ひまわりと老人~たとえそれが、彼女の頭の中の世界だとしても~

百門一新

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 マサヨシから折り返しの電話があったのは、昼を少し過ぎた頃だった。施設に連絡が入り、ゼンさんは受付の中に車椅子を押し進めて、そこで電話を取った。

『時間は短い。無駄話は避けたいんだ。まずは、事情を説明してくれないか?』

 ゼンさんは「いいだろう」と了承し、自分なりに要点をまとめて話した。

 施設で出会ったミトさんとカワさんのこと。そして、昨晩起こった出来ごとについては、あの時に聞いた医師の話を含めて特に重点的に話した。

『…………その人たちと、随分仲がいいんだね』
「ミトさんとカワさんは同い年でな、俺とは七歳違いだ。七十八歳だった頃の俺よりも断然若いんだぜ?」

 驚くよな、と続けて言ったところで、ゼンさんは我に返って後悔した。必要なことを、必要なだけ伝えることだけが求められている会話であるので、これは無駄話だと気付いた。

 そのあと話を本題に戻し、ゼンさんは「向日葵畑はここの近くにあるのか?」とマサヨシに尋ねた。

『調べる。ネットで検索すれば一発だ。父さんの希望は近い場所、それだけでいいんだね?』
「ああ、近い場所だ。運転する時間は、短い方がいいだろう。お前の時間を多くは取れない」
『……分かった。その方向で調べておく。明日休みを取ったから、父さんたちの外出許可はこっちでやっておく』

 そこで、電話は早々に切れた。

 明日の天気は晴れだ。
 ゼンさんは、それを思ってほっと胸を撫で下ろした。
  

 ミトさんとの面会は、本日の午後から出来るようになっていた。彼女は、すっかり年老いてしまっていた。世話をしているのは、もっぱらオカメ看護師で、この日も彼女がそばについていた。


「こんにちは、ミトさん」
「はい、はい、こんにちは」

 ゼンさんが気さくなに挨拶すると、ミトさんは笑顔で答えた。すっかり弛緩してしまった筋肉は、ミトさんからハキハキとしていた口調を奪ってしまっていた。

 左肩で軽く束ねられただけの髪は、オカメ看護師がやったもので、ミトさんはもう自分の髪を整える方法も忘れてしまっているらしい。

 ミトさんはベッドの上で上体を起こしただけの体勢で、ゼンさんとカワさんを迎えた。夜にあった騒ぎの出来事と、その直後の会話は何一つ覚えていないようだった。

「ふふふ、いいお天気ですねぇ」
「本当に良い天気ですよ。俺はこう見えて向日葵が好きでね。ミトさんは、好きかい?」
「好きですよ、ひまわり。とてもあたたかいお花ねぇ」

 見に行きたい、と少し前までのようには言わなかったものの、ミトさんの瞳は懐かしむように暖かく笑んでいた。

 ゼンさんは、ベッドの脇にある椅子をカワさんにすすめて、自分は窓へと歩み寄った。施設の裏側になるこちらの部屋からは、大きな丘が連なる緑の田舎町がよく見渡せた。
 カワさんは相変わらず、ミトさんの前になると両頬を染めて緊張した。それでいて、相変わらず嬉しそうに話し出すのだ。ゼンさんは、しばらくその声を聞いていた。

「ゼンキチさんは、ずいぶんと話し方がお上手ですね」

 ゼンさんが窓の外の風景を見ていると、オカメ看護師が隣に並んでそう言った。彼が顰め面で「いけないかね」と愚痴ると、彼女は「いいえ」と首を横に振った。

「ただ、少し意外でした」
「母親の介護をしていたからな」
「そう」
「ああ」

 短い会話が途切れた。すると、ミトさんの声がゼンさんを呼んだ。

「ゼンさん、ゼンさん、みて。ひまわり。カワさんがくれたのよ」

 ペンと色鉛筆で描かれた絵は、大雑把で繊細さには欠けていたものの、色の強弱は取れていて確かに向日葵に見えた。こちらに向けてその絵を見せるミトさんは、とても幸せそうで、だからゼンさんも自然と頬皺が緩んだ。

「よかったねぇ、ミトさん。とてもいい向日葵だね」

 ゼンさんが愛想の良い老人のようにそう告げると、ミトさんが嬉しそうに頷いて、カワさんが照れた様子で頭をかいた。

 そんな二人の光景を見て、ゼンさんの胸に熱いものが込み上げた。もう俺たちは、決して三人で暮らす夢を見ることは出来ないんだ、と、……そんな二週間前の日々が眩しく思えて、慌ててそのしんみりとした感情を払った。

