ひまわりと老人~たとえそれが、彼女の頭の中の世界だとしても~

百門一新

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 一日中泣いただけでは、体重というものは減らないらしい。早朝に関節の痛みを訴えたカワさんは、体重が増加しているため痛みがあるという結論を医者から言い渡された。
 昨日、見事な運動動作を示したせいではないのか、というゼンさんの憶測と同じことを考えている人間は、昨晩彼を廊下に押さえこんだ五人の職員と現場の目撃者たちだろう。通り過ぎる彼らが、チラリとカワさんを見ていっていた。
 
 ミトさんのいない朝食が始まった時、カワさんがサラダを箸でつついてこう言った。

「物足りないから量を増やしてとは言ったけれど……サラダの方を二人前にするなんて、聞いてないよ」

 一晩中、考え事を続けていたゼンさんは、不服そうに唇を尖らせるカワさんを見て、ようやくちょっと肩の力を抜いて笑うことが出来た。キッチンに立っていたのは、昨日彼を押さえつけた女看護師だったからだろうと思ったが、口にはしなかった。
 入園者の朝食時間は、早い時刻に設定されているというのに、その時分に一番目の来客があった。ブラックスーツの裕福そうな男性が、食堂から見える受け付けフロアの前で「出勤前に立ち寄った」という声が聞こえてきて、ゼンさんは眉間に皺を作った。

「社長出勤か。ちぇっ、くそくらえ」

 味のないサラダを口に放り込んだゼンさんを見て、その背広の男性を案内していたオカメ看護師が、途端にこちらを睨みつけてきた。カワさんが危うく「オカメ」と言いそうになったのを察知し、ゼンさんは慌ててその口を塞いだ。

「やめておけ、カワさん。あいつはどうやら地獄耳らしい」
「つまり『すこぶる耳がいい』らしい、ということ……?」

 その時、来客者と共に食堂の前を通り過ぎようとしていたオカメ看護師が、地獄耳、とゼンさんが言ったところで見事に振り返り、二人を思いきり一瞥してきた。

 カワさんはそれを見て怯え、確かに彼女は地獄耳が確かであるらしいと理解して、少しでも彼女の姿があるときは、余計なことは言わないでおこうと決心した。


 一階フロアの中央カウンターのそばには、電話ボックスが一つ置かれている。食後の薬をすませたあと、ゼンさんはその電話ボックスの前に立ち尽くしていた。


 そばで見守るカワさんは、心配そうに彼の様子を窺っている。朝食の前、入園書類のコピーを片手にゼンさんは一度電話をかけたのだが、すぐに切られてしまっていたのだ。

「ゼンさん、なんだか深刻そうな顔をしているけれど、大丈夫かい? さっきも聞きそびれたんだけどさ、一体誰に連絡を取ろうとしているの?」
「…………ずっと昔に別れた女房に引き取られていって、俺の倅だよ」
「もしかして隠し子? 愛人は何人いたの?」
「黙れ、富裕層の申し子が」

 ゼンさんは唇をへの字に押し上げると、思いきって電話を手に取った。書類のコピーを睨みつけ、慣れない番号を打って相手が電話に出るのを待った。

『はい、セトウチでございます』

 すると、ソプラノ声の女が出た。あいつの嫁だな、とゼンさんは数秒で電話を切った息子を苦々しく思った。息子のマサヨシは、彼が四十代の頃の子供だ。息子とはいえ、他の老人たちからすると、まだまだ若い四十五歳の男であるが。

