クラウス殿……」
緩慢な動きであるのに、現れた男の移動速度は速く、瞬きのうちに距離を詰められ、ロミーは思わず後方へ退く。フィリーネの足元からも、僅かに足を滑らせる砂利の音がした。
「藤玉蘭でも抑えきれませんでしたか」
男は人の姿をしていたが、両足と左腕が異様に大きくなっており、色も赤黒く変色していた。そして爪は獣のものというより魔物のもののように長く鋭い。
異様であるのはそれだけではなく、背中に皮膜の翼が片方だけ生えていることだった。
天遣族のものは数に違いはあれど、等しく鳥の翼に似たものだが、男のそれは蝙蝠のものに似ていた。皮膜全体に張り巡らされた血管が、脈打つ度に赤く光って見える。
元の色が定かでない程に目は白濁し、鈍色の髪は胸の辺りまで長さがあるが、ボサボサであるからということを除外しても、艶がなく長さもあちこちで違っているようだ。
「魔族堕ち……ですわね……?」
「堕ちていません。――まだ、間に合う」
フィリーネの言葉を否定し、クラウスは牙を剥いて襲い掛かって来るのをヒラリと飛んでかわすと、男の背後に回り、脈打つ皮膜に手を掛けて広げさせ、その真ん中を顕現させた小さな剣で一気に斬り裂いた。
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