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第五章・死にたがりの【天使】
【第十一節・プラネタリウム】
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ポラリスの盾は【生きた盾】だ。自身の加減次第で強度を変えられる。先程は格闘術の打撃技を完全に無力化してみせた。羽毛の如く表面が柔らかくなった盾では、自慢の拳や【鎧通し】も加減が狂う。貴様の持ち味は獣人特有の【しなやかな肉体】と【速さ】であろう。それらを棄て、正面から殴りかかるとは頭に血が上り過ぎたな、パンサー。
『行かぬとも良いのか、イシュ殿。パンサー殿とは仲睦まじ気に話していたではないか』
右隣りで瞑想の姿勢を崩さない、黒鎧に頭部の無い狂王軍の大将――――【ザガム】の声が脳内に響く。声帯を持たない身体での会話は困難なのだろうが、耳が無くとも【音】は聞こえるらしい。
「貴様はあれのどこが仲睦まじ気と感じたのだ。相手は魚人族の誇りを鼻で笑うような男だぞ? シスターが施術を行うのであれば、腕が折れようが千切れようが問題あるまい」
『そうか。如何せん、こちらは目が見えないのでな。パンサー殿やイシュ殿のように、【魔力】を持たぬ者を捉えることができん。戦況はポラリス司祭の動き方のみで判断している』
「……その状態で、よくあの戦争から十五年以上も生き残れたものだ。魔力を持たない野盗に襲われれば、まともに抵抗もできまい」
『ああ。だが、私には目や口となってくれる優秀な愛馬がいる。彼の助けが無ければ地形を把握することはおろか、移動することもままならない』
「ぶるるるぅっ、そうだともっ!! 最近ようやく主殿の声が聞こえるようになったが、それまでは俺様が色々と察して気を利かせてたんだぜェっ!?」
後方でどすどすと足踏みをし、濁った声でザガムの足となる黒い馬――――【エポナ】が騒ぎ始める。人馬が同時に【悪魔】へ転身するなど、根拠のない噂話や詩人の創作程度としか考えていなかったが、【悪魔】をも【地上界】の戦争へ参加させ利用したあの【狂王】だ。右腕とも呼べる存在に、外法の施しをしていたとしても不思議でない。
『――――憎ければ斬るがいい。私の信じた【正義】は十五年前に死んだ。今ここに居るのは【大将・ザガム】の残り香のような存在。死ぬに死にきれず、惨めに獣畜生と同等の生活を続けてきた男よ。一族の無念を果たすのであれば、今であろう』
淡々と脳内で語るこの男は魚人族を蹂躙し、逃げる人々にもあらん限りの残虐をし尽くしたザガム本人。だが……俺の目にはかつての勇猛さの欠片も無い、生ける屍にしか映らなかった。
「いずれはな。生きていると知ったからには、完全に貴様を愛馬共々殺すとも。我が魚人族の憎しみは消えず、未だ煌々と燃え続けているのだ」
『――――――』
「だが――……今の生ける屍の貴様を殺したところで、俺の両親や兄弟が生き返るわけでも無ければ、散って逝った勇敢な兵士達が満足するわけでも無い。戦場を愛馬と共に駆け、血と臓物の雨を撒き散らす【大将・ザガム】でなければ、何の意味も無いのだ」
かつての俺なら隣の男や背後の馬を寸刻みにし、原型が分からぬほどにまで痛めつけ、殺そうとしただろう。……そんなことをしてもしなくても【今は何も変わらない】。ただただ、かつての残り香を斬り殺した虚しさと、決して晴れない憎しみが残るだけだ。
「……憐れよな。今の貴様は、俺の剣で斬る価値すらない」
「なにぃっ!? この魚頭っ!! 俺様の主殿を馬鹿にするんじゃねぇやっ!! 蹴り殺して食っちまうぜぇっ!?」
『いいや、事実だ。私にはもう君しか残っていないのだから。騎士としての誇りや忠義など、首を落とした戦場で共に置いてきてしまった。残された価値など、【魔女】である彼女へ仕える程度だ』
「あの【魔女】が貴様の契約主か。もう少しまともな相手を選ぶと思っていたが……そういう趣味なのか?」
「んなわけねぇだろぉっ!? 俺様達は嫌々契約させられたんだぜっ!? あれ以来、主殿以外を背に乗せるわ、夜中に魔物の死体集めにパシられるわ、肉の一部を切り取られて実験材料にされるわぁ――――ぶるるるるるぅ……口にするだけでおぞましいぜ」
話しているうちに実験台にされた恐怖がぶり返したのか、左隣りから顔を突き出したエポナは顔をブルブルと振るう。言動もそうだが、動物が【悪魔】になったからといって知性が格段に上がる訳ではない。……逆に喧しく忙しない馬が共にいたおかげで自身が話せず、目が見えずとも狂うことが無かったのだろう。いや、生前から既に狂っている相手へ正気を求める方が間違っているか。
『今の主は以前の主と違い、我儘で気難しい。生前から戦う事しか知らぬ私には、彼女の要求する全てに応えることは不可能だ。それでいて、ベファーナ嬢は【魔女】と言えども未熟な子供。過去・未来・現在の全てが視えていようと、その裁量には【甘さ】がある』
焚火の傍で瞑想し続けていたザガムがようやくランスを手にのっそりと立ち上がり、仁王立ちしてポラリスの方へ向く。黒い鎧が焚火の明かりに反射し、あの日に見たザガムとその部隊の後ろ姿を思い出して、全身に悪寒が走った。当時は光沢のある白銀であった鎧も、今では黒ずんだ古い返り血が何層にも重なり、付着量の差による微妙な凹凸まで見て取れる。
『【英雄】へ至る為には、優しさと強さだけでは足りぬ。非情、冷徹、退路を断ち、反撃を一切許さぬ無慈悲さ。変革を求める先導者でありながら、彼に足りない物があまりに多い。理想を実現させるのであれば、時には鬼になる必要もある。狂王様や現王である【勇者】にはそれがあった。だが、彼の心には鬼の陰はあれど、それを強い自我で抑えつけている』
「ポラリスは【独裁者】ではない。……奴は奴のままで強くなると言ったのだ。貴様はまた神の手のひらで踊る戦争を繰り返すつもりか?」
『いや。だが、手のひらで踊るのを望む者もいるのが現実だ。そ奴らを蹴散らし、二度と反乱を起こさせないよう根絶やしにする必要もある。生まれながらにして他者を苦しめることでしか愉悦に浸れない者達に、改心は望めない』
「………………」
『ベファーナ嬢は矛盾している。口では諭しつつも、ポラリス司祭が変わることを彼女自身も望まず甘やかす。それだけで【英雄】は育たない。今夜彼と武勇を交え、実力が足りぬのであれば――――殺そうとも考えている』
「!?」
「ちょおっ、待ってくれよ主殿ぉっ!? 確かに司祭様はチビで軽くて甘ちゃんでよえぇけどよぉ、そこまでする必要ねぇじゃんっ!? 昔の部下の訓練みたいに、普通に叩きのめしてもっと鍛錬しろじゃダメなのかぁっ!?」
主の考えに納得がいかなかったのか、愛馬のエポナも狼狽した様子で話す。少しの間を置いて、ザガムはこちら側へ身体を向けることなく答えた。
『彼は人間ではない。諸君らが憎む、神々が創った【天使】という名の【道具】であり、生みの親をも殺せる可能性を秘めた【兵器】。どんなに振る舞いは人間に近くとも、私達は彼に情を持ってはいけない。【英雄】が【人】であってはならないのだ』
「貴様っ!! 自分が何を口走っているか理解し――――」
『――――【人】は裏切る。いともたやすく仲間を棄て、友を棄て、【無暗な力】を手に入れれば己の欲や理想の為に振るう』
「………………っ!! 都合の良い【道具】ならば裏切らないと言うのかっ!?」
『私は背を預け、共に酒を酌み交わし、幾つもの戦場を駆けた友――――【勇者】に裏切られた。王都から【魔王の国】へ辿り着くまで多くの仲間の血を流しながらも、それらを無意味だとでも言うかのように反旗を翻し、迷いの無い一太刀で首を落とされたのだ』
ザガムはランスを身体の正面で持ち、両手で力強く握り直して天へと先端を向ける。淡々と語る調子とは裏腹に、握り締める両手は震え、静かに怒りを燃やしているように見えた。
残虐な独裁者である【狂王】へ忠誠を誓い、屍の山を幾つも築き上げ、愛馬に跨り戦場を駆け抜けた男。歴史は勝者の美談として語られるが、俺が同胞の命を奪ったザガムを赦すつもりなど毛頭ないように、この男もまたどんな理由であれ、自身と主を裏切った【勇者】と【ルシ】を赦す事は無いのだ。
