仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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7章 それは、偽りの存在(5)

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 エルは、静かな室内に耳を済ませた。緊張感が完全に解れると、短い間に重なった疲労感を覚えて、思わず肩が落ちた。クロエが絨毯の上に降り、そこで気持ちよそうに伸びをした後、丸くなる様子を眺めた。

「絨毯、気に入ったの、クロエ?」

 愛らしいクロエの行動に、思わずエルの表情も緩んだ。クロエは腹を見せるように転がり、誘うように大きな瞳でエルを見上げた。

 エルもそのまま横になった。クロエと目線が合うと、何だか楽しくなって声を潜めて笑った。オジサンの家の居間でも、よくこうして一緒に過ごした日々が、とても懐かしく思えた。

「クロエ、聞いてくれる?」

 エルが小声で話し掛けると、クロエが一つ肯いた。エルは更に声を潜めると、秘密話を打ち明ける子共のように語った。

「遊園地って、すごくキラキラとして人の多い所だったね。いつか一緒に行ってみたいねぇ。……俺ね、昔CMで見たテディ・ベアの事を思い出したよ。ずっと昔に、お父さんが、いつか特別なテディ・ベアをプレゼントしてあげるって言っていたのを、すっかり忘れてしまっていたんだ。ああ、そういえばさ、昔誕生日の時にオジサンがさ――」

 オジサンの家に引き取られた後、同じCMを見た事があった。オジサンは風船を沢山膨らませると、不器用な手で熊を作ってくれた。ポタロウとクロエがじゃれるたびに破裂し、驚いて泣き出すエルの為に、彼は再度風船を膨らませて熊を作った。

 特別な日に、特別な思い出を作るのが、オジサンのモットーだった。

 オジサンはロマンチックよりも冒険を求めたが、同じような日々は、あまりなかったような気もする。いつかの誕生日の後、『恐怖のテディ・ベア』という絵本を買って来て、勝手にアドリブでどんどん読み聞かせてエルを笑わせたものだ。

「あの絵本、どこにいっちゃったんだろうね。せっかくオジサンが、俺の為に買って来てくれた最初の贈り物だったのに、結局俺が開く機会って、一度もなかったんだよなぁ。表紙の絵は何となく覚えているんだけど、題名も思い出せないよ」

 疲労した身体に、カーペットの冷たさが心地良くて、エルはオジサンの家にいる時と同じように、猫のクロエに話し聞かせた。ふと、クロエの眠たげな眼差しに気付いて口を閉じる。

 クロエが満足そうに小さな声で鳴いて、顔を伏せた。エルは、クロエの頭を優しく撫でると、「おやすみ、クロエ」と告げて見を起こした。

 室内には冷房の稼働音と、安らかな寝息が続いていた。エルは、クロエの身体が冷えてしまわないよう、ボストンバッグからタオルを一枚取り出して、彼女の身体にかけてやった。

 身体が重い。なんだか眠気のような気だるさを覚え、エルは、寝息につられてベッドの方をチラリと盗み見た。ログとセイジの間には、相変わらず一人分のスペースが空いたままだった。

 とはいえ、むさ苦しい様子も変わりないけど。

 カーペットの手触りを噛みしめつつ、エルは思わず欠伸をもらした。

 その時、横になっているログの丸められた背中から、「おい」とぶっきらぼうな声が上がった。

「とりあえず少しは寝ろ。お荷物になりたくなかったら、休める時に休んでおけ」

 ……こいつ、寝ていたんじゃなかったのか?

 お荷物になってしまうような事だけは避けなければならないし、ここで意地を張っても仕方がない気がして来た。カーペットの上で眠った後に腰を痛ませたとあっては、ログに愚痴を言われるのも目に見えている。

 エルは少し考え、渋々腰を上げた。恐る恐るログとセイジの間に滑りこんでみたが、確かにスウェンが言っていた通り、ベッドはとてもふかふかして気持ちが良かった。

 両手を腹の上に置いて、エルは天井を眺めるように横になったが、途端に高価なベッドの感触が返って気になって来た。横目にはログと、セイジの大きな身体が嫌でも映り込んで落ち着かない。

 エルはしばらく、天井のシャンデリアを眺めて過ごしていた。

 しばらくすると、両隣の静かな寝息と、その大きな背中から伝わる暖かさが、自然とエルの眠気を誘った。人に挟まれて寝るという、幼い頃に染みついてしまった安心感が次第にエルの瞼を重くした。

 エルは目を閉じながら、誰かの温もりがないと眠れなかった頃を思い出した。

 そういえば、オジサンには沢山迷惑を掛けた。一人で眠れるようになったのは、いつからだっただろう?

 縁側でオジサンの帰りを待ちながら、ポタロウとクロエと丸くなって眠った、暖かくて穏やかな昼下がりを思い起こした。ポタロウとクロエは賢い子で、オジサンが帰って来る気配を察知すると、真っ先にエルを起こしてくれたものだ。

 思い出の向こうから、ただいま、と声をかけるオジサンの声が聞こえるような気がする。お帰りなさい、と答えられる当たり前の日々が恋しかった。まだ一ヶ月も経っていないのに、随分と昔の事のようにも思えた。

 何もかも失ったエルに、「おはよう」も「おやすみなさい」も、大切な事だと教えてくれたのは、オジサンだった。


――俺は、お前本当の父親じゃないが、お前と家族になる事は出来る。ここがお前の家だ。


 事故のショックで、ほとんどの記憶をなくしてしまったあの日、エルは、オジサンの家の子になったのだ。
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