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第六章 願いのオラトリオ

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『指点字?』

 三人から一斉に聞きかえされては、さすがに気圧されてしまう。
 母さんとあかり、そしてあかりと一緒にお見舞いに来てくれた紫さんが、僕の突然の提案にきょとんとしていた。

『うん、そう。前に母さんが教えてくれたでしょ「ありがとー」って』
「あー、そんなこともあったっけ」
『母さん、手話抜けてるよ』
『うわ、あんたも言うようになったわねぇ』

 唇を突きだして、半目で睨まれてしまった。いやさ、そこまで怒ってはいないんだろうけど。
 シフォンのコンサートから一夜が明けて、夕方。一日考えていた僕は、今日もお見舞いに来てくれた母さんの顔を見て、ようやくあることを思い出したんだ。

 あの時、あかりの指先に僕が感じた懐かしい気持ちの正体。それは、あかりと出会って間もない時に、母さんから背中に教えてもらった会話方法だ。

『あれなら、目が見えなくても会話ができるんでしょ?』
『んー、まぁね。元々盲聾者のために作られたものらしいし』

 盲聾者。盲者であり聾者である人のことだ。有名なところだと、ヘレン・ケラーがそう。生後すぐに病気が原因で視力と聴力を失っても、齢八十八まで活躍した偉人。

『でも、指点字ができたのはつい最近らしいわよ? 外に出ても通訳者がいるとは思えないし、内輪専用になっちゃうけれど、大丈夫?』

 母さんの指摘した問題点は、僕も考えていたことだった。一般的に存在を知られている手話ですら、みんなができるというわけではない。
 英語なんかも、意味の分かる分からないに関わらず、みんなが存在を認知している。だから洋画も受け入れられるし、英語がペラペラの日本人は格好よく見えるんだ。でもそれは、今だからこその話。

 初めて異国の人と出会った日本人が、彼らを鬼と呼んだように。周囲の人が認識できない言語は、異人のそれと同じなんだ。
 それでも、

『大丈夫。僕が指点字をやりたい理由は、そこじゃないから』

 僕には耳が残っている。あかりには目が残っている。
 健聴者と話すのであれば、僕が口語で伝えればいい。見たものを受け止めるなら、あかりがいてくれればいい。それで十分に、互いを補うことができる。
 そして、僕たちの間にある糸を繋ぐための手段が、指点字なんだ。

『僕は、もっとあかりと話したい』

 すぐ傍に座っている大切な人に、僕の願いを伝える。

『私も、冬彦と話したい』

 はっきり見えるほどに咲いた笑顔。
 結局僕は、あかりのおかげで指点字に気付けたんだと、言い出すことができなかった。

 だって、恥ずかしいじゃないか。






 僕は一度、病室を出た。
 人の体とは不思議なもので。どんな状態にあっても、感情に合わせて生理現象が促進されてしまうようだ。緊張したり、恥ずかしかったりすると、尿意を催す。本当に不思議だ。
 つまるところ、僕はトイレに立ったんだ。僕の目を心配したあかりが付いてこようとしていたけれど、丁重にお断りさせてもらった。

 小便器で済んだことだけれど、完全に見えなくなったときのために、敢えて個室を選んだ。
 目を閉じ、トイレットペーパーを探り当てて、おしりの表面を撫でてみる。意外と問題はなさそうだ。まぁ、元から、いちいち自分のお尻を見ながら拭いていた訳ではないし。

 目下の課題点として、トイレットペーパーの巻き方と水の流し方を確認する。こればかりは、場所によって構造が違ったりするから、その都度確認が必要そうだ。
 水を流すボタンを押そうとして、ふと、指にざらついた感触があった。点字だ。

「……読めない」

 分かっていたはずだけど、残念だった。
 こうして視力を失うようになって、色んなところに点字が使われていることを知った。この病院内だけでも、自動販売機やエレベーターのボタン、案内板の表示と、至る所に点字が用意されている。
 意外なところでは、手すりなんかにも使われていたっけ。ただ「手すり」と書いてあるんじゃなくて、今いるのは廊下なのか階段なのか、それはどこに向かっているのかが書いてあるようだ。点字自体は読めなかったけれど、併記されている文字ごとに点字も違っていたから判った。

 きっと僕は、指点字と並行して、点字も覚えて行かなくちゃいけないんだろう。気が遠くなりそうだけど、大丈夫、もう逃げない。

 用を済ませて病室に戻ると、紫さんだけが座っていた。

「あれ、あかりたちは……?」
「指点字の本を探してくると、お出かけに」
「ああ、そうだったんですか」

 大人しくベッドに戻ることにした。

「あの、冬彦さん」
「はい?」

 紫さんが改まって、僕に向き直る。そういえば、こうして紫さんと二人きりで話すのは、電話を除けば初めてだっけ。

「あかりから聞きました。冬彦さんが怪我をされたのは、あかりを庇ってくれたからだって」
「あー……あれは、僕のエゴなんですよ」
「いえ、本当に申し訳ありません。そのせいで――」
「紫さん」

 頭を下げかけるのを、声で制する。自分でも驚くほど、落ち着いていた。

「僕は本当に何もしてないんです。だから、謝らないでください」

 あの時、僕はただしゃしゃり出ただけだったし、あかりの手紙にも、お節介と書かれていたんだ。そして、もう罰は下されている。紫さんから謝られることなんて、何もないんだ。

「ですが、それでは……」
「なら、こうしませんか?」

 なお食い下がった紫さんに、努めて笑顔を向ける。

「ありがとう、それだけで構いません。といっても、母さんの受け売りですが」

 ものすごく恥ずかしかった。というか、かなり上から目線で言っちゃってる気がする。自分でやったことに、自分からお礼をくれと提案するなんて。僕は馬鹿か。
 いや、もう馬鹿でいいや。

「ありがとうございます。冬彦さん」
「こちらこそ、ありがとうございます、紫さん」

 二人で深々とお辞儀を交わすと、顔を上げた時に、紫さんは目尻を拭うのが見えた。

「僕の方こそ、本当に」

 見てしまったことを誤魔化すように、もう一度言った。
 あかりと出会わせてくれたこの人に。あかりと友達でいたいという僕のわがままを許してくれたこの人に。

「これも、人の受け売りなんですが。僕は糸を切ってしまうところだったんです」
「糸、ですか?」
「はい。細い細い、でも綺麗で、強い糸です」

 ふと、手をポケットの中に入れて、首を捻る。
 僕は今、何を探そうとしたんだろう。何か、大切なものだということは分かるんだけど。
 記憶を遡っていく。糸。糸……。

「あっ、まずい」

 僕は何てことをしてしまったんだろうか。
 気づいた時には、ベッドから飛び起きていた。

「どうされたんですか?」
「探し物をしてきます」
「私も、お手伝いします」
「いえ、紫さんはここでゆっくりされてください」

 これは、僕が自分自身で探さなくちゃいけないものだ。
 母さんたちが帰ってくる前に。僕は屋上へと向かった。
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