ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 浜島の部屋の布団を敷き、なんとか上着を脱がすことに成功した彼を半ば転がすようにして寝かせると、尚澄は大きくて深いため息を吐いた。

 そう多くはないとはいえ尚澄自身もアルコールを口にしているし、ほとんど初対面の家庭のホームパーティめいた夕食会に混ざって気を遣い、おまけに寒空の下で肉体労働を強いられた。
 ひとつでもだいぶ疲れるようなイベントがいくつも重なって、すっかり疲弊していた。
 浜島は意識があるのかないのか、時折うめくような声を立てて目を閉じている。放っておいてもいいかと思いつつ、尚澄はコップに水を汲んできて、浜島の部屋の座卓に置いておいた。
 尚澄が拾われたときと、立場がちょうど逆転している。
 あのとき浜島は、尚澄を自前のスウェットに着替えさせてくれたものだったが、体力的にも体格の差としても、尚澄にはそこまでやる気概はなかった。しかしトレーナーくらいは脱がせてやろうかなと、寝苦しそうな浜島の寝顔を見ているうちに同情心のようなものが出てきてしまう。
 灯油ストーブを焚いて部屋が急速に暖まり、酔いもあいまって暑いのだろう。
「浜島さん、寝苦しくない? 服脱がすよ」
 起こすのも忍びないが、例えば彼が吐いたりして服が汚れてもかわいそうだ。尚澄は浜島の肩を抱き起こして、軽く声をかけた。
 浜島はその声に小さく呻き、うとうとと瞬きをする。
 その目が尚澄の姿を捉えると、不意にくっと、険しく眇められた。

「い……いやだ」

 次の瞬間、浜島は尚澄の腕から逃れるように身を縮め、拒絶の言葉を吐いた。
「いやだ、触るな……、お、俺に構わないで」
 身体の統制がとれていないのか、浜島はのろのろと尚澄から遠ざかるように布団に再び転がりうずくまる。
 けれど、そうしただらしない動きからも、明確な拒絶の意思があふれていた。
「え……」と無意識に声が漏れて、尚澄はそれが自分の声であることにも気がつかないまま、呆然と浜島を見ていた。
 今までの彼からは考えられない拒絶に、ショックを受けていたのだ。

 だってさっきまでは、あんなに甘えてきていたというのに。

 それが誰にでもするような癖だったとしても、甘えられて多少は嬉しく感じていた自分を、尚澄はそのとき発見した。
「浜島さん、どうしちゃったの」
 自らが拒絶されていることを簡単には受け入れられず、尚澄はそう問いかける。
 悪い冗談であってほしい、と願っていた。
 浜島は尚澄に背を向けていたが、やがて「……霜澤さん、あんたいつまでここにいるつもりなの。いつになったら帰るの」と、小さくくぐもった呟きをこぼした。
 急な問いかけに、尚澄は声も出せない。
 彼はやっぱり自分を邪魔に感じていたのだろうか、というのが、最初に抱いた疑問だった。
 一週間も見知らぬ人間が居座って、それがストレスだったのだろうか。
 さっきまでなら酔っ払いの戯言だと流すこともできていたかもしれないが、浜島の声はいまだろれつが怪しいとはいえ、思いがけず理性的で、重みがあった。
 だからこそ、自らの抱いた疑問を「そうだ」と肯定されることが怖くて、尚澄の舌は重たく痺れた。
「……浜島さん、おれ……」
「いい……いい、聞きたくない……、云わないで」
 尚澄の意味を持たない呼びかけを、浜島が力なく遮る。
 しばし二人の間に逡巡するような沈黙が落ち、やがて浜島が、寝返りを打つように振り返る。
 酔っ払い特有の充血して潤んだ目が、それにしてははっきりした意思を持って、尚澄の表情を捉えていた。