『ここでポラリス司祭が死ねば、悪戯に【地上界】や【天界】を掻き乱す危険因子は減る。私の命一つで世界が滅ぶのを先伸ばせるのなら、十分な理由ではないかね』
「……仮に、貴様が奴に打ち負けたのだとしたらどうするつもりだ」
『私を【生かす価値がある】と判断するのならば、そうさせてもらおう。これは乱心や破滅願望でもない。民草を裏切らぬ【英雄】に値するかどうか、見定める試練だ。――――少々長話が過ぎたな。さあ、貴殿も彼と武勇を交え、存分に鍛え上げるといい。私と私のランスは、彼の心臓を穿つ準備がとうにできている』
***
施術中のパンサーとシスターから離れ、ベファーナの応急手当で問題なく動ける程度に治療してもらい、彼女の降らす雨に濡れたイシュと向き合う。しかし、彼は構えようとはせず、こちらの存在に気付けない程に深く何かを思案していた。
「あの……イシュさん?」
「!? あ、ああ。うむ、そうだな……始めるとしよう」
「よろしくお願いします」
「その前に、一つ確認したいことがある」
「? 何でしょう」
質問しにくい内容なのかイシュは腕組みをし、俯いて口をつぐんでしまう。この状況で尋ねてきたのだ、彼なりに重要な内容なのだろう。こちらも構えず、口を開くのを待った。……やがて意を決したように腕組みを解いて、左腰へ差した剣の鞘を左手で握り、こちらを真っ直ぐと見る。
「貴様は……変わらぬまま強くなると言った。俺は誇り高き魚人族の武人として、その志を尊重しよう。だが、どんな理想にも他者が関わり続ける限り、絶対的な壁である【限界】というものが無慈悲に来る。妥協するか、超える為に更なる力を付けるか、貴様がどのような選択をするか皆目見当もつかん」
「………………」
「司祭自身の考えを今一度問おう。反旗を翻すことを許さぬ【独裁者】か、人間以外の民草をも救う【英雄】か。
【地上界】を変えるのならば、どちらかの道を辿ることになる。多くの者は後者を望むだろうが、手腕次第では慈善による行いでさえ前者のように人々の目に映ることもある。貴様はその時が訪れようとも、変わらずに在ることを貫き通せるのか?」
「はい。それに僕は【独裁者】にも、皆さんの望む【英雄】にも向いていません。人々を導く【天使】として、今と変わらず在り続けようと考えています」
「即答か。では、【限界】が来た時にはどうする? 【英雄】の代役でも立て、院政を行うか?」
「その時は……皆さんで考えましょう。完全な秩序は無理でも、限りなく近付けることは出来ますから。互いの種族を尊重し合い、手を取り合えずとも、皆にとってちょうど良い距離感で過ごせる関係構築を、一先ずは目指します。【英雄】は僕ではなくイシュさんを含め、これから世界を創る皆さんの方ですよ」
「……ふん。貴様の望む理想郷は波風少ない温暖な海の如く、さぞ穏やかで欠伸の出る世界なのだろうな」
海の例え話はよく理解できなかったが、緊張が緩んだのか、イシュの目は先程のより少し穏やかに見えた。
僕が世界を変えたいと願うのは【英雄】になる為でも、【独裁者】になる為でもない。種族の偏見と迫害を無くし、隔たり無く世界を歩き周って交流でき、共に村や街、国を築きあげ、苦難も互いに助け合い共存する世界が見たいからだ。身の丈に合わない地位や対価は望まない。理想的な【天使】像は、本来もっと無欲であるべきなのだ。しかし、僕は皆へあまりにも肩入れし過ぎて、よく【英雄】志願者と勘違いされてしまうらしい。
【英雄】は――――その世界に生きる【人】がなるべき存在だ。【天使】がどんなに人間の姿へ酷似し、感情豊かな心を持っていても、人間にはなれない。それは神々から生まれ、【天界】から降りてきた僕らがどんなに望んでも手に入らない、生まれながらにして持つ権利。泣きながら生まれ、愛する者と子を生して次の世代へ新しい命を紡ぎ、家族や友人達と共に老いて土へ還るのも、仮初めの肉体に精神を宿した【天使】には不可能な選択。
そう理解しているのにも関わらず皆を想い、自身も【人】で在りたいと願うのは……やはり僕が【天使】として歪んでいるからだ。
イシュは静かに腰を落とし、剣の柄を右手で握ると、こちらへ右足を一歩踏み出す。
「心得た。俺も今一度、貴様がそれを実現できるかどうか見定めるとしよう。盾を構えるがいい。誇り高き魚人族の【抜刀術】を見せてやろう」
彼とは二度、港町の関所で交渉の際に戦った経験はあるが、あの時とは取り巻く空気が違う。怒りに身を委ねた殺気はなく、一人の武人として僕の前へ立っている。集中し、正面に両腕を構えて【信仰の力】を解き放つ。
パンサーの格闘術は衝撃を受け流すことで【翼の盾】を割ることなく、【鎧通し】も防ぎきることが出来た。だが、剣や斧など鋭利な武器はそう簡単にはいかない。柔軟なだけでは簡単に刃が通ってしまう。ならより強固に、密度の高い【翼の盾】を――――
――――一閃。盾の後ろだというのに風が吹き、目の前を細い光が横へ走るのが見えた。盾越しに見たイシュは既に剣を鞘から抜き、白く薄い刀身を振り抜いた姿勢で止まっている。何が起こったのか分からず固まっていると、イシュは血払いしたあと鞘へゆっくりと納刀し、盾へ触れる。――――両翼を重ねていた【翼の盾】の上半分が、こちら側へずるりと落下し、足元へ音も無く落ちた。盾の半分を目で追うと瞼の上から液体が垂れるのを感じ、親指で拭う。……血?
「どれほど強固な盾や鎧にも、刃の比較的通りやすい【筋】というものがある。しかし、あくまで【通りやすい】だけであり、刃を当て完全に切断するには切れ味・力・剣速・角度――――全てを正しく満たさなければならない。貴様の生きた盾や分厚い隕石鋼であっても、切断するのは理論上可能だ。竜人族の戦士と加工技師も、これと同様の技術を持っているとされている」
「………………」
【翼の盾】を一度解き、熱を感じる額へ直接触れると横へ一筋皮膚が切れ、出血しているのだと理解する。砕かず、盾そのものを綺麗に切断されたのはイシュが初めてで、彼の語る理屈が理解できても、目の前で起こった一瞬の出来事は言葉にならなかった。
「届いたのはたった皮一枚。しかし、それが目や首、腱などの急所であったらどうなる? 砕かれた際、盾の近くの者を弾き飛ばす特性も、切断されては意味をなさない」
「……これが、魚人族の【抜刀術】ですか」
「ああ。……まぁ、かくいう俺もその域へは未だ達していない。剣の切れ味で力量を補っているのだ」
「では、イシュさんの持つその剣に秘密が?」
「ああ。海には鉄と骨で刃の鱗を作る魔物が泳いでいる。魚人族の加工技師はそいつらの血や骨、鱗、胃袋や腸に至るまで利用した。これは未熟者でも達人の感覚へ近付ける訓練用の剣として、先週試験的に一部の兵士へ支給されたものだ。持ってみるといい、ただし鞘からは抜くな」
そう念押して忠告しながら、イシュは腰から白い鞘に収まった状態の剣をこちらへ渡す。鍔と鞘に特殊な留め具が二つ付いていて、外さなければ引き抜くことができない構造になっていた。鋼の剣やアダムの【信仰の力】で作り出した黄金の剣、ティルレットのレイピアなど様々な長物を握ったことがあるが、鞘を含めてもそれらより軽い。同じ長さの木の枝が一番近い重さだろうか。
「鋼の剣を上回る切れ味を得た代償に、空気へ長く触れ過ぎると刀身が崩れ、薄く折れやすいうえに軽過ぎる。筋力の無い小柄な兵士には、使い捨ての付け焼刃として使えそうだが、【抜刀術】の訓練用としては不満しかない出来だ」
「ですが、素人目にも凄いとわかります。僕の街でも、鋭利な魔物の角を家庭用に小さなナイフや農具へと用いていますが……魚人族の加工技術は、かなり特殊な方面へ昇華しているのですね」
「呑気な感想を述べている場合か。貴様の盾は達人でなくとも、目利きの良い相手と粗悪品で簡単に無力化される事実に、もう少し危機感を覚えろ」
イシュは僕の両手から剣を取り上げ、再び腰へ差し直す。
「……強度ではなく、【筋】ですか」
「うむ」
戦いの素人には分からない次元の話で、どう解決したものか案が浮かばない。強度や柔軟性ではなく、剣筋そのものを【筋】から外そうにもイシュの剣速は速過ぎる。盾が完全に成形されるとほぼ同時に抜刀したようにも思えた。しかも片翼ではなく重なった状態の【両翼】をだ。体感速度を高めて……いや、【翼の盾】の形自体が問題なのか?
