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第五話 鬼将軍の呪いと、巫女の代償
しおりを挟む雨の匂いが、屋敷を包んでいた。
夜明け前、まだ空が白む前の刻。
紗月は胸騒ぎを覚えて、目を覚ました。
(……これは)
空気が、重い。
澱のようなものが、屋敷の中心に集まっていく感覚。
しかも――
(将軍様……)
気配の源は、玄耀の部屋だった。
紗月は迷わず立ち上がり、鈴と護符を掴む。
女中を呼ぶ暇もなかった。
*
玄耀の部屋の前で、紗月は息を呑んだ。
扉の隙間から、黒い靄が溢れ出している。
これまで感じてきた“鬼の気”とは、明らかに違う。
――呪い。
古く、深く、人の理から外れたもの。
「……失礼します」
声をかけ、扉を開く。
部屋の中は、まるで夜そのものだった。
灯は消え、床に膝をついた玄耀の姿が、闇の中に沈んでいる。
「……来るな」
低く、掠れた声。
「紗月」
名を呼ばれただけで、胸が締めつけられた。
「下がれ。今の俺は……」
言葉の続きを、玄耀は呑み込んだ。
代わりに、彼の背後で、影が蠢く。
角。
爪。
人ならざるものの輪郭。
鬼の姿が、半ば顕現していた。
(これが……呪いの正体)
ただ鬼の血を引いているだけではない。
何かが、彼を“鬼に引きずり落とそう”としている。
「……いつからですか」
紗月は、一歩、部屋に足を踏み入れた。
「来るなと言っている」
「巫女として、お聞きします」
鈴を鳴らし、気を整える。
「この呪いは――いつから、あなたを蝕んでいるのですか」
沈黙。
やがて、玄耀は、絞り出すように答えた。
「……十六の頃だ」
紗月の胸が、ちくりと痛む。
「戦場で、俺は――人を殺しすぎた」
自嘲気味な笑い。
「その夜、夢に“鬼”が出た。力をやる、と」
紗月は、はっとした。
(契約……)
人ならざるものとの、強制的な契約。
「拒めば、死ぬ。受け入れれば、生きて戦える」
玄耀は顔を上げた。
「俺は、生きる方を選んだ」
それは、将として、守る者としての選択。
「だが、代償は――いずれ、完全に鬼になること」
闇が、脈打つように濃くなる。
「今朝は……限界が近い」
玄耀の声が、震えた。
「お前を、巻き込みたくない」
その言葉に、紗月の中で、何かが決まった。
「……鎮める方法はあります」
玄耀の目が、わずかに見開かれる。
「ただし」
紗月は、はっきりと言った。
「私にも、代償が伴います」
「駄目だ」
即答だった。
「お前に、何かを失わせるくらいなら――」
「私は、巫女です」
紗月は、静かに遮る。
「怪異と向き合い、人と人ならざるものの間に立つ存在」
一歩、近づく。
「それに……」
視線を、真っ直ぐに向ける。
「私は、あなたの妻です」
玄耀は、言葉を失った。
「契約であっても」
紗月は、鈴を握りしめる。
「あなたを、このまま放ってはおけません」
*
儀は、簡易的なものだった。
床に結界を描き、紗月自身を“楔”とする。
それは、呪いを完全に祓うものではない。
ただ――
鬼へと堕ちる流れを、引き止めるだけ。
「紗月……」
玄耀の声が、苦しげに響く。
「今なら、止められる」
「止めません」
紗月は祝詞を唱え始めた。
鈴の音が、闇を裂く。
呪いが、反発する。
激しい痛みが、胸を貫いた。
(……これが、代償)
体の奥から、何かを引き抜かれる感覚。
記憶――
ではない。
もっと、曖昧で、温かなもの。
(あ……)
紗月は、悟った。
これは――
“人としての寿命”だ。
長くは、生きられなくなる。
だが。
(それでも)
紗月は、祈りを止めなかった。
やがて、闇が、ゆっくりと退いていく。
鬼の影が、玄耀の中へと封じ込められた。
*
目を覚ました時、
紗月は、玄耀の腕の中にいた。
「……馬鹿者」
低く、震える声。
「なぜ、そこまで」
紗月は、微笑んだ。
「……巫女ですから」
そして、付け加える。
「それに」
少しだけ、頬を緩める。
「あなたは、鬼になるべき人ではありません」
玄耀は、紗月を強く抱きしめた。
初めて、感情を抑えきれずに。
「……二度と、一人でそんな真似をするな」
命令でも、契約でもない。
それは、確かな――
“願い”だった。
紗月は、静かに目を閉じる。
契約婚。
だがこの夜、二人の間に生まれたものは――
それだけでは、なかった。
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