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第五章 小さな巨人のコーダ

〈4〉

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 国際ホールに辿りついた時には、すでに二十一時になろうかという頃だった。
 母さんは送ってくれると言っていたのだけど、せめて僕自身の足で歩いて行くのがケジメだと思ったから。

 けれど見通しは甘かった。思えば入院してから、屋上以外に外を歩いたことがなかった僕は、いつもと違う景色に袋叩きにされた。
 見えていたはずの町が歪んでいる。見えていたはずの景色がぼやけている。
 ごっそりと体力が削られ、吐き気がして。休み休み行くしかなかった。

 そしてもう一つ、僕は道中において最大の問題に直面する。横断歩道は見えていても、信号の赤が見えないんだ。青が光っていない時は渡らなければいい、なんて簡単なものじゃなくて、案外、赤が光っていないというだけで、足は勝手に動き出してしまうんだ。
 あかりがついていてくれなかったら、僕は五回は死んでいたと思う。

 Aホールを探し、受付のお姉さんにチケットを見せると、怪訝な顔をされた。

「お客様、大変申し上げにくいのですが、すでにアンコール曲が行われているのです」

 指し示されたロビーのモニターには、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」の演奏が映されていた。冬の定番曲だ。ヴァイオリンの旋律をヴィオラによって奏でているセンターの人物が、シフォンなのだろう。
 メインの演奏が聴けなかったことは寂しいけれど、まだ僕がここに来た理由は残っている。

「大丈夫です。構いません」
「いえ、そう申されても……」

 困り顔の受付のお姉さんに引き留められる。
 チケットがあるとはいえ、今から入っても仕方がないからだろう。基本的にコンサートでは、曲の間に勝手に出入りすることは厳禁だ。楽章の間や曲の間など、多くの場合、演奏責任者が決定したタイミングでしか行えない。
 つまり、次に客席への扉が開くのは、閉幕後。

『どうかしたの?』
『さすがにコンサートが終わる時間だから、止められてるんだ』
『だから意地張らないで月香さんに頼めば良かったのに』
『ごめんってば』

 目の前で突然行われた手話のやりとりに、受付のお姉さんの顔が一層しかめられた。当然だ。クラシックコンサートには、聾者なんて来ないんだから。
 けれど、同時に僕たちを見ていた、もう一つのゲートにいたお兄さんがあっと声を上げる。

「もしかして、ヴァイオリンの人が言っていた方じゃないか?」
「ああ、プティタンさんって人のお客さんが来るってやつでしょ?」
「でも、プティタンさんなんて奏者、今日出演してたか?」
「知らないわよ。受付のバイトをしているだけで、クラシックなんて知らないもの」

 聞こえてるよ、と言おうと思ったのだけれど、興味深い単語が出てきたために口を閉じた。
 やがて、スマホで何かを調べていたらしいお兄さんから耳打ちされ、お姉さんははたと振り返った。

「失礼ですが、プティタンさんとはお知り合いでしょうか」

 さすがに、笑いを堪えるのが大変だった。

「はい。プティ・ティタンこと、ヴィオリスト・桐谷織姫シフォンさんから招かれました」
「そっ、そうだったんですか。申し訳ありませんでした。どうぞ、中でお待ちください。入場のタイミングは係員が誘導いたしますので」

 混乱が見て取れるお姉さんから頭を下げられ、僕たちは中へと入った。
 コンサートホールに来るのも、現役を退いて以来だ。演奏が終わり、お客さんたちが出てくるのをしばらく見送ってから、僕はあかりの手を引いて、まばらになってきた流れに逆らう。

 ようやく指定の座席を見つけた時には、他のお客さんは片手で数えられるほどしかいなかった。それにしても、最前列に席が用意されているとは。

 シフォンは座っていろと言っていた。
 完全に人気が無くなり、暫くあかりと二人きりでいたところに、袖から声が歩いてきた。

「ぶち遅いぞ、馬鹿たれ」

 病院で見た時とは違って、薄氷のように鮮やかな青いロングドレスを身に纏ったシフォンが、ステージ袖から歩いてきた。手にはヴィオラを提げている。

「客席がぽっかり空いちょったけぇ、来てくれんのかと思ったじゃろうが」

 口調の訛りは相変わらずだけど。幼女から少女になっていたヴィオリストは、ステージのライトの下で、淑女へと変貌を遂げていた。

「ごめん、遅くなって」

 むすっとしたシフォンに頭を下げて、あかりに目配せをする。

『あの子が、シフォンだよ』
『凄く綺麗な子だね』

「その子があかりけぇ?」

 頷いて返すと、シフォンは弦を持つ方の手をぶんぶんと振った。それが挨拶だと気付いたあかりも手を振り返す。

「ねぇ、シフォン。時間は大丈夫なの?」
「うちが主演じゃからな。ちっと無理言わせてもらった」

 本当に無理を言ったのだろう。シフォンは苦い顔で、ちろっと舌を出した。

「よし、フユ。ステージに上がって来てやぁ」
「えっ?」
「弾けるんじゃろ? 頼む。デュエットに付き合って欲しいんじゃ」

 そう言って、シフォンは深く頭を下げた。今まで、客席以外に対してここまで頭を下げた彼女を見たことがなくて、返答に戸惑ってしまった。

『何かあったの?』

 シフォンの真剣な雰囲気が気になったのか、あかりが心配そうに訊いてくる。

『僕に、ステージに上がってくれって』
『なら、行ってきなよ。私は待ってるから』

 大丈夫、と笑って送り出されては仕方なかった。
 僕が困惑したままステージに上がると、シフォンからそのままピアノへと導かれる。

「僕が弾くの?」
「言ったじゃろ、うちのヴィオラのパートナーはあんたしかおらん。ほいじゃけー、今日まで、リードは引き受けても、フユ以外のピアノとデュエットするんは断っちょった」

 僕がピアノの前に座ると、シフォンは少し離れたところでヴィオラを構えた。
 どうやら、今から演奏をするのは決定事項らしい。

「……曲は、何にするの?」
「初めて演奏した曲、憶えてるじゃろ」
「シューマン、『おとぎの絵本』だね」

 うむ、とシフォンは頷く。忘れるわけがない。
 僕はステージ上からあかりに手話を送る。

『今から演奏する曲は「おとぎの絵本」だって』
『ほんと? やった』

 小さくガッツポーズをとったあかりに、反応したのはシフォンだった。

「なんじゃ、あの子は耳が聴こえんと月香から聞いちょったんじゃが?」
「うん。でも、シフォンのことを話したら、ぜひ聴きたいって」
「ほう。それは、最高のお客さんじゃのう」

 満足そうに頷くと、再びヴィオラに意識を戻した。
 最高のお客さん、か。シフォン相手に、障害がどうとか、聴こえないからどうとか、考えるだけ無駄だったかもしれない。
 シフォンの自然体には、一人で行こうだなんて意固地になっていた自分が恥ずかしい。

「行くぞ、フユ。さんのーがーはい」

 懐かしい合図で、二年ぶりのデュエットが幕を開けた。
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