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第8話 静王の怒り
しおりを挟む初夏の風が宮城の回廊を抜けていた。
その日、宮廷では小さな茶宴が開かれていた。
名目はただの親族の集まり。
だが実際には違う。
皇太子が主催する宴。
当然、静王夫妻にも招待状が届いていた。
沈薬は庭園の蓮池を眺めながら静かに息を吐いた。
「……やはり来るべきではなかったかもしれません」
隣に立つ男が穏やかに答える。
「怖いか」
静王・謝淵だった。
黒い衣に身を包み、背筋は真っ直ぐ。
昏睡していた頃の面影など、もうどこにもない。
沈薬は首を振った。
「いいえ。ただ……」
彼女は言葉を選んだ。
「嫌な予感がするだけです」
謝淵は小さく笑った。
「それは奇遇だ」
沈薬が顔を上げる。
謝淵の瞳は穏やかだが、その奥には冷たい光があった。
「私も同じだ」
沈薬は少し驚いた。
静王は普段、感情をほとんど表に出さない。
だが今は違う。
まるで見えない刃を握っているようだった。
「だが安心しろ」
謝淵が静かに言う。
「今日は私がいる」
その言葉は短い。
だが不思議と重みがあった。
沈薬の胸の奥で何かがほどける。
前世では、こんな言葉をくれる人はいなかった。
沈薬は小さく頷いた。
「はい」
その時だった。
背後から声がした。
「皇叔母様」
その呼び方。
沈薬の背中がわずかに固くなる。
振り返らなくても分かった。
皇太子だった。
ゆっくり振り向く。
そこには、豪奢な衣を纏った男が立っていた。
皇太子。
彼の視線は沈薬だけを見ている。
まるで周囲が見えていないように。
「久しぶりですね」
沈薬は礼儀正しく頭を下げた。
「皇太子殿下」
皇太子は笑った。
だがその笑みはどこか歪んでいた。
「堅いな」
彼は数歩近づく。
「昔はそんな顔をしなかった」
沈薬は何も答えない。
沈黙。
皇太子の目が沈薬の顔をなぞる。
懐かしむように。
飢えるように。
「……沈薬」
その呼び方は、あまりにも自然だった。
まるで長年の恋人を呼ぶように。
沈薬の眉がわずかに動く。
だがその瞬間。
静かな声が割り込んだ。
「皇太子殿下」
謝淵だった。
彼は沈薬の前に一歩出た。
ほんの小さな動き。
だがそれだけで空気が変わる。
謝淵は淡々と言った。
「あなたの前にいるのは、静王妃です」
皇太子の目が細くなる。
「分かっている」
「ならば」
謝淵の声は穏やかだった。
「名前で呼ぶのは控えていただきたい」
静寂。
庭園の風だけが動いている。
皇太子は笑った。
「叔父上は随分と厳しい」
謝淵は何も答えない。
ただ真っ直ぐ見返す。
その視線は冷たい。
皇太子は肩をすくめた。
「だが奇妙だ」
彼は沈薬を見る。
「沈薬は昔、私の名を呼んでいた」
沈薬の心がわずかに揺れる。
前世、確かにそうだった。
だが――
それはもう終わったことだ。
沈薬は静かに言った。
「殿下」
皇太子の視線が彼女に戻る。
沈薬は微笑んだ。
とても落ち着いた笑みだった。
「私は静王妃です」
それだけだった。
だがその言葉は鋭い刃のようだった。
皇太子の笑みが消える。
沈薬は続けた。
「殿下にとって私は叔母です」
庭園の空気が凍る。
周囲の侍女たちも息を呑んでいた。
皇太子の目がゆっくり暗くなる。
「……叔母」
低い声。
「そうだな」
彼は笑った。
だがその笑みはどこか危うい。
「ならば叔母として聞こう」
一歩。
皇太子が近づいた。
「沈薬」
また名前を呼ぶ。
謝淵の眉がわずかに動いた。
皇太子は言う。
「お前は本当に幸せか」
沈薬の心臓が一度だけ強く打つ。
だが彼女は動じなかった。
「はい」
迷いのない答えだった。
その瞬間。
皇太子の瞳が揺れた。
まるで何かが壊れるように。
「嘘だ」
皇太子は言った。
「お前は私を愛していた」
沈薬は静かに首を振る。
「それは――」
言いかけた時。
低い声が落ちた。
「殿下」
謝淵だった。
彼の声は今までと同じ。
穏やか。
だが、その瞳には怒りが宿っていた。
「これ以上、私の妻に近づくな」
皇太子がゆっくり振り向く。
「……妻」
その言葉を繰り返す。
「叔父上は随分と大切にしている」
謝淵は答えない。
沈黙。
そして、謝淵は一歩踏み出した。
「沈薬」
彼は静かに言った。
「行こう」
沈薬は頷く。
二人はそのまま庭園を去ろうとした。
その時、皇太子が呟いた。
「逃げるのか」
足が止まる。
謝淵が振り返る。
皇太子の目は暗かった。
「叔父上」
彼は笑う。
「沈薬を守れると思うか」
謝淵の表情は変わらない。
だが、その声は氷のように冷たかった。
「試してみるか」
皇太子の笑みが消える。
「沈薬は私の妻だ」
静王は言った。
「誰にも触れさせない」
その言葉は静かだった。
だが確かな怒りがあった。
沈薬は初めて知る。
静王がここまで感情を見せるのを。
皇太子は沈黙した。
そして小さく笑った。
「……面白い」
彼は呟く。
「叔父上」
皇太子の視線が沈薬に戻る。
「この勝負」
ゆっくり言った。
「まだ終わっていない」
沈薬の胸に冷たい風が吹いた。
謝淵は沈薬の手を取った。
強く。
だが優しく。
「帰るぞ」
沈薬は頷いた。
二人は庭園を後にする。
背後で、皇太子の視線だけが残った。
燃えるような執着。
それは確実に――
宮廷の嵐の始まりだった。
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