 こんなことを考えるのは、贅沢だ。ミトさんに、失礼だ。

 そう自身の言い聞かせるゼンさんの視線の先で、カワさんが、彼女の手をそっと握り締めてこう言った。

「――ミトさん。明日、向日葵を見に行こう。僕と、ゼンさんと、ミトさんで」
「まぁ、それはうれしい」

 ミトさんの瞳が濡れて、きらきらと光った。

 五分後にゼンさんが似たような話題を出すと、彼女はそのことをすっかり忘れていて「二人はひまわりを見に行かれるんですか?」と言い、ゼンさんはが三人で行くんだよと丁寧に教えると、また同じように喜んだ。
 
 短時間の睡眠が増えていたミトさんは、ゼンさんとカワさんが話し始めて三十分ほど経つと、集中力がものの見事に切れてしまったように眠りに落ちた。

 疲れさせるのも可哀そうだと思い、二人はオカメ看護師にあとを任せて、ミトさんの部屋を出た。ミトさんの外出準備は、彼女がやってくれるらしいので心強い。

「元気そうで良かったね」

 カワさんの丸い瞳から、また、ぽろりと一粒の涙が頬を伝って落ちていった。ゼンさんは一つ頷くと、視線を前に向けたまま、彼の脂肪が厚い背中を叩いた。涙は見なかった。
 カワさんは、小さな声で「ありがとう」といって雑に涙をぬぐった。
 

 それからニ時間ほど経った午後四時過ぎ、ゼンさんは再び一階カウンターに呼び出された。息子のマサヨシから電話が入ったからだ。立ち場なしもきついので、またしても車椅子でそちらに向かった。


『少し調べたけど、そんな大規模でなければ、近くにある遊園地でもいいと思う。敷地内に向日葵園があるんだ。国道を車で飛ばせば、そこからだと一時間二十分では着く』

 マサヨシは淡々と語った。愛之丘老人施設と外出許可の件でやりとりをした際、ゼンさんの薬を持って行くことなどについては、数点注意を受けた事も明かした。

『脂っこい食べ物、塩分が強い食べ物は厳禁。朝の十時に出発だから、それまでに飲む薬はきちんと済ませること。あと、そっちの医者から言われたのは、時間が来たら絶対に忘れず薬を飲ませるように、とも忠告を受けた』
「忘れたことはねぇよ、薬を切らしちゃならん身だからな。逆に、服用をやめて無茶をすれば、いつでも死ねるぜ」

 頼みごとを聞いてくれるのであれば、お前が望めば死んでやると言った件について思い出し、ゼンさんは茶化すようにそう告げた。

 けれど息子は、そちらについては沈黙で応えた。

『…………『ミトさん』という人は、硬い食べ物は基本的に駄目だそうだ。頻繁に眠るし介護が必要だと――そういえば、話を聞いたんだけど、父さんはお婆ちゃんの介護をしていたんだって?』
「ミトさんのはまだ軽い方さ。あれくらいの介護なら俺でも出来るし、カワさんもついてる。お前にゃ迷惑をかけない。運転だけ頼む」
『――へぇ、運転だけ、ね……分かった。諸費用はこっちで持つから。じゃ、明日の朝十時にっ』

 語尾が強くなり、叩きつけるように荒々しく電話を切られてしまった。

 なんなんだ、あいつは? 俺以上に捻くれてやしないかい? ゼンさんは訝しみつつ受話器を置いた。明日の頼みごとを最後に、息子は容赦なく縁を切ってくるのだろう。けれど、それでいい。これ以上の迷惑は何一つかけられない。

 そう考え車椅子を後ろへ向けたところで、ゼンさんは顰め面のまま、ピキリと動きを止めた。真後ろにオカメ看護師が立っていたのだ。

 真っ赤な唇をへの字に曲げ、濃い化粧の顔に浮かぶオカメ看護師の仏頂面は、女を装った別の生き物に見えた。筋肉に押し上げられた脂肪は、彼女の体格を更に大きく見せている。
 それではまるで『おっさん』のよう……いや、そこまで考えるのは失礼だろう。そうだ、『おっさん』ではなく『中世的なオカメ』だ。それだとしっくりくる。

 ゼンさんは、ようやく納得して身体の強張りを解いた。

「ゼンキチさん、明日は晴れるそうで良かったですね。車椅子、どうします?」
「俺は歩ける。ゆっくり歩けばいい」
「それでは、予備の松葉杖を持たせておくことにします。カワゾエさんは回答を渋りましたので、無理やり『予備の車椅子を積む』ことに同意させましたが」

 そこで、オカメ看護師がにやりとした。

 ゼンさんは思い切り顔を顰めると、鼻から短い息を吐いて車椅子を半回転させた。

「ふん、松葉杖だって? くそくらえ、だ」

 ゼンさんは顔をオカメ看護師の方へ向けると、薄い唇の端をくいっと引き上げてそう言ってやった。彼女は仁王立ちに腕を組み、唇を歪めて挑戦的な笑みで応えてそのまま踵を返す。
 二人は、お互い背を向けて離れた。
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