『後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました』

由香

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第五話 鬼将軍の呪いと、巫女の代償

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 雨の匂いが、屋敷を包んでいた。

 夜明け前、まだ空が白む前の刻。
 紗月は胸騒ぎを覚えて、目を覚ました。

(……これは)

 空気が、重い。
 澱のようなものが、屋敷の中心に集まっていく感覚。

 しかも――

(将軍様……)

 気配の源は、玄耀の部屋だった。

 紗月は迷わず立ち上がり、鈴と護符を掴む。
 女中を呼ぶ暇もなかった。



 玄耀の部屋の前で、紗月は息を呑んだ。

 扉の隙間から、黒い靄が溢れ出している。
 これまで感じてきた“鬼の気”とは、明らかに違う。

 ――呪い。

 古く、深く、人の理から外れたもの。

「……失礼します」

 声をかけ、扉を開く。

 部屋の中は、まるで夜そのものだった。

 灯は消え、床に膝をついた玄耀の姿が、闇の中に沈んでいる。

「……来るな」

 低く、掠れた声。

「紗月」

 名を呼ばれただけで、胸が締めつけられた。

「下がれ。今の俺は……」

 言葉の続きを、玄耀は呑み込んだ。

 代わりに、彼の背後で、影が蠢く。

 角。
 爪。
 人ならざるものの輪郭。

 鬼の姿が、半ば顕現していた。

(これが……呪いの正体)

 ただ鬼の血を引いているだけではない。
 何かが、彼を“鬼に引きずり落とそう”としている。

「……いつからですか」

 紗月は、一歩、部屋に足を踏み入れた。

「来るなと言っている」

「巫女として、お聞きします」

 鈴を鳴らし、気を整える。

「この呪いは――いつから、あなたを蝕んでいるのですか」

 沈黙。

 やがて、玄耀は、絞り出すように答えた。

「……十六の頃だ」

 紗月の胸が、ちくりと痛む。

「戦場で、俺は――人を殺しすぎた」

 自嘲気味な笑い。

「その夜、夢に“鬼”が出た。力をやる、と」

 紗月は、はっとした。

(契約……)

 人ならざるものとの、強制的な契約。

「拒めば、死ぬ。受け入れれば、生きて戦える」

 玄耀は顔を上げた。

「俺は、生きる方を選んだ」

 それは、将として、守る者としての選択。

「だが、代償は――いずれ、完全に鬼になること」

 闇が、脈打つように濃くなる。

「今朝は……限界が近い」

 玄耀の声が、震えた。

「お前を、巻き込みたくない」

 その言葉に、紗月の中で、何かが決まった。

「……鎮める方法はあります」

 玄耀の目が、わずかに見開かれる。

「ただし」

 紗月は、はっきりと言った。

「私にも、代償が伴います」

「駄目だ」

 即答だった。

「お前に、何かを失わせるくらいなら――」

「私は、巫女です」

 紗月は、静かに遮る。

「怪異と向き合い、人と人ならざるものの間に立つ存在」

 一歩、近づく。

「それに……」

 視線を、真っ直ぐに向ける。

「私は、あなたの妻です」

 玄耀は、言葉を失った。

「契約であっても」

 紗月は、鈴を握りしめる。

「あなたを、このまま放ってはおけません」



 儀は、簡易的なものだった。

 床に結界を描き、紗月自身を“楔”とする。

 それは、呪いを完全に祓うものではない。

 ただ――
 鬼へと堕ちる流れを、引き止めるだけ。

「紗月……」

 玄耀の声が、苦しげに響く。

「今なら、止められる」

「止めません」

 紗月は祝詞を唱え始めた。

 鈴の音が、闇を裂く。

 呪いが、反発する。

 激しい痛みが、胸を貫いた。

(……これが、代償)

 体の奥から、何かを引き抜かれる感覚。

 記憶――
 ではない。

 もっと、曖昧で、温かなもの。

(あ……)

 紗月は、悟った。

 これは――
 “人としての寿命”だ。

 長くは、生きられなくなる。

 だが。

(それでも)

 紗月は、祈りを止めなかった。

 やがて、闇が、ゆっくりと退いていく。

 鬼の影が、玄耀の中へと封じ込められた。



 目を覚ました時、
 紗月は、玄耀の腕の中にいた。

「……馬鹿者」

 低く、震える声。

「なぜ、そこまで」

 紗月は、微笑んだ。

「……巫女ですから」

 そして、付け加える。

「それに」

 少しだけ、頬を緩める。

「あなたは、鬼になるべき人ではありません」

 玄耀は、紗月を強く抱きしめた。

 初めて、感情を抑えきれずに。

「……二度と、一人でそんな真似をするな」

 命令でも、契約でもない。

 それは、確かな――
 “願い”だった。

 紗月は、静かに目を閉じる。

 契約婚。

 だがこの夜、二人の間に生まれたものは――
 それだけでは、なかった。




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