試しにいつもの【翼の盾】以外の形を成形しようと【信仰の力】を固めるが、どれも上手く形を成さず、集まっては拡散を繰り返す。……やはり素手ではいつもの盾と局所的な防御で定着させるのが精一杯か。
「苦戦しているようだネ? 【魔女】の助言が必要カナ? カナカナ?」
箒の上で逆立ちをした姿勢のまま、ベファーナが頭上へと飛んで来た。彼女の姿を見たイシュは、やや不満げに尋ねる。
「一対一の勝負ではなかったのか?」
「デモデモ~、互いに仮想敵への対抗手段を意見交換し合って良いとも言っていないヨッ!! 【魔女】は約束事にはウルサイからネ、これでオアイコサッ!! このままじゃポラリス君、ザガムに殺されちゃうシネッ!! イーヒッヒッヒッ!!」
「!?」
彼女の言葉に背後から刺すような殺気を感じ、後退りして素早く振り返る。……ザガムは変わらず、焚火の傍で瞑想し続けていた。エポナも彼の後ろをうろうろとしながら、何やら話しかけている。主と会話をしているのかもしれないが、ザガムの脳内に響く声はここまで届かない。
「会話が聞こえていたのか?」
「イヤァ? いずれ辿る【可能性の一つ】を視たのサ」
全て知っていたようなイシュの問いに応えながら、ベファーナは逆立ち状態から箒ごと半回転し、地面へ着地した。そのまま何故かツギハギ帽子の縁を引き下げ、目が隠れ鼻と口だけの顔をこちらへ見せる。
「【過去視】は既に起きてしまった事象ヲ、歴史書の目次から探す感覚で遡れば簡単に出来るガ、【未来視】はそうはいかなイ。今の時間軸を中心ニ、枝分かれした数千・数万単位の【可能性】の中を覗き視ないといけないからネ。既に確定した事象の中でならまだしモ、ウチらの立つ世界は常に確率が流転し続けていル。要は定まっていないんだネ。更に更ニィ~、より遠くの結果を覗き見るのなラ、より高度で複雑ナ――――」
「――――原理を聞いているのではないっ!! どうすればその結果を回避できるかと尋ねているっ!!」
「モー、セッカチさんだナァー。ザガムは君と同じで頭がカタイッ!! 頭は無いけどガッチガチサッ!! 戦争は出来ても戦争しか出来ないし知らなイ、歴史に置いていかれた亡霊ッ!! 裏切り者の【勇者】と【導きの天使・ルシ】を憎ミ、機会さえ与えれば必ず復讐に走るだろウッ!! 彼なりの正義を後ろ盾にしてネッ!! 女々しい男だヨッ!! 聞こえてるカ~イ~ッ!?」
ベファーナは帽子を引き上げ被り直し、大声でザガムの方を向き叫んで煽るが、彼は置物のように微動だにしなかった。契約主が種族関係なく【思考】を読めるのを分かった上で、ザガムはイシュへと語ったのだ。それだけの覚悟が既に出来ている表れか。
「ポーラ君。彼はネ、君の中にある感情を逆撫でしようとしていル。絶体絶命の危機に瀕した時、人の本性が現れるのを熟知しているかラ。だが君は幾度となく死地を彷徨イ、その感情へ頑なに抗って来タ。ナァニ、君がそう望まないのなら問題無イ。シカシダネ、経験と実力差を埋めるにハ、やはり丸腰の君の力単品だけでは差があり過ぎル」
「………………」
「そこでダッ!! 君が感じてきた記憶や累積された経験を他人へ分け与えられるようニ、自分へも分け与えては如何かネッ!?」
「えっ!?」
ベファーナはパチリと指を鳴らし、額に何かを張られた感触がして触れる。感触的にイシュが切った傷の部分へ絆創膏が貼られているらしい。
「自分自身へ分け与える……?」
「イエスッ!! 【受肉】の肉体は君の想像通り人間へ限りなく近い存在だガ、【神々が創った道具】でもアルッ!! 君自身へ【信仰の力】を流し込めたとしてモ、何ら不思議じゃナイッ!!」
「僕自身を【道具】として……なんだか屁理屈っぽい、強引なやり方のように思えるんですが――――」
「――――スッゴイ強引だネッ!! 【受肉】の限界を引き上げる行為だもノッ!! 行使し続けたら際限なく上がり続けテ、崩壊して死ぬ程度には強引サッ!! ダガシカシ、アダム君は【箱舟】の中で【偶像神】と互角に渡り合えるほどの力を見せてくれたヨ。ウチが彼のタガを外したのもあるんだけどネ。マァ、物は試しだヨッ!! 身体の外へ出すイメージではなク、内側へ押し留めてみるとイイッ!!」
それだけを言い残し、ベファーナはウィンクして再びザガムの元へ飛んで行く。腕組みをして真剣にやり取りを聞いていたイシュも、話に着いて行けなかったのか目を瞑って唸り声を出す。
僕自身を【道具】と考えて、身体から【信仰の力】を出さずに発現する。【肉体】も既に形の定まっている【物】であり、想像のしやすい対象ではあるが、まだ一度も試していない行為だ。【受肉】の肉体へどんな変化が現れるか分からない。単純な身体能力や反応速度の向上か、より強固で大きな【翼の盾】を発現できるようになるか。
「……イシュさん、少し離れて貰ってもいいですか?」
「試すのか? 俺はあの得体の知れない【魔女】を信用してはいない。正気かどうかも怪しい奴の言葉を鵜呑みにするなど……」
「僕はベファーナさんを信じます。彼女は嘘も付くし悪戯もしますが、殆どは意味がある行為でしたから」
「全部ではないのか」
「仕事の書類へ大量の落書きをされて、仕事道具を水飴や焼き菓子にされたりすることの意味が理解できます?」
「……ああ、奇天烈過ぎて理解したくもないな」
イシュは頭を左右へ振り、十数歩離れた場所まで移動して見守る。
夜空を仰ぎ、身体の中を流れる熱を持った【信仰の力】を意識する。街の人々の祈り、スピカ達の祈り、僕らの祈り――――筋肉へ、骨へ、臓器へ、血管を流れる血の一滴にまで力を浸透させていく。全身が熱くなり、身体の中から火が吹き出そうだ。視界に映る星が一つを残し、尾を引いて廻る。本来ゆっくりと動く星達の過去と未来の光景を、引き延ばして見ている感覚。
幾つもの星々は線になり、様々な色の円を夜空へ描く。――――その円の中心にある、決して動くことのない煌々と白く輝く星が一つ。天文学の知識が全くなかった新人時代、あの星が周囲の星を引き付けることで星空を形成していると考えたことがあった。だが、星が動く原理の事実は全く異なり、あの星はただその場から動かずに強く輝いているだけであった。
【ポラリス】――――決して動き重なることなく、円の中心に存在する星。【導きの天使・ルシ】がどのような意味を込め僕にこの名前を付けたのか、この光景を見てようやく理解できた。
変わり続ける世界に、一切変わることのない存在が身近にあるだけで、この奇怪な状況でも取り乱さず落ち着いて考えられる。静かに瞼を閉じて猛る熱を自分の熱で冷まし、溶け合わせる。壊すことなく、決して崩れることのない、守る為だけの力。僕が望むのは、皆が穏やかに過ごせる未来だけだ。
熱が落ち着くのを感じ、瞼を開ける。夜空は元に戻っておらず、先程と同じ星が円を描いている光景だったが、僕の周囲にも変化があった。光り輝くいくつもの細かな白い粒子がゆったりと漂い、掴み取ろうと手を伸ばすと離れ、手を引くと近付き、付かず離れずの距離を保ち続ける。見守っていたイシュが驚いた表情をしているのを見るに、僕だけが見えている幻覚ではないようだ。
「……ポラリス司祭、その光はなんだ? 貴様自身に何か異常はないのか?」
「異常と呼べる程かわかりませんが、身体の周りを光が漂っているのが見えます。あと……夜空の星が、おかしなふうに見えています」
「夜空の星? ……いや、俺には変化がわからん。貴様だけが見えている光景だろう。他には?」
