ポラリス~導きの天使~

ラグーン黒波

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第二章・四人の【天使】

【第二節・緑の狩人】

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 辺り一帯を見渡せるできるだけ高い木へ登り、魔物達の動向を伺う。
 遠くには白い体毛に覆われた、四足歩行の一角獣の群れ。その中で最も大きな角を持つ、一頭のリーダーが先導して狩りや移動を行うが、人間の集落を襲ったり畑を荒らしたりもする気性の荒さ・繁殖力の強さから駆除対象となっていた。
 特に今俺が見ている群れは、一週間前に旅商人の一団を襲い、死傷者六名を出した事で狩猟者間でも危険視されている群れだ。優先して女子供や非武装の男を狙っていたとの報告を聞く限り、外見でおおよその実力を判断して弱い相手を率先して狙い、強い敵が庇いに入ったところを数で押し潰す戦術を覚えたのだろう。リーダーは元々知能の高い奴らの中でも、更に上の個体だ。野良犬程の体格で油断してはいけない。

 この日の為に仕込みは十二分にしてきたが、それでも足りないかもしれないと考えてしまう。しかし、荷物は増やせない。重くなる上に音も出る。耳が悪い・足の遅い奴ならいいが、残念なことにあいつらは目も耳も鼻も食べ物を選ぶ舌までいいと来たものだ。仕掛ける前から、気付かれないようにする勝負が始まっている、慢心は許されない。
 夜行性の奴らは朝になると、寝床を確保するために見通しの良い平地を避け、岩場や森の少し開けた場所を陣取る。今の時刻は九時。……昼まで六時間あるが、徐々に奴らは地面へ頭を下ろし、眠りについているようだ。
 まだだ。完全に群れが寝るまでまだ仕掛けるな。


 時刻は十一時。適度に水分を取りながら、集中力を切らさず観察を続ける。
 最後の一頭が眠りに落ちて、二十分は経った。そろそろ仕掛ける頃合いか。背負った矢筒から【矢じりのない鉄の矢】を一本取り出し、腰のベルトへ付けていた紙を固め作った導火線付きの球を、矢じり部分に付ける。
 球の中身は鉄粉、木粉、粉末唐辛子、火薬、不発防止の発破石一欠けらが入っており、獲物の触覚以外の五感を一時的に麻痺させる代物だ。難点としては、周囲に他の狩人がいると危険が伴うこと。至近距離での使用ができないことだ。一般的な狩猟にはまず持ち出せない。
 マッチを鑢で擦り、導火線へ火をつける。燃える速度はわざとゆっくり燃えるよう調整してあるので、じっくりと狙いを定めることができる。鉄の矢は重く癖があり、強い弦と筋力がなければ飛距離も出ない。
 矢を構え、弦をきりきりと引き絞る。まだ導火線には余裕がある。風も穏やかで悪くない。よく狙え。狙うのは一番大きな角を持つリーダーだ。あいつを先にやれれば、統率を失った群れは混乱する。

 三、二、一……――行け。

 穏やかな風を切る音を出しながら、矢は力強く飛んでいく。リーダーまでの距離は八十歩弱、軌道はやや水平から下へと落ちたが、矢は頭を地に着けて眠るリーダーの傍へ落ち――地面への着弾と同時に、炸裂した。
 強烈な音と共に、唐辛子の粉末や鉄粉が混じった煙が一瞬で広がる。中心から雄たけびが上がり、一斉に群れが起き上がる。しかし視力や嗅覚、聴覚が同時に麻痺し、口に入れば味覚でも苦しむことになる。リーダーの状況は確認できないが、仕留め切れていなくても気絶している可能性はある。
 混乱に陥った個体はもがきながら走り出し、別の個体や木へと突っ込む。倒れた個体は暴れまわる個体に踏みつけられ、ある個体は仲間の角や突進によって命を絶つ。矢一本で引き起こされた魔物達の暴走は力尽きて倒れるか、森へ逃げるように走り行方が分からなくなるかまで続いた。

 時刻は十一時八分。もがき苦しむ低い声は未だ聞こえるが、視界に立って歩く一角獣の姿はいなくなった。爆発の中心にいたリーダーの頭は半分吹き飛び、角も無くなってしまっている。
 その様子を確認し、木から静かに降りる。逃げてしまった個体も……恐らく長くはないだろう。他の魔物や植物達の糧となってもらうとして、まだ息のある倒れている個体を楽にしてやらなければ。ナイフも血脂対策に複数本用意してある。それでも足りなければ、近接用に携帯している短刀も使えばいい。

