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 真っ暗な画面に、リビングの景色を映した大型テレビ。座る人間のない黒塗りのソファ。それでも食卓には、焼き立てのポーポーが皿に盛られて置かれており、美味しそうな湯気を立てていた。

「そろそろ戻って来るのではないかと思っていたところですよ」

 台所の奥から、妻がそう言ってきた。

「小腹を空かせてはいけませんから、少し作ったの。うまくできているかしら。昔は子供達によく作ってあげていたけど、あなたも好きだったでしょう? さ、お食べになって」

 仲村渠は帰ってくるたびに小腹をすかせていたから、妻は彼が早帰りの日は、いつも何かを用意して待っていた。週に何度かはポーポーやヒラヤーチー、サータァンダギーが作られていたものだ。

(とても懐かしい、匂いだ)

 妻が現れてから、一人で長時間留守にすることなくなっていたから、これが初めてのポーポーではある。

 中に味噌は入っていなくて、ほんの少し砂糖を加えた、彼女の黄色くて美味しい沖縄料理――。

「あ、ポーポーで大丈夫でした? トンカツソースはいります?」

 夕飯の支度を再開した妻が、ふと振り返り、聞いた。

「いや、ソースはいらない」
「あら珍しい」

 仲村渠は思い出を心の奥へとしまい「ありがとう」と言った。

 途端に妻が嬉しそうに目を細めて「どうかされたんですか」なんて茶化しつつ、作業に戻る。

 仲村渠は妻楊枝を一つ取り、切られているポーポーの一切れに刺し、そして口に入れた。

 巻かれたポーポーの端から食べるのが、仲村渠は好きだった。昔からそうなのだ。焼き目の少し焦げた、カリカリッとした触感が気に入っていた。

 妻が作ってくれたポーポーは、ひどく懐かしい味がした。

 仲村渠は、よく噛んで、その味と触感を深く味わった。

 彼は食卓の椅子に座り、ポーポーがのった皿に向き合い、何度も、何度も噛みしめて、すべていただいた。量があったので胃の心地が悪くなったが、吐いてなるものかと、用意されていたグラスに入った茶をゴクゴクと飲む。

 ポーポーは、自分で作ろうとしても綺麗には巻けなかったし、膨らまなかった。

 味だって、ここまで美味くはできない。

(――本当は、君の作る料理や菓子が、好きだった)

 全部自分でできると思っていたのに、離れしばらくしてから、自分の作る料理が味気ないものだということに仲村渠は気付かされた。違う料理に挑戦してみしても、食べた時に感じるのはいつも無感想な静けさだ。

 腹を満たすためだけに食べ物を口にする日々は味気なく、しばらくすると食べることへの興味も薄れた。

(よくない顔色、か)

 ちょっとした軽いつまみや、デリバリーで済ませるのもよくあることだった。

 皿一つ分のポーポーはつらかったが、最後は、きちんと「ごちそうさま」と言って両手を合わせて、ティッシュで唇を拭った。

「俺は、もう大丈夫だ」

 仲村渠は立ち上がった際、台所を見て、そう声をかけた。

 窓から風が入り込み、リビングのカーテンが大きく膨らんだ。

「……俺は、もう、大丈夫だから」

 自分に言い聞かせるようにそう続けた言葉は、囁きになった。

「突然、どうされたんです?」

 妻が台所からやってきた。エプロンを着て微笑む顔は、彼が記憶しているどの頃の妻よりも美しく、眩しかった。

 仲村渠は、長らく妻の顔を眺めていた。

(ああ、きっと確認してくれているんだな。だから――大丈夫だと、伝えないと)

 大丈夫であると、彼女に知らしめなければいけない。

 仲村渠は、久し振りに彼女の名前を呼んだ。

「――」

 向き合い、少し下にある妻の顔に微笑みかける。すると妻の方も、随分聞いていなかった彼の名前を口にした。

「もう、大丈夫なんですか?」

 そう言って、妻が微笑む。

 その顔がなんだか霞んで見えた。仲村渠は目を凝らしたが、どんなに集中しても彼女の姿はぼやけてしまう。

 彼女が着ていたはずの服や、エプロンの色や、まとめられた髪の感じが思い出せなくなった。外見はどれほどの年代だったか? その顔に、小さな黒子はついていただろうか? 指の結婚指輪は、どうだっただろう?

