ひまわりと老人~たとえそれが、彼女の頭の中の世界だとしても~

百門一新

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 全国的な雨期が日本列島を訪れたのは、奥の部屋の老人が病院へと移った翌日からだった。重い雲が空を覆い、朝から景色が霞むほどのひどい土砂降りになった。

 バケツをひっくり返したような雨が容赦なく地上に叩きつけ、ゼンさんは柄にもなく、庭園の花が痛んでしまわないかと心配した。ミトさんが好きな花が散ってしまうのは、嫌だった。

 雨天は体調も崩れてしまう。カワさんは関節の痛みが増したので一階にある整体に通い、食事の時間になってもミトさんが降りてくることはなかった。ゼンさんも不調で倦怠感と食欲不振に加えて、頭痛と吐き気をベッドの上で堪える日々が続いた。
 その間、歯の黄色い中年看護師がゼンさんの部屋を訪れ、身体の世話と粥のような飯を食わせて薬を飲ませた。副作用が出るとしゃれにならない事態に陥る危険性がある必要最低限の薬を、とても慎重に飲ませる彼女の姿は意外だった。「ここに優しいナースがいるなんて、俺もとうとう呆けちまったかな」と思ったほどだ。

 どうやら、ひどい天気にもかかわらず施設側は大忙しのようだった。立て続けに奥の入園者たちが大病院に移され、新しい高齢者が空いたそれらの部屋に運ばれた。専門医による診察とリハビリ室も、来客した家族と新入園者で混みあった。

 ゼンさんの部屋に訪れる女看護師の主任は、けれどむっつりと黙ったまま、普段の黄色い歯も覗かせず余計な言葉は吐かなかった。彼女は珍しく覇気のない声で彼の体調を窺い、「またあとで来ますから」と残して、どしどしと部屋を出ていった。

「雨なんて、くそくらえ」

 窓も閉められた部屋で一人、ゼンさんはそうベッドの上で呻いた。

 ここ数日、カワさんが短い時間だけ訪れているが、ミトさんとは顔を合わせてもいなかった。彼女も具合が悪いのだろうか。それとも、俺を気遣っているのだろうか?
 そして何より、こちらの様子を気に掛けているようにも見える看護師の態度についても、不思議でたまらなかった。あの分厚い、真っ赤な口紅の化粧臭い女看護師は、一体何を企んでいるのだろうか? 

 最近は『部屋のフロアの女主任』や『あの女』と言うにはしっくりこず、ゼンさんとカワさんの間では、あの女看護師に『オカメ』という呼び名がついていた。

「ゼンさん、大丈夫か?い」

 午後二時を回った頃、整体を終えたカワさんがやって来た。

 カワさんはここ数日、この時間帯にちょろりと訪れては、彼の体調を考えて早々に切り上げていく日々だった。その際に一階の様子や、職員たちのことを教えてくれるのだ。

「なんだかゼンさん、また痩せたね。すごく細いのに、手なんて枝みたいだよ」
「まぁ風邪じゃないだけましさ。余計な薬は使えねぇから、俺の場合は風邪を引いてもアウトだ。今回は、肝臓の機能をカバーしてる他の臓器が、ちっとばかし無理をしたらしい」

 雨で体調が安定しないせいで、医者を部屋まで寄越されて、夜には必要な分の点滴まで受けたしまつだ。

 病気について思案していたカワさんが、ようやく思い至ったような顔をしてこう言った。

「そういえば、腎臓の機能がどうのって言っていたね」
「おぅ。歳を取ると天気の悪さが体調にもかかってくるから、厄介だな」
「うん、あっちもこっちも大忙しだよ。食堂で食べている人はほとんどいないし、配膳なんかも全部キッチンの人がやっていたくらいだから」

 カワさんは膝に負担を掛けないように心がけながら、椅子をベッドに寄せて大きな尻を詰め込んだ。両肩をすぼめ、両足の間に手を押し込む。

「僕はここ数日、ミトさんを見ていないんだ。一階には降りていないから、たぶん部屋だとは思うのだけれど……」
「体調不良かね?」
「恐らくは、そうなんじゃないかな。一人でいつも通り動いているのは僕くらいなもので、他の人は家族とか看護師が付きっきりだったよ。ゼンさんもいないから、食事もすごく寂しい」

 そう言って、カワさんはふっくらとした顔を下に向けて、子供みたいな丸い小さな目を膝へ落とした。ゼンさんはそれを見て、枕から少し頭を起こしてこう言った。

「いい歳として情けない顔するもんじゃないぜ、カワさん。天気が良くなる頃には元通りになってるさ。それで、ミトさんの様子はオカメたちに聞いてみたかい?」

 例の看護師頭の呼び名を聞いたカワさんは、すぐに首を横に振ってみせた。

「皆すごく忙しそうで、まだ尋ねてはいないんだ」
「遠慮することなんてないだろう。お前さんは高い額が支給されている年金から、俺なんて売られた家の金でここの使用料が払われているんだぜ?」

 指摘されたカワさんは、それに対しては答えないままもじもじとした。

 窓を叩きつける雨の音が、二人の間の沈黙をかき消す中、しばらくしてカワさんは、ようやく「ゼンさん」と遠慮がちに声をかけた。ゼンさんは悪意のない皺を眉間に刻んだまま、「なんだ?」と尋ね返す。

「その……僕たちがここへ来て、もう少しで七ヵ月になるだろう?」
「そうだな」
「今朝、僕は食堂で妙なことを聞いたんだ。あの電動車椅子に乗ってるお婆さん、えぇと、ほら、一週間に一回くらい食堂でご飯を食べて、週末に家族が庭園に散歩させている人なんだけど」
「ピンクの車椅子を持ち込んでいる人か?」
「うん、そう、その人」

 カワさんが「伝わって良かった」と言い、ゼンさんは思いきり顔を顰めた。

「彼女はかなり高齢だ。食っていても寝るし、移動中もこっくり寝ちまう」
「うん、痴呆もかなり進んで言葉もあやふやなんだけれど……、キッチンの人も二人しかいなくてね、僕と彼女と、別のお爺さんが三人並んで座っていたんだ。そしたら、ふと彼女が顔を上げて『今日は何日ですか?』と尋ねてきたから、僕は年月日と今の季節を教えてあげたんだ。すると『ミトさんのお友達ですか?』って訊かれて、『そうです』って答えたら、あの人、こう言ったんだよ…『彼女が来てから、もう三年が経ったのね』って」

 カワさんは、じれったそうにゼンさんを見つめ「どう思う?」と尋ねた。

 ゼンさんは枕の上の頭に手をやり、呆れたように溜息をもらした。

「考え過ぎだよ、カワさん。時間感覚があやふやで、記憶力も低下して家族の顔も看護師も見分けがつかないのに、彼女がミトさんのことを知っているってのも怪しいだろう。俺なんて、トイレに行く途中で知らない爺さんに呼びとめられて、『ナバシさん、今年も大漁ですか?』なんて言われるのも、結構ざらにあるぜ」

 するとカワさんは「そうだよね、僕の考えすぎだろうね」と、ほっと胸を撫で下ろした。ゼンさんは、やれやれ、と頭をかいた。

 こうして見ると、カワさんは爺さんというよりも随分若く見える。市の職員による視察などの場合、カワさんが部屋で食事を取らされる理由が、ゼンさんには少しだけ分かったような気がしないでもないのだった。
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