 群れまで三十歩。若干残っている刺激臭が鼻を突く。それと血の濃い臭い。数が数だけに、他の狩人にも捌くのを手伝ってもらった方がいいかもしれない。肉は食用や家畜用に、毛は衣類に、角や骨も加工すれば日用品へと姿を変える。こいつらの死は、なるべく無駄にしてやりたくない。
 群れまで二十歩。木々や茂みで視界が少し悪い。目もきつくなってきたので、用意しておいたレンズと顔の隙間がない分厚い硝子眼鏡で保護し、鼻から口元には布を巻き、なるべく気管へ入れないよう対策をする。傍から見たら怪しい格好ではあるが、狩りになりふりなど構ってはいられない。
 残り十歩で、異変に気付いた。大きな黒い毛を纏った後ろ姿が二つ、群れの中心に座り込んでいる。咀嚼音が聞こえることから、別の魔物が死体を漁りに来たらしい。太く長い腕、長い耳、毛の生えた長い尻尾……まずいな、一番出会いたくない魔物だ。
 まだこちらに気付かれていないのは幸いか、あれは一人で太刀打ちできまい。今回仕留めた一角獣達は……諦めよう。強欲や好奇心は死に近付く。引き際を弁えなければ、自分が狩られる側になってしまう。
 一歩……二歩……悟られないよう、慎重に後ろへ――

 ――何かが破裂する音と強烈な光と共に、目の前の二頭が怯みながら立ち上がる。閃光玉か? 二頭の背で隠れていたせいか、巻き込まれて俺の視力がやられることはなかった。
 姿勢を低くして状況判断する俺の頭上を、何かが飛び越えていく。大きな鉈二振りを担いだ、上裸の緑肌に禿げた頭と尖った耳……人間ではない。ゆったりとした足取りで二頭の足の腱を素早く斬り、崩れたところを左の一頭の背へ飛び乗って、そのまま両肩を鉈で斬る。
 腱まで届いたのか、腕がだらりと下がりそのままの一頭が倒れこむ。謎の狩人はそのまま首へ鉈を押し当て、一気に引くと血飛沫と断末魔が上がる。その間にもう一頭は視力が戻り、相方を斬った存在に気付いたようで、両手で掴みかかる。
 毛に覆われた魔物の顔には一つ目と黒い歯が覗く大きな口がついており、血が滴っていた。
 鉈を持った謎の狩人は、両手の鉈を振り上げる反動と共に、後ろへ宙返りをしてそれを躱す。なんて身のこなしだ。着地すると同時に魔物の目が何者かに矢で射抜かれ、雄たけびを上げながら顔を押さえる。別に射手が仲間でいるのか?
 謎の狩人はゆったりとした足取りで魔物へ近付き、鉈を首元へ当てる。

「すまんのう」

 老人のような声で一言謝罪した後、鉈で首元を一息で斬る。魔物はごぼごぼと奇妙な声を発し、喉を掻き毟るような動作をしたあとそのまま倒れこみ、動かなくなった。
 一部始終を目撃してしまった俺は、その場から動けずにいた。血にまみれた狩人がゆっくりと振り返り、ようやくはっきりと顔が見える。
 長く尖った鼻と耳、黄色の瞳に緑の肌……間違いない、【ゴブリン】だ。白い髭の生えた老ゴブリンは、こちらの姿を確認すると両手の鉈を振って血払いして腰の鞘へ戻し、手招きをする。なんだ? 敵意はないようだが……。
 どうすべきか迷っていると、背後の茂みをかき分け、もう一人のゴブリンが姿を現した。ちゃんと服を着て頭には白い布を巻き、背には弓と矢の入った矢筒を背負っている。

「な、なんです……か?」

 ようやく、喉を振り絞って声が出る。そもそもゴブリンへ人語が通じるのかもわからないが、この状況で敵対だけはしたくない。
 後ろから現れたゴブリンは俺の近くまで来ると、懐から真新しい白い布を一枚取り出した。

「酷い顔だ、これで顔でも拭くといい。あんたの弓の腕はアタシらも見てたが、見事なもんだよ」

 老婆のようなしわがれた声で、ゴブリンは俺に言う。表情は険しかったが、その口調はとても穏やかだった。

***

「爺さんお疲れ様」

「うむ、婆さんもお疲れ様。こいつら片付けたら、一度お茶にしようや」

 ゴブリンの老婆はゴブリンの老爺へ布を渡し、血に塗れた顔や身体を拭う。俺はその光景を見ながら、改めて一つ目の魔物の死体を確認する。
 無駄がない。その一言に尽きる綺麗な狩りだ。人間離れした派手な動きが一度あったものの、強引な力技ではなく、必要最低限の力のみで腱や首に狙いを定めた理想的な捌き方に、言葉をなくしてしまいそうになる。
 魔物相手に近接で挑む狩人もいないわけではないが、大抵は俺の様に危険を回避する為に弓矢や罠を仕掛け、誘い込むやり方を採用する者が多い。鍛え抜かれた兵士や魔術師でさえ、魔物相手の狩りは何が起こるかわからないのだ。それを老いたゴブリンがやってのけるなど、想像したことすら無い。
 返り血を拭き終えたゴブリンの老爺が亜麻色の上着を羽織り、傍に落ちていた玉の破片を手に持ち、俺へ近付き話しかけてくる。

