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四章 彼女と二人きりの部室で

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 時刻は午後六時半。十数分前に再び拓斗が、今度は鞄を持って出て行ってから室内は静まり返っている。
 理樹は一人になった部室の中央の、テーブルが端に寄せられた代わりに、二脚の椅子だけが置かれたそこの片方に腰かけて、ぼんやりと窓の向こうに見える景色へ目を向けていた。

 小じんまりとした部室の西側一面に並ぶ窓には、空に浮かぶ雲が、明るい夕焼け色に照らし出されている光景があった。締め切った窓の向こうには、運動場も体育館もないせいか、やはりとても静まり返っていて、しんとした沈黙が漂う。

 校内放送用のスピーカーが設置された時計が、どこか懐かしい響きをもって秒針を動かせている。どの世界でも時計は同じ速さで、同じように刻(とき)を刻むらしい、と、そんなつまらないことを考えてしまった。

 その時、待ち合わせの予定時間を数分過ぎて、部活を三十分早目に切り上げた沙羅が部室にやってきた。
 チラリと顔を向けると、後ろ手にそっと扉閉めた彼女と目が合った。

「帰りの時間は大丈夫なのか」

 それとなく尋ねると、沙羅がコックリと頷いた。調理部に戻ってからだいぶ泣いたらしい。その目は少し腫れていて、小さな鼻頭がほんのりと熱を持っているように色付いていた。

 沙羅がまだ濡れている長い睫毛を、ゆっくりと動かせた。室内に入った場所で足を止めたまま、ふっと潤んだ瞳を隠すように視線を落としてしまった。


「…………どうして好きになってくれないの、なんて、失礼なことを言って、ごめんなさい」


 囁くほどの小さい声で、彼女はそう切り出した。

 理樹は静かな眼差しを向けて、少し遅れて「座るといい」と目の前に置かれて椅子への着席を促した。沙羅が向かい合わせになった椅子まで歩み寄り、スカートを尻の下に敷くように手を滑らせて腰かけた。

 お互い机もない椅子だけを向かい合わせて座っているというのも、なんだか変な感じがした。理樹が開いた膝に手を置く向かい側で、沙羅は太腿の間に少し挟んだスカートの裾を、細く白い指先で少し触る仕草をする。

 タイムリミットは、部活動の終了を告げる十九時までだ。

 こうして拓斗の計らいで時間を合わせてもらったものの、実際に二人きりにさせられると、どう話せばいいのか分からなくなった。

 つい黙って見つめてしまうと、視線をそらしたままの沙羅が、勇気を振り絞るようにスカートをぎゅっと握りしめた。

「私、色々いっぱいでよく分からなくてなって……自分から避けていたら、日が過ぎるごとに顔を合わせるのが難しくなって、それを知られて子供みたいだって思われて、九条君に嫌われちゃったらどうしようって考たら余計に顔が見られなくて、それで、さっきもパニックになっちゃったんです…………」

 だって九条君はとても大人びているから、と沙羅はまたじわりと涙を浮かべた。泣くのを堪えようとするかのように、制服のスカートが皺になるほど強く握り締める。けれど覚悟を決めてここへ来たのだという顔で、ぽつりぽつりと話しを続けた。

 告白を続けている現状を迷惑だと思われている可能性については、自分でも考えていたらしい。だから、生徒会長の宮應に出会い頭にそれを指摘された時、感情的に言い返したのだという。

 運動場で勝負があったあと、宮應が保健室に謝罪に訪れ、そんな悩みも全て聞いてくれたのだ、と彼女は語った。今では、タイミングがあえばレイと一緒に三人で、食堂でご飯を食べながら話すことも少なくないらしい。

 なるほど、だからわだかまりもなかったわけだ。

 理樹は話を聞いて、食堂で見た沙羅と宮應、そして話す二人に疑問を抱いていなかったレイの様子を思い起こした。

 つまり今の彼女に、こんな表情をさせているのは自分だけなのだと理解したら、沙羅が先程口にした『子供みたいだと思われて嫌われたら……』という不安事が脳裏を過ぎった。

「――俺だって、冷静でない時くらいはある」

 視線を窓の景色へと逃がしながらそう切り出したら、彼女がチラリと上目を向けてきた。その視線を横顔に覚えながら、理樹は見つめ返さずに「つまり」と独り言のように続けた。

