ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 山を下りる話がまとまったあと、浜島は「今日は一日寝て過ごす」と宣言し、二階の寝室に戻っていった。
「年寄りからなんか連絡が来たら、二日酔いで寝てるって云ってもらっていい? まあどうせみんなもう、俺が酔っ払って醜態をさらしたことは知ってることだろうけどさ」と、自虐的に云い置いて。
 尚澄は朝食の食器を洗うほか、昨日のうちにできなかった洗濯、掃除といった雑事を片付け、そののち、自分の部屋に戻って荷物をまとめた。
 もともと一泊分程度の荷物しか準備していなかったので、まとめるほどにも散らかってはいない。下着以外はほとんどいつも、浜島から借りた服を着ていた。
 ある程度家事や雑事を済ませてしまうと、尚澄はそっと二階に上がった。
 浜島の部屋は静かなものだったから、おそらく熟睡しているのだろう。同じように足音を忍ばせて彼の部屋を訪れた日のことを思い出すが、今日の尚澄は浜島の部屋でなく、アトリエに用事があった。

 彼の描いた絵を見ておきたかったのだ。

 既に完成した絵については勝手に見ることを許可されていたが、彼がまさに尚澄をモデルにして描いている絵がどういうものなのか、尚澄自身はきちんと見る機会に恵まれなかった。
 覗き見る機会があっても、「まだ途中だしあんまりうまくないから」と浜島が嫌がったためだ。
 彼はそうしてうまくないと謙遜するが、尚澄は浜島の絵を気に入っていた。
 あの棚田の絵を引き合いに出すまでもなく、彼の描いた絵には彼自身のまなざしがしっかり宿っているのだ。
 彼の目を通して見た世界を、彼の絵を見ることで共有できるような気がする。
 だからこそ、彼の描く自分の絵に尚澄は興味があった。
 昨日こぼしていた心情も踏まえて、彼がいったい自分をどう見ているのか、知りたかった。きっと絵には、それが如実に表れているだろうと、尚澄は思っていた。
 外は晴れていて、日当たりのいい二階の角部屋は障子が閉まっていても十分に明るかった。その一角に立てかけられたカンバスには、いつも通り埃よけの覆いがしてある。
 それを尚澄は、そっと剥がしてみた。
 特有の匂いが鼻につく。

 画布に描かれているのは、紛れもなく尚澄の笑顔だった。

 細部はまだ曖昧だが、ざっくばらんな筆致でも、もうそれそのものだと、判る。
 絵を見て、尚澄はわけもなくたじろいだ。
 尚澄を描いているのだから彼の顔が出てくるのは当たり前だが、描かれた笑顔は、自分が想像していた以上に、幸せそうだった。
 自分はいつも浜島の前でこんなふうに笑っていたのか、と、自らの感情を突きつけられたようで、戸惑う。

 ──笑うと、……かわいいな、と思って。

 初めて浜島と寝た日、彼がそう云ってきたのを覚えている。
 あのときも自分はこんな顔で笑っていたのだろうか。
 行きずりの男でしかなかった、浜島との会話で。
 彼のまなざしを通して見た自分の笑顔から、尚澄はふたりぶんの恋心を、確かに感じ取っていた。
 尚澄自身と、それをまなざす、浜島の。

 胸を衝かれるような思いがした。

「……霜澤さん? なにしてるの」
 不意に声をかけられ、尚澄はぎくりと身をこわばらせて、振り返る。
 まだ少し顔色の悪い浜島が、戸口のほうからこちらを覗いていた。引き戸が開けられていたことに、どうやら気がつかなかったらしい。
「ごめん、おどかして。水飲もうと思って起きたんだけど、下に気配がなかったもんだからさ。……あ、絵見てたの? やだな、まだ完成してないって云ってるのにさあ」
 浜島は少し照れたように尚澄の手から覆いの布を取り上げ、そのまま絵に被せて画布を隠してしまう。尚澄は呆然と浜島の顔を眺めていたが、やがて「だって、もう完成品を見る機会、多分ないだろ」と言葉を絞り出した。
 そうだねと浜島は笑って、「写真も撮らせてもらったし、不細工には描かないから心配しないでよ。俺の腕前由来の不細工になる可能性は否めないけど……」と冗談めかして肩をすくめる。
「心配してないよ。今この段階でこの絵、おれより男前だったから」
 尚澄も冗談を返すように云ったが、うまく笑えたかどうか、自信はなかった。
「それならいいけど」と踵を返す浜島を、尚澄は「なあ」と呼び止める。
「うん? どうかした?」
「……あのさ、浜島さん。おれ……、」
 理性と緊張が唇を乾かし、貼りつかせる。けれどそれを上回る感情と衝動が、腹から出たがって唇をこじ開けた。
「おれ、……絵が完成したら、見に来ても、いいかな」
「え? わざわざ見に来るの?」
 振り返った浜島は、尚澄の言葉に浮かべて目を瞠った。冗談かなにかだと思っているのが、薄く笑んだ彼の唇のかたちから理解できる。
「うん……、だめ、かな。あんたがきれいだっていう、ここから見る棚田も、見てみたいんだ。だから……、だからまた、ここに来てもいい?」
 山を下りると決めたときの諦めに似た気持ちが、今は霧散していた。一方で、感情が不安定になっているのを自覚もしていた。