イシュも夜空を見上げ目を細めるが、夜空に変化がない事を伝える。他に変化が無いか軽く跳ね、頬や腕を抓ったり、足元の小石を拾い上げ握り潰せるか試みたり、遠くへ投げれるかどうかも実行してみるも……身体能力にも大きな変化は無い。もしやこれは――――失敗か? この状態で【翼の盾】を出すのは――――
「――――えっ!?」
「むっ!?」
【翼の盾】の代わりに現れ、右手へ握られたのは十字架の形を模した半透明な剣。刃の無い細い刀身。鞘に収まっているわけでも無く、柄の部分を握ると人肌程度の熱と、よく手に馴染む感覚がする。……そうか。この剣は――――
「――――イシュさん。もう一度、【抜刀術】でのお手合わせをお願いできますか」
「構わないが……その十字架で受けるつもりならやめておけ。材質がなんであれ、細く芯の無い刀身で受けるのは無理だ。仮に刀身側が無事だとしても、貴様の方が俺の力に力負けするぞ」
「大丈夫です。これは恐らく、僕の願いそのもの。折れも負けもしません」
腰を落とし、イシュが先程とっていた【抜刀術】の体勢を見様見真似で再現する。イシュも腑には落ちていない様子だが、一息吐いて抜刀体勢をとった。彼の鋭い目はこちらの頭へ狙いを定めており、この距離では受けられなければ、間違いなく首を刎ねられる。
夏風、虫の音、遠くで焚火が爆ぜる音。抜刀――――彼の刀身が僅かに出た刹那、漂うだけであった光が一筋の赤い光へと変わり、剣筋の予測線がこちらの首へ光が続く。少し遅れて十字架の先端から青い光が伸び、曲線を描いて赤い光を遮るようにして交わった。これが攻撃を防ぐ唯一の剣筋であることは間違い無いが、身体がいつも以上に重たく感じ、歯を食いしばって腕を振り抜く。
身体の反応速度だけが極限にまで高められ、追いついていない身体能力が限界だと悲鳴を上げる。十字架の先端が青い光の筋を通ると離れていき、周囲を漂う光へと戻る。光の先端へ近付いていく程、時間の流れは加速し、風と音が戻ってくる――――
――――金属のぶつかり合う高い音が響く。振り抜かれた十字架の刀身は目の前の白い刀身を受け止め、折れも砕けもせず互いに静止していた。
「……見事だっ!!」
「……ありがとうございま――――げっほげほっ!?」
イシュが刃を離すと同時に、呼吸が数分止まっていたかのように咳き込む。痛みや手の痺れはないが、重く圧し掛かる疲労感が遅れてやってくる。立っていられなくはないが、一度でこれだけ負荷がかかるのだ。四度、五度と繰り返せば、気絶するか動けなくなってしまう。単純に――――
「――――鍛錬不足だろうな」
納刀したイシュが腕組みをし、呆れた表情でこちらを見る。
「……ですよね」
「だが、まぐれで見切れたわけでも無い。この粗悪品を折らず切断も許さず、刃こぼれ一つさせずに受けるのは俺でも難しい。これを理由無く偶然と言われたら、魚人族の名折れだ」
「魚人族の技術結晶であるその剣を、【折りたくない】と思ったんです。僕の【信仰の力】は人を直接傷付けることは出来ません。ですがそれは、僕自身が【傷付けることを望まない】から。この十字架も同じです。折れず壊れず崩さず、全てを受け止め、守る為に振るう力。盾と違い、こちらからも振るわなければならないので……」
「ふっ、大きな盾へ頼り過ぎたのが、仇になって返って来ているわけか。なんともお粗末で不完全な力だ」
「ですが、どういった力なのかは明確になりました。お手合わせありがとうございます、イシュさん」
「礼を言うにはまだ早い」
頭を下げる前に手を出して止められ、漂う光越しに次の相手であるザガムの方を見る。彼は瞑想を止め、ランスを片手にゆっくりとこちらへ歩いて来ていた。ランスの先端からは赤い光の筋がうっすらと複数本、僕の胸辺りへ伸び続けており、可視化された殺気とはこのことなのかと身震いする。
「恐ろしいか?」と、察したイシュが尋ねる。
「戦いは……いつだって怖いですよ。痛いですし、相手も傷付きますし、敵うかどうかも分からない存在を前に手足が震えます。避けられるならしたくないのが本音です。ですが……僕が死んでも、ザガムさんが死んでも、悲しむ方はいますから……頑張って受け止めようと思います」
「……武運を祈る」
一言だけを残し、イシュは焚火の傍でくつろぐベファーナと、不安げに見つめるエポナの元とへ歩きだす。途中、ザガムとすれ違ったが立ち止まらず、言葉は交わさなかった。――――十数秒後。腕や足、指先からも赤い光を放つザガムが、僕の前で仁王立ちする。
『話は聞いているだろう? 主の友であろうとも、加減はしない。神を仕留めた時のように、殺すつもりで来るといい』
「……僕は【英雄】にも、【独裁者】にもなりません。ですがここで死ぬつもりも、あなたを殺すつもりもありません。あなたを含めた人々を導く【天使】の使命を、僕はこれからも全うします」
『要求を全てを拒むか。司祭は甘い。この世界の憎しみの連鎖は相手を殺し、力で抑えつけることでしか断ち切れん。慈悲で見逃そうとも、君の前へ幾度となく立ち塞がる。私も君も、この世界において排斥されるか、排斥する側にしか成れん。穏やかな理想郷とは強大な力と覆せない変革、そして民草が目を輝かせ憧れ賛美する、【人ならざる英雄】が揃い初めて成り立つのだ』
「……それでは繰り返すだけです。人々を妄信させ、自分達で考えるのを放棄させるのは幸福とは言えません」
ザガムはランスをギリギリと握り締め、腰を落として構える。【大型機神】を叩き落とした時のように鎧から刺々しい針が生え、ランスは螺旋状へと変形し、全身から伸びた光の筋は赤い渦を巻き始めた。
『――土壌を汚染する余計な芽は、摘まれねばなるまい』
首と胸がひりつく。濃い赤黒い魔力が混じった十字架を、正面へ構える。先端からゆっくりと伸びた無数の青い光は、赤い光を全て遮る形で交わった。拒むことのできない、溢れ出たザガムの力と共に感情が流れ込む。
憎しみ、怒り、絶望、そして――……そして、強い哀しみ。彼の言葉・思考を理解した時、自然と目が潤み、涙が出た。ザガムの背後に広がる夜空の円は歪み、ぼやける――――だが、円の中心に輝く星は、変わらずにそこに在った。心を落ち着かせ、周囲を取り巻く血生臭い空気を吸い、ゆっくりと吐く。僕の身体に、彼の赤い光は届いていない。
「僕達の芽は……摘ませない――――あなたの為にも……っ!!」
『行かぬとも良いのか、イシュ殿。パンサー殿とは仲睦まじ気に話していたではないか』
右隣りで瞑想の姿勢を崩さない、黒鎧に頭部の無い狂王軍の大将――――【ザガム】の声が脳内に響く。声帯を持たない身体での会話は困難なのだろうが、耳が無くとも【音】は聞こえるらしい。
「貴様はあれのどこが仲睦まじ気と感じたのだ。相手は魚人族の誇りを鼻で笑うような男だぞ? シスターが施術を行うのであれば、腕が折れようが千切れようが問題あるまい」
『そうか。如何せん、こちらは目が見えないのでな。パンサー殿やイシュ殿のように、【魔力】を持たぬ者を捉えることができん。戦況はポラリス司祭の動き方のみで判断している』
「……その状態で、よくあの戦争から十五年以上も生き残れたものだ。魔力を持たない野盗に襲われれば、まともに抵抗もできまい」
『ああ。だが、私には目や口となってくれる優秀な愛馬がいる。彼の助けが無ければ地形を把握することはおろか、移動することもままならない』