「唐辛子の粉末、鉄粉、木粉、火薬……破裂音からして、発破石も仕込んどったのか。ようあの小さな球の中に全部詰めよるわい。オヌシの独学か?」

「え、あっ、はいっ!! 火薬が導火線に火を点けても爆発しないことがあったので、発破石を一欠けら入れてみたんですっ!! ……ただそれ使うと周りの狩人にも迷惑かかるので、場所を弁えて使うようにはしてます」

「結構。一人で無茶をするもんだと思っとったが、いやはや……大したもんじゃのぉ。時代の流れにはワシらもついて行けんわい。ふぉっふぉっふぉっ」

 白い髭を撫でながら陽気に笑うゴブリンの老爺は、とても先程まで巨大な魔物と対峙していた狩人と同一人物とは思えなかった。しかもこれほどの腕前……人語を理解し、二刀の鉈と弓矢のゴブリン狩猟者など、噂すら耳にしたことは無い。そもそも、街から徒歩で半刻程離れてるとはいえ、近辺にゴブリンが住んでいるなど初めて知った。
 彼らは獣人族ほど力強くはないが賢く、集団で盗賊行為をして人間へ害をなす可能性があるとして、侵略戦争時に大多数が駆逐された。今では生き残った者がぽつぽつと小さな集落を形成し、ひっそりと住んでいる程度との話だ。

「失礼ながらご老人、お二人はゴブリンと見受けられましたが……この近辺に住んでいられるのですか?」

「近いと言えば近いが……何もお前さんらへ危害を加えようと思っとらんわい。もう先の短い身、あの娘が無事に大きくなって、嫁さんが傍にいてくれれば儂はそれで良い。過去は過去、今は今じゃ」

「アタシもこの旦那と一緒に生きていければ、もう何もいらないよ。ただこうやって危険な魔物を駆除して誰かの助けになれれば、アタシらが生きている意味も少しはあるはずさ」

 老婆は転がる一角獣達の死体へ、両手を合わせて弔うような仕草を見せながら話す。老爺も続き、横たわる大きな魔物へ両手を合わせている。
 すまんのう、と言ったあの言葉。この老夫婦は悪戯に生き物を狩るのではなく、敬意を払って駆除を行っているのか。ルシとポーラ司祭が言っていた、角の生えた魔王の娘の話が頭をよぎる。もしやこの二人も……?

「ワシはマグ・ドルロス。嫁さんの名前はユグ・ドルロス。若造の名は?」

「俺は……――すみません、名前がまだ無いんです」

「……名が無いとな?」

 長い鼻を左手で擦りながら、ゴブリンの老爺――マグ・ドルロスは聞き返す。
 俺はとっさに嘘をつけるほど器用じゃない。だからといって自分から【天使】ですと、会って間もない二人へ単刀直入に切り出すのも危険なように思えた。一人一人名前があって当たり前な【地上界】の住人に怪しまれても仕方ないだろうが、本当に無いものは無いのだ。
 二人は少し顔を見合わせた後、俺に向き直りマグ・ドルロスが口を開いた。

「オヌシ、【下級天使】かの?」

「……え? どうしてそれを――あ、いえ……っ!!」

「知人に【天使】がいてのぅ。【下級天使】には名や性別が無いと話しておった」

「【天使】ってのはみんな細いと思っとったが、あんたみたいな体格のいい【天使】もいるんだねぇ。ふぇっふぇっふぇっ」

「ポール、だったか? ポラ……なんとか……名前は忘れてしまったが、白い髪の男か女かよくわからない顔の【天使】じゃったのぉ。若造は知っとるか?」

 ポーラ司祭の知り合いか? となれば……この二人は、魔王の娘の領地に住んでいる住人なのだろう。あの人と繋がりがあるというなら、信用してもよさそうだ。

「あっはっはっ……ポーラ司祭ですね。俺の上司なんですけど、あの人の知り合いなら俺の身分も隠す意味無いですね」

「そうかそうか、ポーラ君にはあの娘が世話になったからのぅ。ふむ……一先ず、この魔物達をどうにかせんとな。特にデカい魔物は運ぶのに一苦労じゃ。その体格を見込んで、手伝ってもらっても構わんか?」