 目の前にいるはずの妻が、眩しい光に包まれていく。

 ――とても、温かい。

 彼女を守っていた何かが、彼女を連れ帰ろうとしてくれているのか。

「きっと、会いにゆくから」

 仲村渠は、できるだけ心を落ち着けて、そう言った。

「そこで、また会おう。今度は俺がお前に会いにいくよ」

 だんだんと光に溶けていく妻の立ち姿が、揺らぐ。

 幻が、とうとう消えてしまうのだ。けれど仲村渠は言葉を告げた時『結婚しよう』と言ったあの頃の幸福な顔で、彼女が心から微笑んだように見えた。

 きっと、会いに来て、約束ですよ、と。

 そんなことを語る表情だと、仲村渠には感じた。


 ハタと気付いた時、彼は食卓に置いた腕に顔を埋めている状況だった。

 あれから、どのくらいの時間が経ったのだろう。

 窓の外を見てみると、すっかり夕暮れの色に包まれていた。食卓には何も置かれてはいない。何もかも幻だったかのように、そこには伽藍とした一人暮らしの光景が広がっていた。

 仲村渠は、喉の乾きを覚えて台所へと向かった。

 ガス台にある鍋に気付いて、思わず足を止め、見入った。

 触れてみると温かかった。おずおずと蓋を開けると、美味しそうな野菜スープの香りがキッチンに広がる。

「……幻じゃ、ない」

 ポーポーの皿はなくなっているのに、どういう原理なのだろう。

 水分補給を済ませてあと、仲村渠は鍋を温め直してみた。

 スープ皿に入れると、薄く色づいたトマトが入っていることに気付いた。一口、二口と食べてみると、味はとても薄い。

 最後に、塩を入れて仕上げるつもりだったのだろう。

「ふふっ、そうか。仕上げる前に、俺が声をかけたからか」

 トマトの微量な香りと、ほのかに野菜の甘みが舌の上を滑った。仲村渠は「美味いなあ」と言い、続けて、何度か口に入れて味わった。

 スープに、ぽたぽたと落ちてていくものがあった。

 震えるスプーンですくい上げたスープにもこぼれ落ちて、涙だと仲村渠はようやく実感する。口に入れると少し塩辛くて、いよいよ涙だと分かった。

 こらえ切れず、仲村渠は声を押し殺して激しく咽び泣いた。

 彼女が、そこにいない。とても美味しい野菜スープを残して、彼女が消えてしまった、元通りになつてしまった目の前に戻った現実が、寂しくて、寂しくて、彼は仕方がなかった。

             ※

 病気との付き合いには慣れていたから、私はその年も、とくに気には止めていなかった。

 少し内臓が弱ってしまっていると、お医者様はそう言った。

 高齢にも差しかかっているのだから、以前からは食べ物にも気をつけている。今では減塩の料理もすっかり上手になりましたのよと私が話すと、主治医は、いつも悲しそうな顔で微笑むのだ。

 きっと、私と同じ年頃の母親がいるのではないかしら。

 人がよすぎる医者が、多く訪れる患者の一人一人に心を痛めているような気がして、だから私は『大丈夫ですよ』と教えてあげたのだけれど、やっぱりそのお医者様は困ったように笑って、何も答えてはくれなかった。

(私、すっかり年寄りになってしまったのね)

 私はそう思った。身体中にすっかりガタがきてしまっているから、短期間の入院も増え出していた。
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