「ぶるるるぅっ、そうだともっ!! 最近ようやく主殿の声が聞こえるようになったが、それまでは俺様が色々と察して気を利かせてたんだぜェっ!?」
後方でどすどすと足踏みをし、濁った声でザガムの足となる黒い馬――――【エポナ】が騒ぎ始める。人馬が同時に【悪魔】へ転身するなど、根拠のない噂話や詩人の創作程度としか考えていなかったが、【悪魔】をも【地上界】の戦争へ参加させ利用したあの【狂王】だ。右腕とも呼べる存在に、外法の施しをしていたとしても不思議でない。
『――――憎ければ斬るがいい。私の信じた【正義】は十五年前に死んだ。今ここに居るのは【大将・ザガム】の残り香のような存在。死ぬに死にきれず、惨めに獣畜生と同等の生活を続けてきた男よ。一族の無念を果たすのであれば、今であろう』
淡々と脳内で語るこの男は魚人族を蹂躙し、逃げる人々にもあらん限りの残虐をし尽くしたザガム本人。だが……俺の目にはかつての勇猛さの欠片も無い、生ける屍にしか映らなかった。
「いずれはな。生きていると知ったからには、完全に貴様を愛馬共々殺すとも。我が魚人族の憎しみは消えず、未だ煌々と燃え続けているのだ」
『――――――』
「だが――……今の生ける屍の貴様を殺したところで、俺の両親や兄弟が生き返るわけでも無ければ、散って逝った勇敢な兵士達が満足するわけでも無い。戦場を愛馬と共に駆け、血と臓物の雨を撒き散らす【大将・ザガム】でなければ、何の意味も無いのだ」
かつての俺なら隣の男や背後の馬を寸刻みにし、原型が分からぬほどにまで痛めつけ、殺そうとしただろう。……そんなことをしてもしなくても【今は何も変わらない】。ただただ、かつての残り香を斬り殺した虚しさと、決して晴れない憎しみが残るだけだ。
「……憐れよな。今の貴様は、俺の剣で斬る価値すらない」
「なにぃっ!? この魚頭っ!! 俺様の主殿を馬鹿にするんじゃねぇやっ!! 蹴り殺して食っちまうぜぇっ!?」
『いいや、事実だ。私にはもう君しか残っていないのだから。騎士としての誇りや忠義など、首を落とした戦場で共に置いてきてしまった。残された価値など、【魔女】である彼女へ仕える程度だ』
「あの【魔女】が貴様の契約主か。もう少しまともな相手を選ぶと思っていたが……そういう趣味なのか?」
「んなわけねぇだろぉっ!? 俺様達は嫌々契約させられたんだぜっ!? あれ以来、主殿以外を背に乗せるわ、夜中に魔物の死体集めにパシられるわ、肉の一部を切り取られて実験材料にされるわぁ――――ぶるるるるるぅ……口にするだけでおぞましいぜ」
話しているうちに実験台にされた恐怖がぶり返したのか、左隣りから顔を突き出したエポナは顔をブルブルと振るう。言動もそうだが、動物が【悪魔】になったからといって知性が格段に上がる訳ではない。……逆に喧しく忙しない馬が共にいたおかげで自身が話せず、目が見えずとも狂うことが無かったのだろう。いや、生前から既に狂っている相手へ正気を求める方が間違っているか。
『今の主は以前の主と違い、我儘で気難しい。生前から戦う事しか知らぬ私には、彼女の要求する全てに応えることは不可能だ。それでいて、ベファーナ嬢は【魔女】と言えども未熟な子供。過去・未来・現在の全てが視えていようと、その裁量には【甘さ】がある』
焚火の傍で瞑想し続けていたザガムがようやくランスを手にのっそりと立ち上がり、仁王立ちしてポラリスの方へ向く。黒い鎧が焚火の明かりに反射し、あの日に見たザガムとその部隊の後ろ姿を思い出して、全身に悪寒が走った。当時は光沢のある白銀であった鎧も、今では黒ずんだ古い返り血が何層にも重なり、付着量の差による微妙な凹凸まで見て取れる。
『【英雄】へ至る為には、優しさと強さだけでは足りぬ。非情、冷徹、退路を断ち、反撃を一切許さぬ無慈悲さ。変革を求める先導者でありながら、彼に足りない物があまりに多い。理想を実現させるのであれば、時には鬼になる必要もある。狂王様や現王である【勇者】にはそれがあった。だが、彼の心には鬼の陰はあれど、それを強い自我で抑えつけている』
「ポラリスは【独裁者】ではない。……奴は奴のままで強くなると言ったのだ。貴様はまた神の手のひらで踊る戦争を繰り返すつもりか?」
『いや。だが、手のひらで踊るのを望む者もいるのが現実だ。そ奴らを蹴散らし、二度と反乱を起こさせないよう根絶やしにする必要もある。生まれながらにして他者を苦しめることでしか愉悦に浸れない者達に、改心は望めない』
「………………」
『ベファーナ嬢は矛盾している。口では諭しつつも、ポラリス司祭が変わることを彼女自身も望まず甘やかす。それだけで【英雄】は育たない。今夜彼と武勇を交え、実力が足りぬのであれば――――殺そうとも考えている』
「!?」
「ちょおっ、待ってくれよ主殿ぉっ!? 確かに司祭様はチビで軽くて甘ちゃんでよえぇけどよぉ、そこまでする必要ねぇじゃんっ!? 昔の部下の訓練みたいに、普通に叩きのめしてもっと鍛錬しろじゃダメなのかぁっ!?」
主の考えに納得がいかなかったのか、愛馬のエポナも狼狽した様子で話す。少しの間を置いて、ザガムはこちら側へ身体を向けることなく答えた。
『彼は人間ではない。諸君らが憎む、神々が創った【天使】という名の【道具】であり、生みの親をも殺せる可能性を秘めた【兵器】。どんなに振る舞いは人間に近くとも、私達は彼に情を持ってはいけない。【英雄】が【人】であってはならないのだ』
「貴様っ!! 自分が何を口走っているか理解し――――」
『――――【人】は裏切る。いともたやすく仲間を棄て、友を棄て、【無暗な力】を手に入れれば己の欲や理想の為に振るう』
「………………っ!! 都合の良い【道具】ならば裏切らないと言うのかっ!?」
『私は背を預け、共に酒を酌み交わし、幾つもの戦場を駆けた友――――【勇者】に裏切られた。王都から【魔王の国】へ辿り着くまで多くの仲間の血を流しながらも、それらを無意味だとでも言うかのように反旗を翻し、迷いの無い一太刀で首を落とされたのだ』
ザガムはランスを身体の正面で持ち、両手で力強く握り直して天へと先端を向ける。淡々と語る調子とは裏腹に、握り締める両手は震え、静かに怒りを燃やしているように見えた。
残虐な独裁者である【狂王】へ忠誠を誓い、屍の山を幾つも築き上げ、愛馬に跨り戦場を駆け抜けた男。歴史は勝者の美談として語られるが、俺が同胞の命を奪ったザガムを赦すつもりなど毛頭ないように、この男もまたどんな理由であれ、自身と主を裏切った【勇者】と【ルシ】を赦す事は無いのだ。
『ここでポラリス司祭が死ねば、悪戯に【地上界】や【天界】を掻き乱す危険因子は減る。私の命一つで世界が滅ぶのを先伸ばせるのなら、十分な理由ではないかね』
「……仮に、貴様が奴に打ち負けたのだとしたらどうするつもりだ」
『私を【生かす価値がある】と判断するのならば、そうさせてもらおう。これは乱心や破滅願望でもない。民草を裏切らぬ【英雄】に値するかどうか、見定める試練だ。――――少々長話が過ぎたな。さあ、貴殿も彼と武勇を交え、存分に鍛え上げるといい。私と私のランスは、彼の心臓を穿つ準備がとうにできている』
***
施術中のパンサーとシスターから離れ、ベファーナの応急手当で問題なく動ける程度に治療してもらい、彼女の降らす雨に濡れたイシュと向き合う。しかし、彼は構えようとはせず、こちらの存在に気付けない程に深く何かを思案していた。
「あの……イシュさん?」