 勇斗とのことにけじめもつけないで、こんな話をするべきじゃない。
 それでも、浜島が好きだという気持ちが、抑えられなくなっていた。

「それは……嬉しいよ。嬉しいけど……」
 尚澄の必死な様子に、浜島は困惑して語尾を濁す。彼自身、どう答えたものか戸惑っているようだった。
 それはそうだろう。彼は尚澄に「特別な相手」がいるものだと思っているのだ。
 本人いわく、それで尚澄を好きになるまいとしているのだから。
「……おれ、……ずっとあんたに、嘘ついてたんだ」
 尚澄は、唇を湿らせる。漆原勇斗という元恋人のことを、それから尚澄は、ようやく打ち明けた。
 十二年も前に出会った、自分の初めての恋人。尚澄に性的指向を自覚させてくれた人。六年前に尚澄から別れを告げた、今でも愛おしい人。せっかく家庭を持ったのに、若くしてこの世を去ってしまった人。
 そんな勇斗の墓参りに来たと、ずっと云い出せていなかったことを詫び、尚澄は打ち明け話を結ぶ。
 浜島は口を挟まず尚澄の話を聞いてくれたが、あえて感情を抑えているかのように、わずかに眉を寄せたまま、無表情を保っていた。
 過去を吐き出す尚澄を見つめるまなざしは、絵を描いているときのように真剣で、少し威圧感があった。
 話が終わっても浜島は表情を抑え込んだままだった。けれどその内心に葛藤があるのが、震える瞳に表れているように、尚澄には思えた。
「……どうして今、話してくれたの?」
 やっと浜島が口にした言葉が、それだった。
 尚澄をまっすぐ見つめる目にはしかし、苦々しさにも似た感情がわずかに浮かびかけているように見える。

「浜島さん……おれ、あんたのことが、好きなんだ」

 尚澄は自然と、自らの気持ちを吐露していた。

 一瞬驚いたように目を瞠り、それからかたく瞼を閉じて、浜島はゆるくかぶりを振る。
 なんで、と小さな独り言が、その唇からこぼれた。
「……ごめん、急にこんなこと云って」
 一度口にした言葉は取り戻すことができない。
 尚澄は浜島の反応に自らの発言をいくばくか後悔したが、ごまかすことはしなかった。浜島は目を閉じたまま「いや……いいよ。いいんだ」と、気の抜けた声で呟く。
「その……愛の告白ってのは、だいたい急なもんだからね。でも……、でも、霜澤さん、……でもね、俺は」

 ──俺はそれを信じられない。

 浜島は、自らにも尚澄にも刻みつけるように、不信を告げた。
「……信じられない?」
「ああ。……あんたが嘘ついてるって云うんじゃないんだよ。あんたはさ、こんな辺鄙なところにもう一週間以上もいて、ほとんど俺しか喋る相手もいなかっただろ。この家にいる間、ずっと俺と一緒にいてくれてさ。そうしたら、……好きだって、錯覚もするさ。俺が耐えがたい存在じゃない限り、好感を抱いてるように思っちゃうんだよ」
 要するに、尚澄が浜島に抱いている気持ちは勘違いのようなものだ、と彼は云いたいのだ。
「あんたの気持ちを否定する気はないんだ。それに、俺のこと好きだって云ってくれるのも、嬉しい。でも……俺、ずっとそんな感じで駄目になってきたからさ……」
 昨日云ったろ? と浜島は自虐的な笑みを浮かべ、尚澄は言葉もなく、そのときのことを思い返す。

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