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第七章 聖夜のアンティフォナ

〈3〉

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 あかりが紙袋からもう一つ取り出したのは、本だった。
 カバーには真白の紙が貼られていて、表紙を捲れば、きらきらした色の溢れた厚紙のページが現れる。
 絵本だった。ピアノを前に一礼をする燕尾服の男の子が描かれている。

『作ったの?』
『うん。できれば印刷所に頼んで、しっかりしたものにしたかったんだけど、手作りになったんだ』

 こんな風にと、マンガのネームのような紙を開いて見せてくれた。これは台割表というらしい。余白部分に「ページは4の倍数」とか「見返しで挨拶!」だとか、様々なメモ書きがされている。それだけで、彼女の熱量が十分に伝わってきた。
 後で聞いたところだと、自費出版用の間口は広いらしかった。けれど私家版でも数十部からの注文になる上、生産コストの兼ね合いで百部以上から発注した方が安くなるという難しい天秤があるんだとか。

『持ってて』

 あかりは僕の膝の上に絵本を拡げ、その両端を押さえるように僕の手を運ぶと、その手の上に、自分の手を重ねた。

『これから、よむから、きいてください』

 おずおずと、緊張気味に指が踊る。
 僕は「お願いします」とゆっくりめに口を動かして、頷いた。

 そしてページが捲られる。そこには、落とし物をしたのか、転がる何かを追いかけている燕尾服の男の子と、それを見ていた女の子の姿が描かれていた。

 それはあの日の僕の姿だと、すぐに気付いた。

 『冬の彦星様』と題されたそのお話は、ピアニストの男の子との出会いと、それからの日々を、女の子の視点から寓話風に綴ったものだった。
 音のない世界で、一緒に星を見に行ったこと。音のない世界に、男の子が音色を灯したこと。
 女の子はちょっぴり背伸びをして、笑顔について話したこと。それを守ろうとした男の子が怪我をして、光のない世界に攫われそうになったこと。
 けれど、音のない国の織姫と光のない国の彦星には、指に繋いだ赤い糸があった。仲間がいた。だから世界を隔てても、どこにいても、再び出会い、共に歩くことができた。
 こわーいオバケが立ちはだかる時は、それを見ないように彦星様が。いやーな声が浴びせられた時は、それを知らんふりできる織姫様が。入れ代わり立ち代わり前に出て、くるくる踊るように生きていく。そして二人は幸せに――

『おしまい』

 最後のページが、閉じられた。
 途中でプリンという名前の女の子が助けに来たり、月の魔女が導いてくれたりというのには、思わずくすりと笑ってしまった。
 ものすごく既視感のあるような、それでいて未知の未来のお話。

『すてきなおはなしだった』

 微笑みかけようとして、僕は息を呑んだ。照れ隠しのフリをして空を見上げる。けれど。
 スポットライトが灯ってたはずの黒は、完全に鳴りを潜めていた。
 もう一度、あかりの方へと顔を向ける。そこで僕は、もう目が見えなくなっていることを確信した。

『とても優しくて、温かくて――』

 もどかしくなって、手話で答える。
 不思議な感覚だった。神経がやられているからだろうけど、霧の中には色どころか、光すらも入ってこない。ただただ淡く優しい、それでいて一寸先も見えない残酷な乳白色の霧の海にいるようだ。
 なんだ、一線を越えてみれば、こんなにあっけないことだったんじゃないか。

『僕は、あかりの夢の手伝いをしたい』

 そのまま手話で捲し立てる。まだ、あかりに知られるわけにはいかない。まだだ。
 ベンチに隣り合って座っているのが幸いだった。多分、僕が向いている方向は合ってる。

『あかりが、耳の聴こえない人に物語を伝えようとしたみたいに。僕も、目の見えない人でも読めるような物語を作りたい』

 あかりと見た星空は忘れない。音楽の解釈練習のように、僕の中では、ちゃんと物語を想像することができる。本の装丁だって、盲者だけに向けられたただの点字本じゃなくて。みんなが、誰でも楽しめる本にだってできるはずだ。

 隣で、はっと息を呑む音が聞こえた。あかりが手話を返してくれているのか、コートの擦れ合う音もする。
 ああ、駄目だ。ばれないように、音を探そうとすればするほど、僕の体が不自然に逸れてしまうのが分かる。
 ちゃんとあかりを見ていないと。僕にはまだ、伝えたいことがあるのに。
 光が欲しかった。かつて船頭たちが、北斗七星を頼りに闇を超えたように。霧の海にいる僕を導く、星の明かりが。

「あかり……」

 手を伸ばそうか。いや、まだ駄目だ。見えないのなら、心の中でイメージしろ。ここまで紡がれてきた、そしてここからも続いて行く物語を。

 深呼吸する。

 ふと、かじかんだ手が、握りしめられるのを感じた。

『だいじょうぶだよ、ふゆひこ』

 指が寄り添ってくれる。しかしそれは、僕の申し出への意外な回答だった。

『ふゆひこは、もう、そのゆびで、えがおをつむげているんだよ』

 断られたというのに、気が付けば、僕は嬉しくて嗚咽を漏らしていた。
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