「勿論です。俺も【天使】ですから」

 作業をする前に俺は両手を組み合わせ、せめて向こうでは苦しまないよう祈る。
 できれば今度は人として、無害な動物として、逞しく生きて欲しいと願う。死体はなるべく無駄にせず、取り切れない分は他の狩人に処理を手伝ってもらい、それでも残る部分は丁寧に埋葬してやる。感謝を忘れることなかれ。自分が生かされていることを忘れるなかれ。俺達が奪っている命は、俺達の都合で狩られている生き物なのだから。狩猟仲間の人間は、俺の行為を馬鹿だと笑う奴もいるが、理解してくれるいい奴もいる。
 ニーズヘルグが【堕天】したあの日。ルシやポーラ司祭の話を聞いて、俺はあの人を上司として支えていこうと思った。他の二人はわからないが、俺と同じ気持ちを抱いてくれる【天使】がいてくれて、本当に嬉しかったんだ。物静かで時々何考えてるかわからない人だけども、彼の行動力を尊敬してるし、役に立ちたい。
 だから俺も俺にできる形で示す。【狩人】として人を守り、【天使】として導いていく。それが俺の【天使】としての在り方だ。

***

「こんな地図にも無い大きな坑道があったなんて……」

「ふぉっふぉっふぉっ!! 浪漫があるじゃろう? 婆さんには理解してもらえんかったがのぅ……」

「アタシは穴蔵より、青い空の下で暮らしたいんでね。空が見えないと不安で仕方ない」

 俺とドルロス夫妻は、レールの上をゴロゴロと音をたてる、手漕ぎの連結トロッコに乗って移動している。大きな魔物は解体してしまったが、一角獣達はほぼそのまま空のトロッコに乗せることができた。動力として漕いでいるのは勿論俺だ。少し重たいが、ある程度加速がつけばそこまで力は使わない。
 目の前に二人並んで座るドルロス夫妻の和やかなやり取りを見ているが、彼らは人間の老夫婦と何も変わらない。今は亡き狂王が、何故悪戯に平和に暮らそうとする他種族や理性のある魔物達まで侵略したのか、俺にはわからない。ただ……間違っていると思うのは確かだ。

「俺……今までゴブリンにあまりいい印象なかったんですけど、今日お二人を見て自分の知識の狭さを改めて痛感しました」

「まあ、わからんでもない。ワシらゴブリンにも人間と同じように盗みを働く者もいれば、畑を耕し静かに暮らしたいと望む者もいる。世間の流れで偏見を持つことは仕方がないが、どんな種族にも個の意思があることを忘れてはいかんぞ?」

「ヴォルガード様の下で働いてたってのも大きいだろうねぇ。アタシらは生活する分には不自由がなかったし、ヴォルガード様も国民を大切にするお方で、底抜けに人が良かったから。アタシらも感化されてるところはあるよ」

 二人は俺の言葉に怒ることも無く、ゴブリンという種族を理解したうえで、考えて自分の話を聞かせてくれる。逆の立場なら……夫妻のように、こうして老後を送れているかどうか想像もできない。歳や階級を重ねれば、俺もいずれドルロス夫妻のような柔軟な思考になれるだろうか。

「漕いで貰ってすまんな、量が量だけにワシらではちと厳しい。剣捌きは衰えんでも、足腰は歳に勝てん」

「いえいえっ!! 体力と筋肉、あと肉の加工や調理だけは自信があるので、まだまだ大丈夫ですっ!!」

「ふぇっふぇっ、あんたみたいな元気な奴が【天使】をやってるとは、もったいない世の中だねぇ」

「よく言われます。それよりお二人の剣術や弓の腕前は魔……いえ、ヴォルガード氏の下で働いていた時に培ったものですか?」

 如何にもと、自信たっぷりにマグ・ドルロスは左手で髭を撫でながら答える。
 洗練された無駄のない、最適化されたあの動き。素人の俺でもただならないと感じる、過去に経験と鍛錬を積んだ者の動き方だ。閃光玉を魔物の正面から投げ、音も気配も殺して素早く正反対の場所へ回り込んだユグ・ドルロスも、優秀な射手であると思われる。この二人が特別なのかもしれないが、それほど腕が立つ兵を揃えながら最後まで己の命を代償に国民を庇おうとした、ヴォルガードという王に俺は頭が上がらない。

「ワシらは生まれも育ちもあの国で、彼には一度も手合わせで勝てた例がないのぅ。……若い頃は彼を超えたいと色々と無茶な修行をしたもんじゃが、結局最後まで超えられなかったうえ勝ち逃げされてしまったっ!! ワシは悔しいっ!! イケメンで頭もよく剣術の腕も天才的で性格も良いっ!! 国民の種族問わずモテモテじゃぞっ!? ズルいと思わんか若造っ!?」