「!? あ、ああ。うむ、そうだな……始めるとしよう」
「よろしくお願いします」
「その前に、一つ確認したいことがある」
「? 何でしょう」
質問しにくい内容なのかイシュは腕組みをし、俯いて口をつぐんでしまう。この状況で尋ねてきたのだ、彼なりに重要な内容なのだろう。こちらも構えず、口を開くのを待った。……やがて意を決したように腕組みを解いて、左腰へ差した剣の鞘を左手で握り、こちらを真っ直ぐと見る。
「貴様は……変わらぬまま強くなると言った。俺は誇り高き魚人族の武人として、その志を尊重しよう。だが、どんな理想にも他者が関わり続ける限り、絶対的な壁である【限界】というものが無慈悲に来る。妥協するか、超える為に更なる力を付けるか、貴様がどのような選択をするか皆目見当もつかん」
「………………」
「司祭自身の考えを今一度問おう。反旗を翻すことを許さぬ【独裁者】か、人間以外の民草をも救う【英雄】か。
【地上界】を変えるのならば、どちらかの道を辿ることになる。多くの者は後者を望むだろうが、手腕次第では慈善による行いでさえ前者のように人々の目に映ることもある。貴様はその時が訪れようとも、変わらずに在ることを貫き通せるのか?」
「はい。それに僕は【独裁者】にも、皆さんの望む【英雄】にも向いていません。人々を導く【天使】として、今と変わらず在り続けようと考えています」
「即答か。では、【限界】が来た時にはどうする? 【英雄】の代役でも立て、院政を行うか?」
「その時は……皆さんで考えましょう。完全な秩序は無理でも、限りなく近付けることは出来ますから。互いの種族を尊重し合い、手を取り合えずとも、皆にとってちょうど良い距離感で過ごせる関係構築を、一先ずは目指します。【英雄】は僕ではなくイシュさんを含め、これから世界を創る皆さんの方ですよ」
「……ふん。貴様の望む理想郷は波風少ない温暖な海の如く、さぞ穏やかで欠伸の出る世界なのだろうな」
海の例え話はよく理解できなかったが、緊張が緩んだのか、イシュの目は先程のより少し穏やかに見えた。
僕が世界を変えたいと願うのは【英雄】になる為でも、【独裁者】になる為でもない。種族の偏見と迫害を無くし、隔たり無く世界を歩き周って交流でき、共に村や街、国を築きあげ、苦難も互いに助け合い共存する世界が見たいからだ。身の丈に合わない地位や対価は望まない。理想的な【天使】像は、本来もっと無欲であるべきなのだ。しかし、僕は皆へあまりにも肩入れし過ぎて、よく【英雄】志願者と勘違いされてしまうらしい。
【英雄】は――――その世界に生きる【人】がなるべき存在だ。【天使】がどんなに人間の姿へ酷似し、感情豊かな心を持っていても、人間にはなれない。それは神々から生まれ、【天界】から降りてきた僕らがどんなに望んでも手に入らない、生まれながらにして持つ権利。泣きながら生まれ、愛する者と子を生して次の世代へ新しい命を紡ぎ、家族や友人達と共に老いて土へ還るのも、仮初めの肉体に精神を宿した【天使】には不可能な選択。
そう理解しているのにも関わらず皆を想い、自身も【人】で在りたいと願うのは……やはり僕が【天使】として歪んでいるからだ。
イシュは静かに腰を落とし、剣の柄を右手で握ると、こちらへ右足を一歩踏み出す。
「心得た。俺も今一度、貴様がそれを実現できるかどうか見定めるとしよう。盾を構えるがいい。誇り高き魚人族の【抜刀術】を見せてやろう」
彼とは二度、港町の関所で交渉の際に戦った経験はあるが、あの時とは取り巻く空気が違う。怒りに身を委ねた殺気はなく、一人の武人として僕の前へ立っている。集中し、正面に両腕を構えて【信仰の力】を解き放つ。
パンサーの格闘術は衝撃を受け流すことで【翼の盾】を割ることなく、【鎧通し】も防ぎきることが出来た。だが、剣や斧など鋭利な武器はそう簡単にはいかない。柔軟なだけでは簡単に刃が通ってしまう。ならより強固に、密度の高い【翼の盾】を――――
――――一閃。盾の後ろだというのに風が吹き、目の前を細い光が横へ走るのが見えた。盾越しに見たイシュは既に剣を鞘から抜き、白く薄い刀身を振り抜いた姿勢で止まっている。何が起こったのか分からず固まっていると、イシュは血払いしたあと鞘へゆっくりと納刀し、盾へ触れる。――――両翼を重ねていた【翼の盾】の上半分が、こちら側へずるりと落下し、足元へ音も無く落ちた。盾の半分を目で追うと瞼の上から液体が垂れるのを感じ、親指で拭う。……血?
「どれほど強固な盾や鎧にも、刃の比較的通りやすい【筋】というものがある。しかし、あくまで【通りやすい】だけであり、刃を当て完全に切断するには切れ味・力・剣速・角度――――全てを正しく満たさなければならない。貴様の生きた盾や分厚い隕石鋼であっても、切断するのは理論上可能だ。竜人族の戦士と加工技師も、これと同様の技術を持っているとされている」
「………………」
【翼の盾】を一度解き、熱を感じる額へ直接触れると横へ一筋皮膚が切れ、出血しているのだと理解する。砕かず、盾そのものを綺麗に切断されたのはイシュが初めてで、彼の語る理屈が理解できても、目の前で起こった一瞬の出来事は言葉にならなかった。
「届いたのはたった皮一枚。しかし、それが目や首、腱などの急所であったらどうなる? 砕かれた際、盾の近くの者を弾き飛ばす特性も、切断されては意味をなさない」
「……これが、魚人族の【抜刀術】ですか」
「ああ。……まぁ、かくいう俺もその域へは未だ達していない。剣の切れ味で力量を補っているのだ」
「では、イシュさんの持つその剣に秘密が?」
「ああ。海には鉄と骨で刃の鱗を作る魔物が泳いでいる。魚人族の加工技師はそいつらの血や骨、鱗、胃袋や腸に至るまで利用した。これは未熟者でも達人の感覚へ近付ける訓練用の剣として、先週試験的に一部の兵士へ支給されたものだ。持ってみるといい、ただし鞘からは抜くな」
そう念押して忠告しながら、イシュは腰から白い鞘に収まった状態の剣をこちらへ渡す。鍔と鞘に特殊な留め具が二つ付いていて、外さなければ引き抜くことができない構造になっていた。鋼の剣やアダムの【信仰の力】で作り出した黄金の剣、ティルレットのレイピアなど様々な長物を握ったことがあるが、鞘を含めてもそれらより軽い。同じ長さの木の枝が一番近い重さだろうか。
「鋼の剣を上回る切れ味を得た代償に、空気へ長く触れ過ぎると刀身が崩れ、薄く折れやすいうえに軽過ぎる。筋力の無い小柄な兵士には、使い捨ての付け焼刃として使えそうだが、【抜刀術】の訓練用としては不満しかない出来だ」
「ですが、素人目にも凄いとわかります。僕の街でも、鋭利な魔物の角を家庭用に小さなナイフや農具へと用いていますが……魚人族の加工技術は、かなり特殊な方面へ昇華しているのですね」
「呑気な感想を述べている場合か。貴様の盾は達人でなくとも、目利きの良い相手と粗悪品で簡単に無力化される事実に、もう少し危機感を覚えろ」
イシュは僕の両手から剣を取り上げ、再び腰へ差し直す。
「……強度ではなく、【筋】ですか」
「うむ」
戦いの素人には分からない次元の話で、どう解決したものか案が浮かばない。強度や柔軟性ではなく、剣筋そのものを【筋】から外そうにもイシュの剣速は速過ぎる。盾が完全に成形されるとほぼ同時に抜刀したようにも思えた。しかも片翼ではなく重なった状態の【両翼】をだ。体感速度を高めて……いや、【翼の盾】の形自体が問題なのか?