「『子供みたいだ』なんて俺は思わない」

 再び、室内に沈黙が降りた。
 嫌われたりしたら、という質問への答えなのだと気付いた沙羅が、少し身動ぎして制服が擦れる音がした。

 外の夕焼け空は、短い間に淡い黄金(こがね)色へと表情を変えつつあった。それがやけに目に沁みて、理樹はそっと目を細めた。

「しっかり話しておいで、と佐々木君にアドバイスされました」
「そうか」
「途中で来てくれたレイちゃんにも、頑張っておいでって」

 どんな結果になるのか分からない。
 どういった変化を迎えるのかだって、想像はつかない。

 それでも、これでひとまずの決着がつくのだろう。

 理樹はそう思って、彼女へと視線を戻した。すると沙羅も、こちらへと潤んだ目を向けてきた。


「…………私、あなたが好きです」


 沙羅が震えそうな声で、それでもしっかりと、もう何十回目かも分からない告白の言葉を口にした。

「初めて見た時、あなたに一目惚れしました。時間を過ごす中でもっと好きになって、……胸が苦しくて上手く呼吸が出来ないくらいに、あなたが好きなんです」

 そう告げる彼女の潤んだ大きな瞳には、迷いがなかった。

 真っ直ぐ正面から見てそう気付かされた理樹は、どうして、と小さく口を動かせていた。
 どうしてそんなに真っ直ぐ『好き』だなんて言える?

 それに気付かなかった沙羅が、表情の変化がない理樹を見て、漂う沈黙に慣れない様子で弱々しい苦笑を浮かべた。場の空気を少しでも和らげるように「実は」と言って、言葉を続けた。

「もっと早く出会えていたら、中学生だった頃のあなたを知ることが出来たかもしれないのにって、私、そんなことまで考えてしまいました」
「…………『もっと早く』『出会う』……?」

 彼女のそんな声が耳に入った時、頭に鈍い痛みを覚えた。似たような台詞を聞いたような、言われたことがあったような気がして、理樹は記憶の中を探った。

「佐々木君が、中学校に出会った最高の親友だって、男の子たちに言っていたのをチラリと耳にしたんです。もし女子校を選ばなかったのなら、小学生だった頃のあなたにも会えていたかもしれないなぁって想像して、佐々木君にまで嫉妬してしまったと気付きました」

 一人話す沙羅の声が、前世の『サラ』と重なって頭の中に響いた。

 警鐘のような脈打つ痛みが強まり、視界がぐるぐると回り始めてひどい吐き気まで覚える。頭を持ち上げられていられなくて片手をあてると、異変に気付いた沙羅が「どうしたの、大丈夫?」と立ち上がって歩み寄ってきた。

 おろおろとした様子でいた沙羅が、躊躇いがちにこちらの頭に触れてきた。その瞬間、理樹の中で一つの鮮明な声が『前世の記憶』から引っ張り出された。


――君を愛してる。
――私も愛しているわ。


 過去の光景と声が蘇った時、理樹はこれまでにない激しい頭痛に襲われて、一瞬後には視界がブラックアウトしていた。

             ※※※

 ああ、またこの『夢』か。

 自分はまたしても前世の頃の記憶を見ているらしい、と察して理樹はそう思った。繰り返し見る、耐え難い胸の痛みを伴う彼女との最期の別れだ。

 こうして同じ刻(とき)を、自分は何度も夢の中で繰り返し経験しなければならない。諦めのようにそれを受け入れようとした理樹は、ふと、いつもと少し違うことに気付いた。
 いつもは自分が『リチャード』として動いているというのに、何故か目の前に、前世の大人の自分である『リチャード』が座っていたのだ。

 すらりとした長身の彼が、ベッドのそばに椅子を置いて腰掛けている。そして寝室のベッドには『サラ』が横たわっていて、まるで第三者視点のように、理樹は彼らが過ごす最期の光景を眺めていた。

 リチャードが手放したくないと言わんばかりに、両手で包みこんでいる彼女の華奢な手をぎゅっと握りしめた。彼女がようやくいった様子で、涙が浮かぶ澄んだ空色の瞳を持ち上げて、あの言葉を口にした。

「どうして……出会って………ったんだろう」

 絞り出す声は、途切れ途切れで掠れていた。リチャードを見つめている彼女が、静かな悲しみを滲ませた表情で力なく涙を流した。

 不意に、記憶に残り漂う音が全て消えた。

 理樹が「なんだ?」と疑問を覚えた時、どこからか『彼女』の声が聞こえてきた。


――どうしてもっと早く、出会ってしまえなかったんだろう。


 理樹は、思わず目を見開いた。
 これは『彼女』の記憶なのだ、とどこか本能的にそう直感した。

 同時に、あの途切れ途切れに聞こえた言葉が全てではなかったのだと気付かされた。全くの解釈違いだ。ずっと謝罪だと思っていた声なく動かされた唇から、本来出されるはずだった呟きの言葉が、彼女の痛々しい想いと共に聞こえてきた。


――産まれた頃の婚約者が、貴方であったら良かったのに。
――ねぇ、神様お願い。もっと一緒に居たい。こんなにも離れ難いのに、今の私では、長くそばにいることが出来ないなんて。


 どうかもう一度、彼と出会わせて。今度はきっと、私から声を掛けに行くから。

 壁際の華になんてならない、勇気を出して「初めまして」から始めるの。
 何もかも覚えていなくたって、私、きっと愛した貴方を見付けられるわ。


 だって、こんなにも愛した人は、貴方だけだもの……
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