 やや興奮気味にマグ・ドルロスは熱く語る。よほど二人は親しかったのであろうが、彼の場合は慕っていたというよりも良き好敵手として意識していたのかもしれない。鼻息を荒くする彼の隣でユグ・ドルロスは冷ややかな表情をしていた。

「アタシは衛生兵だったんだけどねぇ、隣のジジイが怪我ばっかしてくるもんだから頭が痛かったよ。結婚してからそこそこ落ち着いて、無茶苦茶しなくはなったのはいいんだけど、ヴォルガード様の話をする度にこの始末さ。理由がモテたいからだよ? あんたはこんな馬鹿みたいな男にはならないでおくれよ」

「は、はぁ……」

 その言葉を聞いてマグ・ドルロスは落ち着きを取り戻したようで、顔の汗を首から下げた布で拭い、穏やかな表情へ戻る。

「だがのぅ、ワシがどんなに馬鹿やろうとも、婆さんはちゃんと手当てをしてくれた。文句を言いつつも支えてくれる、そんなところにワシは惚れたんじゃ。ヴォルガード王には顔でも頭でも剣術でも性格でも最後まで勝てなんだが、いい嫁さんを貰った点だけならワシの勝ちじゃぞ」

「そんなんで競い合うんじゃないよみっともない。ヴォルガード様の奥様だって相当な美人さんだ。アタシと比べるだけ無駄ってもんさ」

 ユグ・ドルロスは不愛想な返事をするが、表情がにやけているところを見るにまんざらでもないらしい。
 俺には愛や恋やはまだわからないが、この二人が夫婦となった理由はなんとなくわかったような気がした。

***

 トロッコが止まったのは、建物の地下だろうか。トロッコに備え付けられたランタンが、天井の木材を照らす。天井へと続く階段の先には、出入口と思われる色味の違う正方形の大きな板がはめられており、トロッコから降りたユグ・ドルロスは少し持ち上げて板をずらす。俺とマグ・ドルロスは協力して一角獣を下ろし、階段を上った。
 階段を登りきった屋内には農機具が壁へ掛けられ、干し草を紐でまとめた四角い物体が積み上げられている。坑道の入り口もそうだったが、出入口の地上部分は農作業小屋として怪しまれたり、勝手に入られないようカモフラージュしているようだ。

「秘密基地みたいじゃろう? 流石にここは我が家ではないぞ、ふぉっふぉっふぉっ」

 マグ・ドルロスは陽気に笑いながら、一角獣を一頭抱えて小屋の外へ出ていく。俺も両脇に一頭ずつ一角獣を抱え、その後に続く。
 農作業小屋を出ると……そこは小さな村だった。蔦が外壁に絡まった建物、入口のない建物、花壇のある花に囲まれた小綺麗な建物……丘の上には立派な教会と小さな城が建てられており、ルシとポーラ司祭の言っていた場所だと気付く。
 二人を疑っていたわけではないが、実際に自分の目で見ると隠匿されていた史実は全て、【地上界】に実在するのものだと実感する。そして昨晩、ポーラ司祭がここへ訪れるから来ないかと誘ってきたことを思い出す。彼らもここにいるだろうか?

「あまり住人がいないのは少し寂しいが、ここはここで静かでいいところさ。あの手すりが付いた家が我が家だよ。一角の魔物は家の裏へ一頭ずつ並べておくれ、血抜きやら毛皮を剥いだり、まだまだやることは多いからね」

 ユグ・ドルロスはそう告げると、小屋の中へ一角獣を運び出しに入って行く。道沿いにある出入口に手すりと階段のある高床式の建物、あれが夫妻の家か。
 農作業小屋と夫妻の家との間には酒場らしき建物があり、戸の無い入口から屋内を覗くと、カウンターと酒や調味料の戸棚が奥に並んでいるのが見えた。だが、薄暗い屋内の見える範囲に店員や客はいない。
 夫妻の家裏へ行くと、地面に打ち付けられた大きめの物干しとフックの付いた太い物干し竿、石で囲った井戸が見え、その横で一角獣を横にして置くマグ・ドルロスの姿があった。

「ここに並べといてくれ。城の鉄柵門が閉まっているのを見るに、どうやら城の連中は留守にしてるようじゃな。天気もいいし、近くの街へ交易か買い物にでも行ったのかもしれん」

「ポーラ司祭も、こちらへ物価の相場や農作物について相談しに訪ねると言っていました。冷害によって街の農家が畑で育てている作物が被害を受けていて……」

 なんと? と、マグ・ドルロスは髭を撫でながら聞き返す。それについて対策も聞きに行くとも言っていたが、どうやら皆とは入れ違いになってしまったようだ。冷害対策について、先に有力な情報を得られていればいいが。

