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39.虚無感
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そして、ついに翌日――……
「準備できた?ピルケースはカバンの中に入れておいたから。歯ブラシは……」
「もう母さん、大丈夫だよ。足りなかったら用意してもらうから」
シェルターに向かう昨夜から、パステルとトムはいつも以上に世話を焼きたがった。動けないパスカルの身の回りの世話をしたり、小さい頃の思い出話に花を咲かせたり、三人でいつも以上に豪華な食事を食べたり、最後の夜を家族団欒で穏やかに過ごした。
シェルターに入ってしまえば逢えるのは二週間に一度となる。逢えるといっても安全上のためにレアオメガのフェロモンを通さない分厚い壁を挟んでの再会となる。もう二度と家族に触れる事はできなくなるのだ。
「ごほっごほっ」
止まらない咳は確実に喉と肺を痛めていく。血交じりの痰が絡むようになってからは食事も血の味しかしなくなったが、最後に家族と過ごせた昨晩は一生忘れないだろう。
「咳止め飲んだかい?」
「飲んだよ。飲んだけどあんまり効かないみたい」
あとどのくらい生きられるかわからない。三か月以上かそれとも一か月未満か……。
家族に看取られないのは寂しいけれど、レアオメガというものはほぼひとりぼっち。番がいないレアオメガは惨めに寂しく死んでいくのだ。死んだ後に、やっと家族が遺体と対面できる。それがレアオメガシェルターでの決まりなのだから。
「二週間に一度は必ず面会に行くからな」
「差し入れもたくさん持っていくから」
「うん……ありがとう。父さん、母さん」
店の前にシェルター行きの医療馬車がやってくる。そこには付き添いのエミリーや看護師達数名が乗っていた。
「メル君には別れは言ったのか……?」
「………も、もう、別れは済んだから……」
「本当に?」
「うん、本当」
「そう……」
どこか違和感を感じる息子の姿を、両親は訝しく思うのだった。
*
「殿下、少し休まれては」
「大事ない。やる事がいっぱいあるのだから手を止めていられない」
アカシャに戻ったメルキオールは、以前に増して仕事に没頭していた。傷ついた心を秘め、ひたすら何かを忘れようと公務に励む姿は、部下からすれば頼もしいというより過労で倒れないだろうかと心配だった。もう数日もまともに寝ていないような顔は、綺麗な顔に不要な目の下のクマが印象的にうつる。
「しかし……さすがにお体が心配です。倒れられては今後の公務に支障をきたします」
「っ……わかった。これが終わればすぐに休む」
寡黙でクールな皇太子はさらに笑わなくなったとメイド達の間で話題にもなっている。私生活で何があったのだろうかと皇宮内ではその話題が尽きない。
その通り、苦い失恋のようなものを経験した。
誰かに言うつもりもないし、打ち明けるなんて事もしない。墓まで持っていくだろうこの秘められた気持ちは忘れる事なんてできないもの。ぽかりと開いた心の空虚感と喪失感はとてつもなく大きかった。
もらったマフラーとセーターは着れなくなり、自室のクローゼットに仕舞われた。きっともう二度と袖を通すこともなく、使う事もない。だからと言って、捨てる事も出来ない代物。一生捨てきれない贈り物と共に、自らのこの感情も捨てる事はできないだろう。
胸のあたりの不可解な痛みを感じるようになって、未練がましくあの少年の存在を引きずる毎日。
「っ……」
ずきりと胸が痛んだ。今回の痛みはあまりに強くて胸を押さえて膝をつく。
「殿下!?大丈夫でございますか」
「だいじょう、ぶ……だ。やっぱり……今すぐ休むことにする……」
疲れているだけ。そう思っていた。だけど、脳裏に浮かぶ少年の笑顔を思い出すたびにこれだ。
パスカル……。
あの少年と土手で出会った頃の思い出がよみがえる。ホームレスとして過ごしていたヴァユ国での短い期間が。
ホームレス生活はバカな陛下に反抗してなっただけに過ぎないが、してみると意外に楽しくて、たくさんの風変わりなおじさん達と知り合いになった。そして――年端もいかない少年パスカルと出会った。自分をホームレスという目で見ず、普通に接してくれた少年に興味を覚えた。
元々、ホームレス生活に慣れたらすぐに国へ帰ろうと思っていたが、パスカルと出会ってから国に帰ろうにも帰れなくなった。頻繁に逢いたいと思うようになってしまったからだ。オメガでありながらも前を向こうと必死で、頑張り屋で、時々漂ってくる不思議な香り……。
少年に興味を覚えてから興味が親近感に変わり、やがては特別な感情を抱くまではそう時間はかからなかった。きっかけは、パスカルが初めてのヒートを迎えた時ぐらいだろうか。いやむしろ、初めて会った時からなんとなく惹かれていたのかもしれない。
しかし、いずれは離れる事になるのはわかっていた。住んでいる国も、身分も、異性でもないパスカル。立場を考えれば、平民の少年にこんな想いを抱くのはよくないと思いながらも、放したくない。離れたくない。と、この国からなかなか離れる事が出来ずに理由をつけては留まっていた。
初恋だった。恋だの愛だのと無縁な生活を送ってきたはずなのに。皇太子でありながらも、自分の個人的感情が先走ってしまい、パスカルを密かに想ってしまっていた。できる事ならずっとそばにいたかった。自分のものにしたかった。