試しにいつもの【翼の盾】以外の形を成形しようと【信仰の力】を固めるが、どれも上手く形を成さず、集まっては拡散を繰り返す。……やはり素手ではいつもの盾と局所的な防御で定着させるのが精一杯か。
「苦戦しているようだネ? 【魔女】の助言が必要カナ? カナカナ?」
箒の上で逆立ちをした姿勢のまま、ベファーナが頭上へと飛んで来た。彼女の姿を見たイシュは、やや不満げに尋ねる。
「一対一の勝負ではなかったのか?」
「デモデモ~、互いに仮想敵への対抗手段を意見交換し合って良いとも言っていないヨッ!! 【魔女】は約束事にはウルサイからネ、これでオアイコサッ!! このままじゃポラリス君、ザガムに殺されちゃうシネッ!! イーヒッヒッヒッ!!」
「!?」
彼女の言葉に背後から刺すような殺気を感じ、後退りして素早く振り返る。……ザガムは変わらず、焚火の傍で瞑想し続けていた。エポナも彼の後ろをうろうろとしながら、何やら話しかけている。主と会話をしているのかもしれないが、ザガムの脳内に響く声はここまで届かない。
「会話が聞こえていたのか?」
「イヤァ? いずれ辿る【可能性の一つ】を視たのサ」
全て知っていたようなイシュの問いに応えながら、ベファーナは逆立ち状態から箒ごと半回転し、地面へ着地した。そのまま何故かツギハギ帽子の縁を引き下げ、目が隠れ鼻と口だけの顔をこちらへ見せる。
「【過去視】は既に起きてしまった事象ヲ、歴史書の目次から探す感覚で遡れば簡単に出来るガ、【未来視】はそうはいかなイ。今の時間軸を中心ニ、枝分かれした数千・数万単位の【可能性】の中を覗き視ないといけないからネ。既に確定した事象の中でならまだしモ、ウチらの立つ世界は常に確率が流転し続けていル。要は定まっていないんだネ。更に更ニィ~、より遠くの結果を覗き見るのなラ、より高度で複雑ナ――――」
「――――原理を聞いているのではないっ!! どうすればその結果を回避できるかと尋ねているっ!!」
「モー、セッカチさんだナァー。ザガムは君と同じで頭がカタイッ!! 頭は無いけどガッチガチサッ!! 戦争は出来ても戦争しか出来ないし知らなイ、歴史に置いていかれた亡霊ッ!! 裏切り者の【勇者】と【導きの天使・ルシ】を憎ミ、機会さえ与えれば必ず復讐に走るだろウッ!! 彼なりの正義を後ろ盾にしてネッ!! 女々しい男だヨッ!! 聞こえてるカ~イ~ッ!?」
ベファーナは帽子を引き上げ被り直し、大声でザガムの方を向き叫んで煽るが、彼は置物のように微動だにしなかった。契約主が種族関係なく【思考】を読めるのを分かった上で、ザガムはイシュへと語ったのだ。それだけの覚悟が既に出来ている表れか。
「ポーラ君。彼はネ、君の中にある感情を逆撫でしようとしていル。絶体絶命の危機に瀕した時、人の本性が現れるのを熟知しているかラ。だが君は幾度となく死地を彷徨イ、その感情へ頑なに抗って来タ。ナァニ、君がそう望まないのなら問題無イ。シカシダネ、経験と実力差を埋めるにハ、やはり丸腰の君の力単品だけでは差があり過ぎル」
「………………」
「そこでダッ!! 君が感じてきた記憶や累積された経験を他人へ分け与えられるようニ、自分へも分け与えては如何かネッ!?」
「えっ!?」
ベファーナはパチリと指を鳴らし、額に何かを張られた感触がして触れる。感触的にイシュが切った傷の部分へ絆創膏が貼られているらしい。
「自分自身へ分け与える……?」
「イエスッ!! 【受肉】の肉体は君の想像通り人間へ限りなく近い存在だガ、【神々が創った道具】でもアルッ!! 君自身へ【信仰の力】を流し込めたとしてモ、何ら不思議じゃナイッ!!」
「僕自身を【道具】として……なんだか屁理屈っぽい、強引なやり方のように思えるんですが――――」
「――――スッゴイ強引だネッ!! 【受肉】の限界を引き上げる行為だもノッ!! 行使し続けたら際限なく上がり続けテ、崩壊して死ぬ程度には強引サッ!! ダガシカシ、アダム君は【箱舟】の中で【偶像神】と互角に渡り合えるほどの力を見せてくれたヨ。ウチが彼のタガを外したのもあるんだけどネ。マァ、物は試しだヨッ!! 身体の外へ出すイメージではなク、内側へ押し留めてみるとイイッ!!」
それだけを言い残し、ベファーナはウィンクして再びザガムの元へ飛んで行く。腕組みをして真剣にやり取りを聞いていたイシュも、話に着いて行けなかったのか目を瞑って唸り声を出す。
僕自身を【道具】と考えて、身体から【信仰の力】を出さずに発現する。【肉体】も既に形の定まっている【物】であり、想像のしやすい対象ではあるが、まだ一度も試していない行為だ。【受肉】の肉体へどんな変化が現れるか分からない。単純な身体能力や反応速度の向上か、より強固で大きな【翼の盾】を発現できるようになるか。
「……イシュさん、少し離れて貰ってもいいですか?」
「試すのか? 俺はあの得体の知れない【魔女】を信用してはいない。正気かどうかも怪しい奴の言葉を鵜呑みにするなど……」
「僕はベファーナさんを信じます。彼女は嘘も付くし悪戯もしますが、殆どは意味がある行為でしたから」
「全部ではないのか」
「仕事の書類へ大量の落書きをされて、仕事道具を水飴や焼き菓子にされたりすることの意味が理解できます?」
「……ああ、奇天烈過ぎて理解したくもないな」
イシュは頭を左右へ振り、十数歩離れた場所まで移動して見守る。
夜空を仰ぎ、身体の中を流れる熱を持った【信仰の力】を意識する。街の人々の祈り、スピカ達の祈り、僕らの祈り――――筋肉へ、骨へ、臓器へ、血管を流れる血の一滴にまで力を浸透させていく。全身が熱くなり、身体の中から火が吹き出そうだ。視界に映る星が一つを残し、尾を引いて廻る。本来ゆっくりと動く星達の過去と未来の光景を、引き延ばして見ている感覚。
幾つもの星々は線になり、様々な色の円を夜空へ描く。――――その円の中心にある、決して動くことのない煌々と白く輝く星が一つ。天文学の知識が全くなかった新人時代、あの星が周囲の星を引き付けることで星空を形成していると考えたことがあった。だが、星が動く原理の事実は全く異なり、あの星はただその場から動かずに強く輝いているだけであった。
【ポラリス】――――決して動き重なることなく、円の中心に存在する星。【導きの天使・ルシ】がどのような意味を込め僕にこの名前を付けたのか、この光景を見てようやく理解できた。
変わり続ける世界に、一切変わることのない存在が身近にあるだけで、この奇怪な状況でも取り乱さず落ち着いて考えられる。静かに瞼を閉じて猛る熱を自分の熱で冷まし、溶け合わせる。壊すことなく、決して崩れることのない、守る為だけの力。僕が望むのは、皆が穏やかに過ごせる未来だけだ。
熱が落ち着くのを感じ、瞼を開ける。夜空は元に戻っておらず、先程と同じ星が円を描いている光景だったが、僕の周囲にも変化があった。光り輝くいくつもの細かな白い粒子がゆったりと漂い、掴み取ろうと手を伸ばすと離れ、手を引くと近付き、付かず離れずの距離を保ち続ける。見守っていたイシュが驚いた表情をしているのを見るに、僕だけが見えている幻覚ではないようだ。
