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第七話 鬼将軍、妻を失う恐怖
しおりを挟む異変に、最初に気づいたのは玄耀だった。
朝餉の席。
いつもなら黙々と箸を進める紗月の手が、途中で止まっている。
「……紗月」
呼びかけると、彼女は一拍遅れて顔を上げた。
「はい?」
微笑んではいる。
だが、どこか輪郭が曖昧だ。
「昨夜、眠れなかったのか」
「いえ……少し、考え事を」
そう言って、また箸を取る。
だが、今度は一口も食べきれず、そっと置いた。
玄耀の胸に、嫌な感覚が走った。
*
昼前、鍛錬場での訓練を終えた玄耀のもとに、女中が駆け寄ってきた。
「将軍様、奥方様が――」
その言葉を聞き終える前に、玄耀は走り出していた。
紗月は、庭の一角に座り込んでいた。
顔色は白く、呼吸が浅い。
「紗月!」
抱き起こすと、彼女はかすかに目を開けた。
「……大丈夫です」
その声は、あまりにも弱い。
「どこが大丈夫だ」
怒鳴るような声になってしまう。
「すぐ、医師を――」
「いけません」
紗月は、玄耀の袖を掴んだ。
「これは……呪いの反動です」
玄耀の喉が、鳴る。
「あの時の……代償か」
紗月は、ゆっくりと頷いた。
「急に、来るわけではありません。ただ……」
視線を逸らす。
「少しずつ、“人としての時間”が削られていく」
その言葉は、刃だった。
「……なぜ、黙っていた」
震えを抑えきれない。
「言えば、あなたは、私を遠ざけるでしょう」
紗月は、静かに言った。
「それは、嫌でした」
玄耀は、言葉を失った。
*
その夜、玄耀は眠れなかった。
紗月が隣の部屋で休んでいる。
それだけで、胸が締めつけられる。
(失う……?)
そんなこと、考えたこともなかった。
戦場では、死は常に隣にあった。
兵を失い、仲間を失い、
それでも、前へ進んできた。
だが――
(紗月は、違う)
彼女は、守るべき民でも、
従う兵でもない。
選んだ存在だ。
気づけば、玄耀は自嘲していた。
「……遅すぎるな」
自覚した時には、
すでに失う恐怖に囚われている。
*
数日後。
北境の村で、今までにない強い怪異が発生したとの報せが届いた。
「俺が行く」
玄耀は即断した。
「私も」
紗月が、迷いなく言う。
「駄目だ」
即座に否定する。
「今のお前の状態で――」
「だからこそ、です」
紗月は、真っ直ぐに玄耀を見た。
「これは、私の責任でもある」
沈黙。
玄耀は、歯を食いしばった。
(まただ)
守りたい。
だが、縛りたくはない。
「……条件がある」
低く言う。
「少しでも異変があれば、即座に撤退する」
「はい」
その返事は、穏やかだった。
*
村での怪異は、予想以上に強かった。
鬼の気に呼応し、
異形と化した怨霊が、夜の村を徘徊している。
玄耀が前に立ち、紗月が結界を張る。
連携は、完璧だった。
だが――
儀の最中、紗月の膝が、崩れた。
「紗月!」
結界が揺らぐ。
その瞬間、怪異が、紗月へと牙を剥いた。
玄耀は、考えるより早く動いていた。
鬼の力が、解放される。
影が膨れ上がり、夜が震える。
「――触れるな」
怒りと恐怖が、力を押し上げる。
怪異は、悲鳴すら上げず、消え去った。
だが。
玄耀の腕の中で、
紗月が、ぐったりと力を失っていた。
「紗月……!」
呼吸はある。
だが、あまりにも浅い。
(嫌だ)
胸の奥から、初めての感情が溢れ出す。
(失いたくない)
*
屋敷に戻り、
紗月は寝台に横たえられた。
玄耀は、傍を離れなかった。
「……将軍様」
かすれた声。
「玄耀だ」
即座に答える。
「……玄耀」
その名を呼ばれるだけで、胸が痛む。
「怖いですか」
紗月が、微笑む。
「あなたが?」
「……あなたを、失うことが」
紗月は、少し驚いたように目を見開き、
やがて、柔らかく笑った。
「それは……恋ですね」
玄耀の心臓が、強く打った。
「私は」
紗月は、そっと続ける。
「その恐怖を、あなたに与えてしまったことを、後悔していません」
「なぜだ」
「確かに愛されることは、恐ろしいけれど……」
視線を、真っ直ぐに向ける。
「それは生きてきた証ですから」
玄耀は、紗月の手を、強く握った。
「……俺は」
言葉が、震える。
「お前を、失う結末を選ばない」
それは、将としてではなく。
鬼としてでもなく。
ただ一人の男としての、誓いだった。
紗月は、安心したように目を閉じる。
その寝顔を見つめながら、玄耀は悟る。
――これはもう、契約婚ではない。
恐怖と引き換えに得たものは、
確かに、“愛”だった。
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