 けれどゼンさんにとって、そんなことはどうでもよかった。本音を言えば、初孫が今年成人していることが些か許せないでいるけれど。

 ちっ、マサヨシが十三歳の頃は、親父の俺なんて五十四歳だったのによ。

 ゼンさんは晩婚での初婚だった。一番目の妻以外に女はおらず、その後は母の介護と仕事で、彼の人生一覧表は埋まる。

「ゼンキチと申しますが、マサヨシさんは御在宅でしょうか?」

 時間は午前七時四十分。そう言ったゼンさんが、カウンターの看護師たちの頭上にある時計を睨んでいると、電話越しに『替われ』と乱暴な声が聞こえてきた。

『一体何の用だ? もう連絡は寄こさないでくれと、さっきもそう言ったはずだ』
「ああ、十秒も聞いちゃくれなかったよな」

 ゼンさんは憮然と答えたが、電話が切られそうな予感に慌てて言葉を紡いだ。

「待て待てっ、切るんじゃない! お前、俺の家を勝手に売っておきながら」

 あ、しまった。そうじゃなくて。

 ゼンさんは心を落ち着けるべく、時間稼ぎのように咳払いをした。カワさんに背を向けると、カウンターに肘を置いて姿勢を楽にする。

『家? その話は既に決着がついただろう。こっちの親父たちがなんと言おうと、あの土地の使用権は俺にあるし、俺がすべて管理すると決まった。あんたの指図は受けない』

 マサヨシは、そう早口に捲し立てた。時間がないのだろうと察したゼンさんは、彼の声を遮るように切り出した。

「お前にしか頼めないことがあるんだ。お前が俺を憎んでいるのは、じゅうぶんに分かっているが」
『分かっているのなら電話なんてするな。俺に頼み事だって? 聞いて呆れる、あんたが俺の頼みを聞いてくれたことがあったか? 学校の行事も俺のこともそっちのけで、毎日ビールと煙草を買いに行かされた。酔っぱらうとすぐ怒鳴り散らして、母さんがやめてくれと頼んでも絶対に聞かなかった!』

 電話の向こうで、マサヨシが受話器を力強く握ったのか、ギシリと軋む鈍い音が聞こえた。

『それなのに頼み事を聞いてくれだって? 俺や母さんは、いつだってあんたの頼み事をなんでもやってきいてきたさ! いや、あんたのは頼み事なんかじゃない、いつも命令だった。ちゃんと殴る度胸もないくせに、暴言と脅し文句だけはいっちょ前だったよな、そうだろ父さん!』

 父さん、と呼ばれたのは数十年ぶりだった。

 ゼンさんは、酒に溺れた過去を思い出して胸がぐっと詰まった。しかし、言わなければならない。ゼンさんにとって、息子であるマサヨシが最後の頼みの綱だったからだ。

「…………お前が言う通りだ、俺はひどい父親だったよ。でも、聞いて欲しい。一生に一度のお願いだ。もうここから出してくれとは言わんし、それが終われば、今後一切お前には連絡もしないと約束する。だから、今週のうち一日――いや、半日でもいいから俺にくれないか。お前が望むのなら、ひどい父親だったと遺書に残してすぐにでも死んでやるから!」

 ゼンさんの必死の叫びが、フロア中に反響した。カウンターにいた看護師たちが驚いたように振り返り、カワさんが仰天した様子で目を剥く。

『…………それ、本気で言ってる……?』

 電話越しに、訝ってマサヨシが問う。ゼンさんは「本気さ」と間髪入れず答えた。

「介護していた母親も、ずいぶん前に息を引き取った。もう俺自身が、だから覚悟も出来ている。お前が直接関わりたくないのなら、代理人を立ててくれてもいい。俺たちの保護者となれる運転手を探しているんだ。今週いっぱいのうちに、ミトさんに向日葵畑を見せたい。――出来るだけ早いうちに。彼女が、移送されてしまう前に」

 電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。

 ひそひそ話しが始まったカウンターの前で、カワさんはゼンさんの袖を引っ張って「一体どんな話をしてるの、ゼンさん」と心配そうに言った。ゼンさんは動かないまま、息子からの返答を待った。

『…………『ミトさん』が誰かは知らないが……ひとまず後で詳しい話を聞く。俺はこれから会社に出勤しなくちゃならないから』
「分かった。連絡を待ってる」

 告げると同時に、ゼンさんは受話器を置いた。看護師たちがピタリと口をつぐんでフロアが静まり返り、カワさんが今にも泣き出しそうな顔で「ねぇ、ゼンさん」と尋ねた。

「一体どうなっているんだい? 僕にはよく分からないよ――」
「カワさん、三人で向日葵畑を見に行こう。俺と、カワさんと、ミトさんの三人で、一緒に」

 言われたことをすぐに理解出来なかったのか、カワさんは数秒の間を置いた。その後で少しほっとしたように、それでいて泣きそうな顔をくしゃりと崩して、空元気な笑みを浮かべた。

