おむすびは解ける

凪司工房

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 ペンション『ひいらぎ』には客室が一つしかない。丸太を組み合わせて作ったロッジ風の外観のまま、中も丸太が剥き出しになっている。床は板張りだがライトグリーンのカーペット素材を敷き詰めてチェック柄になっていた。そこに大きな食事兼用のテーブルが置いてある。カウンターを挟んでオープンキッチンがあり、右手側のドアが客室、左の奥にオーナー用の居室兼寝室があった。
 ひとまず空いている客室の方のベッドに彼女を寝かせると、もう一度その手首を握り、脈を取った。細い腕だ。あまりに痩せている。何かの病気だろうか。久慈は脈に異状がないことが分かると、毛布をしっかりと被せ、部屋を出た。
 額に前髪が多く掛かった肩までの長さの髪というのが、娘のことを思い出させる。娘が生きていたら彼女と大差ない年頃になっているだろう。
 
 ――生きていたら。
 
 そんなイフをよく考えるようになったのは何もしなくていい時間が増えたからだ。もしもああしていたら、こうなっていたら、そんなイフは、届かないけれどもきらびやかな光を放つ、夜空の星々のようだ。特にこっちに来てから空にあんなにも多くの星が隠れていたのだと知り、以前とは物事の捉え方も変化した。それが良かったか悪かったかは、未だによく分かっていないが。
 
 部屋の南側の壁に張り付いている文字盤のない木彫りの壁掛け時計は、七時を過ぎた辺りだ。早ければ五分ほどで医院からここに車でやってくるだろうが、あの伊勢谷がそんなてきぱきと動いてくれるはずもない。かといって久慈に何が出来るかと問われれば、外傷すらない人間に対しては見守ることくらいだろう。
 いや。目覚めた時のために、もう一つ、出来ることがあった。
 
 久慈は上着を脱いで椅子の背に掛けると、半袖のシャツの上からチョコレート色のエプロンを着け、シンクの前に立つ。蛇口は上下に動かすレバータイプだ。勢い良く出た水に手を浸し、それから備え付けのポンプ型のハンドソープで爪の間まで丁寧に洗う。刑事時代は用を足した後もほとんど蛇口を捻ることすらしなかったのに、随分と変わるものだ。
 
 新しいタオルで手を拭い、それから後ろのカウンターの上に置いたままの、縁がよれた付箋だらけのノートを捲る。そこには細かくて几帳面な文字できっちりと材料と時間、分量が書き込まれ、メニューによっては簡易のイラストも付け加えられていた。レシピ本だ。ただこれは久慈自身が書いたものではない。元妻のものだ。久慈の字はいつも同僚から糸くずが絡まったみたいな文字だと馬鹿にされていたくらいで、今でも宿帳に書く彼の字は後になってから読み返しても分からないことが多い。
 
 その妻のレシピ本から、味噌汁のページを探す。味噌汁といってもその材料や味加減でいくつもあり、ページはそこかしこに飛んでいる。料理に慣れた、あるいは料理好きな人間なら何度か作ればもう見る必要もないだろうが、久慈は毎回このレシピ本からメニューを拾い、その通りに作ることを心がけていた。久慈自身、料理の才能は皆無だ。センスどころか、最近になってようやく包丁の使い方が分かってきたと感じている程度で、最初の頃は全てを強火で作ろうとしてよくフライパンや鍋を駄目にしてしまっていた。
 味噌汁の他の副菜と魚を決め、二つある四リットルの冷蔵庫に向かった。業務用の物を買えばよかったのに、畠中は最初一つで足りると思っていたそうだ。ペンションを始めようと考えるくらいだからそれなりに料理についても知識や経験があるものと思っていたが、どうやら久慈よりはマシという程度だったらしい。一度泊まりに行った同僚が「あれ食うくらいなら出前でいいっす」と笑っていたぐらいで、ペンション『ひいらぎ』はあまり繁盛はんじょうしていなかった。それでも畠中は「俺はこういう生活に憧れていたんだ」と言って譲らなかったらしい。亡くなった時にはいくらかの借金もあり、彼の遺体を引き取りに来た兄弟が「馬鹿な兄ですみません」と何度も謝っていた。
 
 そのペンション『ひいらぎ』を久慈が引き継ぐことになったのは、ただ畠中が亡くなったからではない。彼が亡くなった後もしばらくはこのペンションはそのまま彼の弟にその処遇を預けられている状態で、放置されていた。その弟さんが、久慈が刑事を辞めたことを聞きつけて、もしよければ後を引き継がないかと提案されたのだ。
 それほど畠中と仲が良かった訳ではない久慈に何故お鉢が回ってきたのか。彼がいなくなってしまった今では知ることは出来ないけれど、久慈自身はそのめぐり合わせに感謝していた。もし刑事という属性が自分から消えてしまったまま、その後に何も与えられなければ、それこそホームレスにでもなって東京の街中を歩き回っていたかも知れない。
 
 初めてこのペンションを訪れたのは三年前の二月だ。何もそんな寒い時期に、山には雪が被っているような時に来なくても良かったのだけれど、思いついたらすぐに足を動かしたいという刑事の性分が久慈を急がせた。
 元々新築ではなく、空き家になっていた民家を改装してロッジ風に畠中が仕上げたもので、素人がやったにしては上手くリフォームされていたが、よく見ると隙間があったり、貼り付けたものが剥がれていたり、水道管が漏れていたり、結局退職金はリフォームの修繕でほぼ無くなってしまった。おまけに客室は一つで、一月のうちに片手で間に合うほどしか泊まり客は来ない。流石にこのままではいけないと、ペンション以外にも食堂としての営業を始めることに決めたのが一年前だ。けれど料理経験のない久慈には苦難という言葉では済まされない、正に無謀のチャレンジとなった。
 
 それでも元妻が残してくれたレシピ本が彼を助けてくれた。手際の悪い、見てくれの良くないものでも、味さえ良ければ客はそこまで文句を言わない。中にはあれこれといちゃもんを付け始める人間もいたが、そういった状況への対処はエキスパートだ。寧ろ強面の男性が不器用ながらも美味しい料理を振る舞うと、小さな話題になった。
 最近ではスマートフォン片手に、そういった口コミ情報を見てここを訪れる客もいる。何でも足で、対面で、情報を集めていた久慈の感覚からすれば随分と進歩したものだと感じるが、それでも最終的には人を前にしてどう振る舞うのか、相手の表情を見て、声を聞いて、ちょっとした仕草や態度を伺いながらやり取りをすることが大事だと、久慈は思っている。
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