「ふーむ……他の連中に畑仕事を手伝ってもらうことはあるが、具体的な仕組みや対策はわかっておらん。畑と農園を管理しとるのは、ワシと婆さんの二人。恐らくポーラ君達も城の奴らと街へ向かっただろうし、いつ帰るかもわかったもんじゃない」

「そう……ですか。なら、畑や農園でどう冷害対策しているか、教えてもらっていいですか? 俺は畑仕事もしたことのない素人ですが……知識だけでも皆の役に立ちたいんですっ!! お願いしますっ!!」

 両脇に抱えた一角獣を下ろし、俺は彼に頭を下げて頼む。
 断られてしまったらいつもの俺なら素直に身を引くが、今は俺一人だけの為じゃない。司祭や街の皆のために頭を下げている。例え断られても、頭を下げ続けて粘るつもりでいた。しかし、俺の考えは杞憂だったようで、頭上からすぐに陽気な笑い声と返事が聞こえた。

「ふぉっふぉっふぉっ!! 頭を上げなされ若造、その心意気や良しっ!! ポーラ君の件もある、ワシらも協力させてもらおうっ!! ただし、足元のこ奴らが固くなる前に、先に処理を手伝ってもらうがの」

「はいっ!! ありがとうございますっ!!」

「なぁに、所詮老いぼれの暇潰しじゃよ。ワシが若い頃はヴォルガードも含め、誰かに頭を下げることすらできんかった。人の為に頭を下げられる若造は、あの日のワシよりも立派じゃよ」

 マグ・ドルロスはそう言いながら、ぽんぽんと俺の腰辺りを優しく叩く。彼の背が小さいのと俺の背が大きいので、肩や背中まで手が届かないのだろう。
 社交辞令かもしれないが、俺は魔王と切磋琢磨し合いながら侵略戦争を生き抜き、今尚腕が衰えない狩人に褒めてもらえて素直に嬉しかった。

「さ、婆さんがヒイヒイ言いながら持って来ておる。怒鳴られる前に続きをするとしようかの」

 小さな背中が、再び運搬作業へ戻りに歩き出す。彼はゴブリンだ。緑の肌に長く尖った耳と鼻、人間ではない。
 それでも人間よりも人間らしく、温かで力強い後ろ姿は、この歪んでいる世界を受け入れ、生きていこうとする逞しい騎士の姿に見えた。

***

 毛皮をナイフや鋏で剥ぎ、肉を肉切り包丁で解体し、付近のフックへ吊るし血抜きを行う。角は丈夫だが引っ張られる力に弱く、左右にぐらつかせて軽く力を込め引き抜く。短すぎたり、折れてしまった物は小さなナイフに、長くて綺麗なものは研いで包丁の刃に、何本かとまとめてれば家の装飾品や加工して刃物の柄、畑を耕す鍬の先端にも使える。
 全部で十三頭程だったが、三人がかりで作業すれば午前中で終わらせることができた。作業が終わり、井戸から引き上げた水で顔や手、髭に付いた血を洗い流しながらマグ・ドルロスが、横で金盥に貯めた水で刃物を洗うユグ・ドルロスへ尋ねる。

「もうそろそろ昼じゃが、【アラネア】は店に居ったかの?」

「天井に張り付いてくつろいでたよ。渓谷の遺跡まで探索して、昨日夜遅くに帰って来たんだと」

「客人が来とるのに歓迎せんわけにもいかん。起きとるなら昼飯食べつつ、土産話でも聞かせてもらおうかの」

 俺は布で顔や手を拭きながら、横でそのやり取りを聞いていた。
 天井へ張り付くとは……【アラネア】という人物も、人間ではなさそうだ。店というと、隣にあるカウンターや戸棚が屋内に見えた建物の事だろうか? 店員が不在のように見えたのも、天井にいたからか。疲れているやもしれないなか少し悪い気もしたが、好意には素直に甘えさせていただこう。

 片付けが済んだところで、夫妻と共に件の酒場と思われる建物の前まで来た。最初に覗いた時と同じく、店内は誰もいないように見える。外にも看板などは無く、テラスには木製の椅子とテーブルが設置されている。
 俺とユグ・ドルロスは入り口で立ち止まり、マグ・ドルロスが先行して建物へ入り、上を向いて天井へ叫ぶ。