それができない身分である事はわかっていたのに、ズルズルと先延ばしにしてパスカルのそばを離れられなかった。
「準備できた?ピルケースはカバンの中に入れておいたから。歯ブラシは……」
「もう母さん、大丈夫だよ。足りなかったら用意してもらうから」
シェルターに向かう昨夜から、パステルとトムはいつも以上に世話を焼きたがった。動けないパスカルの身の回りの世話をしたり、小さい頃の思い出話に花を咲かせたり、三人でいつも以上に豪華な食事を食べたり、最後の夜を家族団欒で穏やかに過ごした。
シェルターに入ってしまえば逢えるのは二週間に一度となる。逢えるといっても安全上のためにレアオメガのフェロモンを通さない分厚い壁を挟んでの再会となる。もう二度と家族に触れる事はできなくなるのだ。
「ごほっごほっ」
止まらない咳は確実に喉と肺を痛めていく。血交じりの痰が絡むようになってからは食事も血の味しかしなくなったが、最後に家族と過ごせた昨晩は一生忘れないだろう。
「咳止め飲んだかい?」
「飲んだよ。飲んだけどあんまり効かないみたい」
あとどのくらい生きられるかわからない。三か月以上かそれとも一か月未満か……。
家族に看取られないのは寂しいけれど、レアオメガというものはほぼひとりぼっち。番がいないレアオメガは惨めに寂しく死んでいくのだ。死んだ後に、やっと家族が遺体と対面できる。それがレアオメガシェルターでの決まりなのだから。
「二週間に一度は必ず面会に行くからな」
「差し入れもたくさん持っていくから」
「うん……ありがとう。父さん、母さん」
店の前にシェルター行きの医療馬車がやってくる。そこには付き添いのエミリーや看護師達数名が乗っていた。
「メル君には別れは言ったのか……?」
「………も、もう、別れは済んだから……」
「本当に?」
「うん、本当」
「そう……」
どこか違和感を感じる息子の姿を、両親は訝しく思うのだった。
*
「殿下、少し休まれては」
「大事ない。やる事がいっぱいあるのだから手を止めていられない」
アカシャに戻ったメルキオールは、以前に増して仕事に没頭していた。傷ついた心を秘め、ひたすら何かを忘れようと公務に励む姿は、部下からすれば頼もしいというより過労で倒れないだろうかと心配だった。もう数日もまともに寝ていないような顔は、綺麗な顔に不要な目の下のクマが印象的にうつる。
「しかし……さすがにお体が心配です。倒れられては今後の公務に支障をきたします」
「っ……わかった。これが終わればすぐに休む」
寡黙でクールな皇太子はさらに笑わなくなったとメイド達の間で話題にもなっている。私生活で何があったのだろうかと皇宮内ではその話題が尽きない。
その通り、苦い失恋のようなものを経験した。
誰かに言うつもりもないし、打ち明けるなんて事もしない。墓まで持っていくだろうこの秘められた気持ちは忘れる事なんてできないもの。ぽかりと開いた心の空虚感と喪失感はとてつもなく大きかった。
もらったマフラーとセーターは着れなくなり、自室のクローゼットに仕舞われた。きっともう二度と袖を通すこともなく、使う事もない。だからと言って、捨てる事も出来ない代物。一生捨てきれない贈り物と共に、自らのこの感情も捨てる事はできないだろう。
胸のあたりの不可解な痛みを感じるようになって、未練がましくあの少年の存在を引きずる毎日。
「っ……」
ずきりと胸が痛んだ。今回の痛みはあまりに強くて胸を押さえて膝をつく。
「殿下!?大丈夫でございますか」
「だいじょう、ぶ……だ。やっぱり……今すぐ休むことにする……」
疲れているだけ。そう思っていた。だけど、脳裏に浮かぶ少年の笑顔を思い出すたびにこれだ。
パスカル……。
あの少年と土手で出会った頃の思い出がよみがえる。ホームレスとして過ごしていたヴァユ国での短い期間が。
ホームレス生活はバカな陛下に反抗してなっただけに過ぎないが、してみると意外に楽しくて、たくさんの風変わりなおじさん達と知り合いになった。そして――年端もいかない少年パスカルと出会った。自分をホームレスという目で見ず、普通に接してくれた少年に興味を覚えた。
元々、ホームレス生活に慣れたらすぐに国へ帰ろうと思っていたが、パスカルと出会ってから国に帰ろうにも帰れなくなった。頻繁に逢いたいと思うようになってしまったからだ。オメガでありながらも前を向こうと必死で、頑張り屋で、時々漂ってくる不思議な香り……。
少年に興味を覚えてから興味が親近感に変わり、やがては特別な感情を抱くまではそう時間はかからなかった。きっかけは、パスカルが初めてのヒートを迎えた時ぐらいだろうか。いやむしろ、初めて会った時からなんとなく惹かれていたのかもしれない。
しかし、いずれは離れる事になるのはわかっていた。住んでいる国も、身分も、異性でもないパスカル。立場を考えれば、平民の少年にこんな想いを抱くのはよくないと思いながらも、放したくない。離れたくない。と、この国からなかなか離れる事が出来ずに理由をつけては留まっていた。
初恋だった。恋だの愛だのと無縁な生活を送ってきたはずなのに。皇太子でありながらも、自分の個人的感情が先走ってしまい、パスカルを密かに想ってしまっていた。できる事ならずっとそばにいたかった。自分のものにしたかった。
それができない身分である事はわかっていたのに、ズルズルと先延ばしにしてパスカルのそばを離れられなかった。
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