おむすびは解ける

凪司工房

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 いつも一時間から一時間半程度は朝の散歩をしている。すっかり日が上り、町を照らしていたが、それでもまだ六時半を少し過ぎたくらいだ。歳を取った所為じゃない。東京で暮らしていた頃は朝も夜もない、無茶苦茶な生活リズムだったのが、こっちに来て中途半端に正しくなったからだ。それをもっと早くに出来ていたら、今頃はこんな田舎で一人、ペンションなんてやらずに済んだのだろうか。
 久慈の一日は毎朝そんな後悔から始まる。
 
 町の中心部へと続くアスファルトは白線が薄くなり、止まれの表示は完全に消えていた。その交差点を右手に曲がり、郵便局を左に見て歩いていく。
 駅前から徒歩五分――なんて物件はここにはない。何故なら駅そのものがないからだ。精々役場の前にバス停があるくらいで、地下鉄は愚か、私鉄ですら通っていない。もう半世紀も前に存続を諦めたそうだ。当時学生や社会人、家族に牛と、町の動脈のように活躍していた列車が一キロほど離れた丘に展示されているそうだが、未だにちゃんと見に行ったことがなかった。
 
 ――あそこは、いい町だよ。何もないけど。
 
 そう教えてくれた同僚の畠中はたなかは捜査中に撃たれた傷が元で亡くなった。久慈より五年も前に早期退職し、この町でペンションを経営していたが、刑事時代にはそんなのんびりしたことが好きな男には全然思えず、むしろ武闘派と周囲の誰もが思っていたくらいで、だからこそ久慈には印象が強かったのだろう。
 
 そのペンション『ひいらぎ』は中心街から十五分ほど歩いたところにある。少し坂道になっていて、特に建物までの残り十メートルほどの傾斜が厳しい。そこをやや息を切らせて上り切ると小鳥が足を休ませるとまり木のような丸太小屋が姿を見せる。本人はそのつもりで最初は『やどりぎ』と名付けるつもりだったようだ。だが宿り木というのは他の木に寄生して生きる、何とも他人頼りの情けない奴で、そうだと聞いた畠中は急遽同じ四文字の『ひいらぎ』にしたらしい。誰かそれも間違いだと教えてやらなかったのだろうかと思うが、猪突猛進なところのあるあの大男に進言できる奴など、そうはいないだろう。
 ひいらぎの葉というのはギザギザとして痛い。疲れてここまでやってきた客を迎えるのがあの強面の大男というのはある意味で柊の葉のようなものだったかも知れない。
 
 そんな畠中は十二月の半ば、ふたご座流星群が夜空を彩っていた頃、そのペンションの裏手のウッドデッキで、眠るようにして亡くなっていたそうだ。心筋梗塞らしいが、その表情からはほとんど苦しまずにあの世に旅立ったのだと、彼を診た伊勢谷いせやが言っていた。
 
 物思いに浸るのは最近の悪い癖だ、と自覚しながら久慈が坂道を上り切ると、そこに人が倒れていた。最初は何か大きな荷物が転がっているのかと思ったが、すぐに元刑事の勘がそれを否定した。
 道の左側、側溝の溝蓋みぞぶたの上にうつ伏せになっていたのは女性だ。まだ三十台くらいだろう。ただ化粧はしていないように見える。その女性の口元に手を当てる。息はしていた。「失礼」そう断ってから首にその手を当てる。脈が弱っているようなこともない。外傷はなく、血も出ていない。ただ顔は青白いと感じた。
 どうしても元刑事の習性として人が倒れていると事件を疑いたくなる。頭に浮かぶのもどうやって犯行に及んだか、だ。被害者のことよりも加害者の方に先に思考が走ってしまう。
 
 久慈は頭を振り、それからスマートフォンを取り出す。救急車を呼ぶべき――だろうが、ここでは隣町から峠を超えてやってくる。飛ばしても二十分以上掛かるだろう。119と押した番号をクリアし、アドレス帳から伊勢谷の項目を探す。口は悪いし、女癖は悪いが、腕は確かな老医師だ。繋がった電話に出たのは看護師の宮野だった。四十か五十か。年齢は聞いていないので分からないが、ベテランの看護師だ。

「すまないが、家の前で人が倒れていたんだ。ああ、分かってる。救急車もそうだが、まずは先生に診てもらえないかと」

 受話器を通して向こうで彼女がわめき立てているのが分かる。大声で先生を呼びつけているのだ。受付から診察室ならそこまで大声でなくてもいいが、伊勢谷はあまり家の中にいない。しかもこんな時間だ。まだ併設された家の寝室で寝ているのだろう。寧ろ宮野こそ、随分ずいぶん早くクリニックに出てきているのだなと驚く。

「たぶんまだ使い物になりませんよ。こちらから救急車には連絡しておきますが、本当に大丈夫なんですか?」
「知るか。俺は医者じゃない。だから急いで診てもらいたいんだ」
「分かりました。なるべく早く叩き起こして連れていきます。けど脳か心臓の方の異常なら間に合いませんよ」

 言われなくてもそれくらいの知識はあった。ただ久慈の感覚では疲労や睡眠不足、そういった病気以外の要因で倒れていると思えた。それでも宮野から指示を仰ぎ、一旦電話を切る。
 今は夏。真冬の寒空の下ではないとはいえ、それでもこのまま寝かせておく訳にもいかない。久慈はペンションの玄関を開けると、中から毛布を掴んで戻ってきて、それで彼女を包み、持ち上げた。
 
 ――お?
 
 思ったよりも軽く持ち上がったことにも驚いたが、それ以上に人間を抱き上げた心地ではなかった。紙かわらで作られた人形があったらこんな重量だろうか。
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