「アラネアっ!! 客人が来ておるっ!! くたびれているところ悪いが、何か料理を作っておくれっ!!」

 彼の声に反応し、暗い天井から黒い影がするすると糸を垂らして頭から降りてくる。
 真っ先に目についたのは上下黒のスーツから出た、黒い毛に覆われた長い手足と革靴。背中には更に四本の足(手かもしれない)が生えており、肩から伸びる左右の腕の先には、手と四本の細い指がついている。シルクハットを被り、その下の顔はやや日に焼けた肌と整った目鼻口があり、人間と同じように思えたが、額には六つの赤い複眼がついている。
 赤い瞳に八重歯の蜘蛛男――アラネアは俺の姿を見るとにっこりと笑い、右手でシルクハットを取って逆さで踵をそろえた姿勢のまま、挨拶をし始めた。

「やあごきげんようドルロス夫妻、お二人が客人を連れてくるとは珍しい。そして、そちらの方が客人かな? 俺はアラネア。蜘蛛の魔物混じりで、趣味は冒険と料理とスーツの仕立て。どうぞよろしく」

 彼は左手を差し出して握手を求め、俺は恐る恐る建物の中に入って両手で彼の握手に応じた。逆さの相手に握手をする経験も初めてだったが、ふさふさとした毛の生えた細い手は、すっぽりと俺の両手の中に納まってしまう。指先は毛で覆われて見えないが、固く短い爪が生えているような感触がした。

「大きく力強い手だ、生まれつき細い俺にしてみれば羨ましいよ。客人の名前は?」

「あー……俺は【下級天使】でまだ名前が無くて――」

「マジか、君も【天使】かっ!! ルシとポーラ司祭以外の【天使】を、こんな近くで見れるなんて今日はツイてるなぁっ!! さあさあ、向こうのカウンター席へどうぞっ!! 一度【天使】ってどんな人達か、じっくり話を聞いてみたかったんだよー。ルシはぷらっと帰っちゃうし、ポーラ司祭もここには立ち寄ってくれないしさぁー」

 彼は喋りながら天井へと一旦消えていき、今度はカウンターの向こうへと足から降りてくる。ストンと着地した彼は、天井から吊り下げられたランタンへマッチで明かりを点けると、戸棚から陶器のコップを三つ取り出し、手押しの蛇口があるであろう場所をぽんぽんと何度か叩き、水をコップへ注ぐ。俺と夫妻はカウンター席へ座り、アラネアは水の入ったコップを俺達の前へ丁寧に置いていく。
 ユグ・ドルロス曰く、街と同様に地下水脈がこの領地の下にも通っており、そこから水を汲み上げることで生活水として利用しているとのことだった。コップに入っている水も色や汚れ、妙な臭いなども無く、透明で綺麗な水だ。

「うーん……マグさん、食材何かしら余ってない? スピカさん達に、今日の買い物で食材買ってきてって頼んでたんだった」

「ふむ? 今うちには葉野菜くらいしかないのぅ。……肉はまだ血抜き中じゃし」

「困ったなぁ、野菜だけじゃちょっと物足りない……」

 アラネアは床下の貯蔵庫を漁っているらしく、カウンターの向こうで屈んでガチャガチャと瓶のぶつかる音をたてている。食材……昼飯用に包んでおいた、猪肉は使えないだろうか? 一角獣の囮用に少し多めに持ってきてある。三、四人分はなんとか足りるだろう。
 ベルトにぶら下げている肉用鞄から臭い消しの薬草の葉で包んだ猪肉を取り出し、カウンターの上へ置く。その音に反応してアラネアは顔を上げた。

「おっと客人、これは何かな?」

「猪肉の塊です。本当は昼飯や囮用に用意していた物なんですが……よろしければ使ってください」

「そいつはいいっ、切り分けてソテーにしようかっ!! ありがたく使わせてもらうよっ!!」

 彼は礼を述べると包みから出した猪肉をまな板に乗せ、カウンターの下からナイフを取り出し、慣れた手つきでスライスしていく。背中から生えた四本の足は背後の戸棚を爪の先で器用に開け、金や青の装飾が入った皿をバランスよく持ち上げ、調理台へ四枚並べる。振り返らずして行っているが、慣れからくる経験か、それとも額の複眼で背後まで見えているのだろうか。

「まともな動物の肉か……最近は魔物肉や魚ばっかだったし、嬉しいねぇ」

「あれはあれで美味いがの。魚は干物にすれば肉以上に保存も利く。新鮮な奴なら生でもいけるしな」

 隣のドルロス夫妻も猪肉を喜んでくれているようだ。
 しかし、魚か。……俺は海や湖、川を生まれてから一度たりとも見たことが無い。記憶が正しければ、この森の向こうにある街を一つ抜ければ、【魚人族】の仕切る港町があったはずだ。侵略戦争を経て人間とは敵対関係にある彼らだが、この領地の住人達は彼らと友好、もしくは交易関係にあるのだろうと予想される。