「……ポラリス司祭、その光はなんだ? 貴様自身に何か異常はないのか?」
「異常と呼べる程かわかりませんが、身体の周りを光が漂っているのが見えます。あと……夜空の星が、おかしなふうに見えています」
「夜空の星? ……いや、俺には変化がわからん。貴様だけが見えている光景だろう。他には?」
イシュも夜空を見上げ目を細めるが、夜空に変化がない事を伝える。他に変化が無いか軽く跳ね、頬や腕を抓ったり、足元の小石を拾い上げ握り潰せるか試みたり、遠くへ投げれるかどうかも実行してみるも……身体能力にも大きな変化は無い。もしやこれは――――失敗か? この状態で【翼の盾】を出すのは――――
「――――えっ!?」
「むっ!?」
【翼の盾】の代わりに現れ、右手へ握られたのは十字架の形を模した半透明な剣。刃の無い細い刀身。鞘に収まっているわけでも無く、柄の部分を握ると人肌程度の熱と、よく手に馴染む感覚がする。……そうか。この剣は――――
「――――イシュさん。もう一度、【抜刀術】でのお手合わせをお願いできますか」
「構わないが……その十字架で受けるつもりならやめておけ。材質がなんであれ、細く芯の無い刀身で受けるのは無理だ。仮に刀身側が無事だとしても、貴様の方が俺の力に力負けするぞ」
「大丈夫です。これは恐らく、僕の願いそのもの。折れも負けもしません」
腰を落とし、イシュが先程とっていた【抜刀術】の体勢を見様見真似で再現する。イシュも腑には落ちていない様子だが、一息吐いて抜刀体勢をとった。彼の鋭い目はこちらの頭へ狙いを定めており、この距離では受けられなければ、間違いなく首を刎ねられる。
夏風、虫の音、遠くで焚火が爆ぜる音。抜刀――――彼の刀身が僅かに出た刹那、漂うだけであった光が一筋の赤い光へと変わり、剣筋の予測線がこちらの首へ光が続く。少し遅れて十字架の先端から青い光が伸び、曲線を描いて赤い光を遮るようにして交わった。これが攻撃を防ぐ唯一の剣筋であることは間違い無いが、身体がいつも以上に重たく感じ、歯を食いしばって腕を振り抜く。
身体の反応速度だけが極限にまで高められ、追いついていない身体能力が限界だと悲鳴を上げる。十字架の先端が青い光の筋を通ると離れていき、周囲を漂う光へと戻る。光の先端へ近付いていく程、時間の流れは加速し、風と音が戻ってくる――――
――――金属のぶつかり合う高い音が響く。振り抜かれた十字架の刀身は目の前の白い刀身を受け止め、折れも砕けもせず互いに静止していた。
「……見事だっ!!」
「……ありがとうございま――――げっほげほっ!?」
イシュが刃を離すと同時に、呼吸が数分止まっていたかのように咳き込む。痛みや手の痺れはないが、重く圧し掛かる疲労感が遅れてやってくる。立っていられなくはないが、一度でこれだけ負荷がかかるのだ。四度、五度と繰り返せば、気絶するか動けなくなってしまう。単純に――――
「――――鍛錬不足だろうな」
納刀したイシュが腕組みをし、呆れた表情でこちらを見る。
「……ですよね」
「だが、まぐれで見切れたわけでも無い。この粗悪品を折らず切断も許さず、刃こぼれ一つさせずに受けるのは俺でも難しい。これを理由無く偶然と言われたら、魚人族の名折れだ」
「魚人族の技術結晶であるその剣を、【折りたくない】と思ったんです。僕の【信仰の力】は人を直接傷付けることは出来ません。ですがそれは、僕自身が【傷付けることを望まない】から。この十字架も同じです。折れず壊れず崩さず、全てを受け止め、守る為に振るう力。盾と違い、こちらからも振るわなければならないので……」
「ふっ、大きな盾へ頼り過ぎたのが、仇になって返って来ているわけか。なんともお粗末で不完全な力だ」
「ですが、どういった力なのかは明確になりました。お手合わせありがとうございます、イシュさん」
「礼を言うにはまだ早い」
頭を下げる前に手を出して止められ、漂う光越しに次の相手であるザガムの方を見る。彼は瞑想を止め、ランスを片手にゆっくりとこちらへ歩いて来ていた。ランスの先端からは赤い光の筋がうっすらと複数本、僕の胸辺りへ伸び続けており、可視化された殺気とはこのことなのかと身震いする。
「恐ろしいか?」と、察したイシュが尋ねる。
「戦いは……いつだって怖いですよ。痛いですし、相手も傷付きますし、敵うかどうかも分からない存在を前に手足が震えます。避けられるならしたくないのが本音です。ですが……僕が死んでも、ザガムさんが死んでも、悲しむ方はいますから……頑張って受け止めようと思います」
「……武運を祈る」
一言だけを残し、イシュは焚火の傍でくつろぐベファーナと、不安げに見つめるエポナの元とへ歩きだす。途中、ザガムとすれ違ったが立ち止まらず、言葉は交わさなかった。――――十数秒後。腕や足、指先からも赤い光を放つザガムが、僕の前で仁王立ちする。
『話は聞いているだろう? 主の友であろうとも、加減はしない。神を仕留めた時のように、殺すつもりで来るといい』
「……僕は【英雄】にも、【独裁者】にもなりません。ですがここで死ぬつもりも、あなたを殺すつもりもありません。あなたを含めた人々を導く【天使】の使命を、僕はこれからも全うします」
『要求を全てを拒むか。司祭は甘い。この世界の憎しみの連鎖は相手を殺し、力で抑えつけることでしか断ち切れん。慈悲で見逃そうとも、君の前へ幾度となく立ち塞がる。私も君も、この世界において排斥されるか、排斥する側にしか成れん。穏やかな理想郷とは強大な力と覆せない変革、そして民草が目を輝かせ憧れ賛美する、【人ならざる英雄】が揃い初めて成り立つのだ』
「……それでは繰り返すだけです。人々を妄信させ、自分達で考えるのを放棄させるのは幸福とは言えません」
ザガムはランスをギリギリと握り締め、腰を落として構える。【大型機神】を叩き落とした時のように鎧から刺々しい針が生え、ランスは螺旋状へと変形し、全身から伸びた光の筋は赤い渦を巻き始めた。
『――土壌を汚染する余計な芽は、摘まれねばなるまい』
首と胸がひりつく。濃い赤黒い魔力が混じった十字架を、正面へ構える。先端からゆっくりと伸びた無数の青い光は、赤い光を全て遮る形で交わった。拒むことのできない、溢れ出たザガムの力と共に感情が流れ込む。
憎しみ、怒り、絶望、そして――……そして、強い哀しみ。彼の言葉・思考を理解した時、自然と目が潤み、涙が出た。ザガムの背後に広がる夜空の円は歪み、ぼやける――――だが、円の中心に輝く星は、変わらずにそこに在った。心を落ち着かせ、周囲を取り巻く血生臭い空気を吸い、ゆっくりと吐く。僕の身体に、彼の赤い光は届いていない。
「僕達の芽は……摘ませない――――あなたの為にも……っ!!」
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