「そうか。ゼンさんは、そのために息子さんと連絡を取ろうとしてくれていたんだね。すごく仲が悪いと言っていたのに……」
「一晩中考えて決心したんだ。とっくの昔に縁を切ってるし、迷惑を掛けるのは承知の上だが、俺の家族は、もうマサヨシだけしかいない。向こうの親父さんたちだって絶対納得しないだろうが、いいんだ、これで全部終わりにする。俺の家族は、もう俺だけだ。元妻も母親も他界した。俺にはもう、息子だっていないと思えば、――それだけで俺の世界は完結するんだろう」

 たとえば施設の職員たちは全員敵であると、少し前まで自分が、彼ら一人一人が同じ人間として様々な感情を抱えてここで仕事に励んでいるだなんて、そんなことさえ思わなかったように。
 ミトさんが、向日葵が見られないのは残念だけれど今の生活が幸せだ、とつい最近まで微笑んで、自分たちがそれを、彼女の頭の中の作り話の設定であると気付かずに過ごしていたように。

 ゼンさんは肩をすくめると、カワさんにぎこちなく笑って見せた。

「変だよな。この長い人生の間の一番気がかりだったってのに、一晩中、一生懸命考えて決心がついたら、荷が下りたように身体が軽いんだ。少しくらいなら、素直になれそうだぜ」

 その時、カワさんが「あ」と声を上げ、ゼンさんはそちらを振り返った。

 客人の案内を終えたオカメ看護師が、向こうから大股でこちらへとやってくるのが見えた。彼女は二人の正面に立つと、開口一番にこう言った。

「カワさん、きちんとお野菜まで食べました?」
「うっ、食べました、はい……」
「ゼンさんは、薬は飲みました?」
「飲んだよ」

 問われたゼンさんは、ぶっきらぼうに言葉を返した。しばらくオカメ看護師と睨み合っていると、彼女が立派な腰に手をあてた。

「――聞こえましたけれど『一晩中考え事』ですって? 就寝時間は決まっているんです。しっかり寝てくれないと困りますよ」
「確かに、一晩中は良くなかった。でもな、八時に就寝ってどこの爺さんだよ。あの机はなんのためのものだ? 夜の読書も出来やしねぇ」
「そういえば、本はどうでした? 猫の児童文学もの、結構楽しかったんじゃありません?」

 オカメ看護師の仏頂面には悪意がない。腕を組み、じっとゼンさんを見つめている。
 ゼンさんは舌打ちすると、「足が痛いから車椅子に戻る」と言い訳してそっぽを向いて歩き出した。後ろからカワさんが慌てて彼を追うと、オカメ看護師もせっかちな様子で歩みを合わせてついてきた。

「近くに見当たらないと思ったら、車椅子を食堂に放置してこちらに来たんですか? 見過ごせないですわ」
「見過ごせ、目に留めるな、無視しろ」

 ゼンさんは目も合わさず、間髪入れずそう告げた。

 するとオカメ看護師は、隣のカワさんをジロリと見やった。

「関節痛がひどいのなら、無理にせかせかと歩かないで下さい」
「あ、すみません。ゼンさんにつられて、つい……」
「気を付けてくださいね、カワゾエさん。――あ、これ何に見えます?」

 食堂に入り、車椅子まであと三メートルの距離で問われて、ゼンさんとカワさんは立ち止まってほぼ同時に振り返った。

 憮然とした表情のオカメ看護師の手には、白いコピー用紙があった。そこにはボールペンで、不細工な生き物がいびつな荒い線で描かれていた。どうにか耳を持った動物だと判断できるくらいで、正直に言うと幼児の落書きにしか見えない。

 その手書きのイラストの下には、絵の雰囲気と正反対の達筆で、対象キャラクターの名前が記名されていた。一瞬首を傾げたカワさんの横で、すぐにゼンさんが反応し憤慨した。

「『猫のホームズ』に失礼だ」

 美人なんだぞ、と怒鳴るゼンさんの横で、カワさんは苦笑して「やっぱり素直じゃないなぁ」と一人おかしそうに呟いた。
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