「マグさん、魚って本でしか見たことないんですけど……美味しいんですか?」

 俺の質問に対し、驚いた様子で夫妻がこちらを見る。彼らの代わりにカウンターの向こうでアラネアが、フライパンへ油をひきながら答えてくれた。

「だよねぇ。この辺りの人間の街じゃ、魚人族の仲介無しで魚を手に入れる手段はまず無いもん。遠くからやってくる旅商人が干物を扱ってればラッキーだけど、高い金出して食べるような物でもないしなぁ。ここじゃ週二くらいでありつけるし、普段人間の街を出入りしないドルロス夫妻はわからないかも」

「アラネアさんは人間の街にお詳しいんですね」

「うん、俺みたいな魔物混じりでも受け入れてくれる街は案外多いし、顔馴染みの古物商と一緒に入ればそんなに怪しまれないしね。人間の街だけじゃない。旅や地図に無い場所、遺跡の冒険にも危険はつきものさ。いつ何が起こるかわからない。絶対の安全なんてどこにもないけど、折角親がくれた身体なんだ。いろんな場所を訪れて、死ぬまで冒険したいよ」

 趣味は冒険と言っていたが、彼は世界の偏見を恐れず、人間の街だけでなく身体能力を生かして未知の領域まで訪れる生粋の冒険家のようだ。
 俺は【天使】や【狩人】としての道を歩むことを決めた身だが、もし人間として生まれていたらと考えてしまうことはある。彼のように魔物混じりとして、もしくはドルロス夫妻のように種族そのものが違い、世界にとって受け入れられにくい側として生まれていたら? 彼らのように冒険を試みたり、信念を持った生き方をすることができただろうか。
 肉を焼く匂いが店の中を満たす。隣に座るマグ・ドルロスはカウンターに肘を乗せ、両手のひらを顔の前で合わせて、肉が次々と焼きあがる様子を見ている。ユグ・ドルロスはカウンターに置かれた調味料を吟味しているようだった。
 胡椒、胡麻、レモンの果汁、粉末唐辛子、緑の植物が描かれたラベルの瓶、それと二種類の塩。一方はラベルに岩が描かれているが、もう一方は塩とだけ書かれた青いラベルが貼られている。岩塩と……海で採れた塩だろうか? こちらも街では見ない代物だ。すごいな、ポーラ司祭に見せてあげたい。
 ユグ・ドルロスが緑の植物の描かれたラベルの瓶を手に取り、野菜を刻む段階に入ったアラネアへ尋ねる。

「初めて見る調味料があるね。どこかの街で新しく買ったのかい?」

「ああ、山葵っていう植物を擦ったものだね。味見してみてもいいけど、少しだけの方がいいよ。それすごい鼻に来るからっ!!」

 彼女は瓶のふたを開け、調味料入れの横に刺さっていた銀色のスプーンで一杯すくい、匂いを嗅いだ後口に含む。少し舌で転がすように口を動かすと、突然彼女はカウンター席から飛び上がり、鼻を抑えて声にならない声を上げながら悶絶し始めた。
 異変に気付いたマグ・ドルロスは「大丈夫かっ!?」と叫び、慌てて水の入ったコップを持って彼女の背を擦る。ユグ・ドルロスはもごもごと「鼻が……鼻がもげる」と言い続けていた。相当癖が強い調味料のようで、その光景を見た調理中のアラネアも苦笑いしている。

「俺も冗談半分で食ってエライ目に遭ったよ、鼻が取れる毒でも盛られた気分だったね。身体にはいいらしいんだけど、肉にほんの少しだけつけて食べたり、炒め物に少し混ぜたりするのがその村の風習らしい。いやぁ、世界はわからないことだらけだねっ!!」

 落ち着いたユグ・ドルロスは夫から水を受け取りごくごくと飲んでいる。辛いのか、それとも痛いのか?

「客人も一口どう? この辺りじゃ行商人へ高い金を出したって買えないよ? 大丈夫っ!! 多分死なないっ!!」

「多分?」

「多分っ!!」

 アラネアは屈託のない笑顔で、俺へ銀色に光るスプーンを一本渡す。
 多分死なない。彼はそうやって、今まで危険な場所や未知の遺跡を冒険してきたのだろう。【天使】の俺とは違う生き方だ。世界を受け入れて楽しみ、人生を謳歌している。俺は彼にはなれない――だが彼の旅した場所で得た代物を口に含むことで、彼がその時に感じた気分を味わえるかもしれない。未知の物へ触れ、冒険することは恐ろしいことだ。
 だがその程度の心構えでは、【天使】と【狩人】の両立など勤まるわけがない。
 俺は受け取ったスプーンで緑色の調味料を一杯すくい、口に含んだ。


 数秒後、俺はこの冒険に涙を流しながら悶えることを知らない。
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