「なあ……、なあ、霜澤さん。あんた男がいるんだろ?」

 さっきまでの甘えた態度のようにあやふやなものではなく、明確な意識下で発された問いかけ。
 その男に会いに行くはずだったんじゃないのか、と続けざまに問われて、尚澄はわけもなくうろたえた。
「どうしてそんなこと」と視線を泳がせる尚澄を見る浜島の表情は、ひどく切なげだった。
「自覚ない? あんた何回か、名前呼んでた。ゆうとさん、って」
 出るはずのない名前が浜島の口から転がり出て、尚澄の全身の血が凍る。「いつ……」と無意識に口をついて出た疑問に、「そもそも公園で、最初に声かけたときからそういう名前を云ってた」と浜島。
「最初はまさかあんたが俺のお仲間だなんて思わなかったから、聞き間違いかと思った。でもあんた……寝言でも、俺としてるときでも、ゆうとさん……って、呼んでた」
 浜島の震える言葉が、尚澄の手のひらを、全身をどんどん冷たくしていく。
 心臓の鼓動が、やけに強く感じられた。
「あんたの友達ってのはその人のことなんだろ。それに……友達、じゃないんだろ? あんなふうにあんたが名前を呼ぶ人が、特別な相手じゃないなんてこと、ない、よな? ……なのにあんたは、俺と」
 浜島は苦しげに目を瞬かせ、尚澄から顔を背ける。浜島さん、と意味もなく尚澄は彼の名前を口にした。
 釈明したかったのかもしれない。勇斗は浜島が思うような相手じゃない、と云いたい気持ちはあった。
 けれどその気持ちを、またしても浜島は「嫌だ」と拒絶する。
「嫌だ、もう……、もう、そんなふうに俺を呼ばないでくれ、頼むから。俺そうやってあんたに呼ばれると、さみしくて……、だめになっちゃうんだよ……」
 再び背中を丸め、浜島は泣きそうな子どものように声を震わせた。

「あんたに相手がいるって判ってるのに、まだここにいて欲しいって思っちまう。期待なんかしてもどうせさみしくなるだけって判ってるのに、ずっとここにいてくれないかなって……。そんなの、誰も幸せになんないのに、……そのゆうとさんって人とあんたが、うまくいかなきゃいいのにって考えたりしてさ……、俺、嫌なのに、人のもの盗るのも盗られるのも、嫌で嫌でたまんないはずなのに、帰らないで欲しいって思って……、このままじゃ俺、自分のこと許せなくなりそうで、」

 ──だからこれ以上あんたのこと、好きになりたくないんだ。

 いつも立て板に水の浜島が、つっかえながら独り言のようにこぼした、散漫だが率直な心情に、尚澄は心を抉られる。
 彼の声はいつの間にか涙に濡れていて、この上なく切実で、尚澄はそれを、いつか聞いたことのある声、言葉だ、と思った。

 尚澄は今の浜島に、六年前、勇斗に別れを切り出したときの自らの姿を見ていた。
 勇斗が好きだからこそ、自分のことを許せなくなる。自分のことも勇斗のことも嫌いになる未来しか、あのときは見えなかった。
 今の浜島もそうなのだ。彼は彼の信念や良心に則って、自らが尚澄に好意を抱くことそれ自体を、許せないでいる。
「浜島さん」
 あの頃の自分に声をかけるような気持ちで、尚澄は浜島の名前を再び呼んだ。けれど、いったいなにをどう話せばあの頃の自分が納得したのか、尚澄には判らない。
 あのとき勇斗に「きみがいれば子どもなんていらない」と云われても、尚澄自身の気持ちがもうどうしようもなかったように、勇斗はそういう相手じゃない、と真実を明かしたところで、もう手遅れのように思われた。
 それに、「勇斗はそういう相手ではない」と否定することそのものにも、得体の知れない抵抗感があった。
 だって、浜島の云うとおりだったから。
 今はもういない人間だけれど、勇斗はまだ「特別」であることには違いない。
 そうした考え事が、誰に対してか判らない罪悪感を胸中に渦巻かせ、尚澄の喉は無為に震えるばかりだった。

 浜島は「いやだ……」と小さく呟いたのを最後に、身じろぎもしなくなる。そのまま寝息を立て始めたのが聞こえたが、尚澄は金縛りに遭ったように身動きがとれなくなっていた。
 気持ちがぐちゃぐちゃになって、ただ取り返しのつかない後悔のようなものに苛まれていた。
 自分が些細な秘密を持ち続けたせいで、浜島を傷つけてしまったことが、ただただ悲しく、苦しかった。
 やがて尚澄はか細い息を吐き、眠りについた浜島の顔を覗き込む。

 ──好かれてないんじゃ、なかったんだな。

 彼の目許に滲んでいた涙を拭ってやって、尚澄はそのあともしばらく、浜島の苦しげな寝顔を眺めていた。

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