ポラリス~導きの天使~

ラグーン黒波

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第五章・死にたがりの【天使】

【第十二節・生かす者】

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 午前五時三十三分。夜が明け、徹夜の見張り作業から仕事道具を取りに借宅へ一度戻り、そのまま飯を食わず教会へ直行する。
 結局、牧場内に臨時で建てた監視用の櫓からも、皆を襲った魔物の姿や大きな動きは見られず、街中へ侵入されることも無かった。だが……サリーが昨晩調査と銘打ち、単独で怪我人の出た森へと向かい、未だに戻って来ないのが気掛かりだ。こちらから襲われた魔物の姿や特徴を尋ねても、飄々と知らぬ存ぜぬで突っ張り通していたし、何か知っているのは間違いない。ミーアの仇討ちにでも向かったのか?
 ……俺に今できることはなんだろう。目を覚ましたポーラ司祭も、未だ真意を見せない彼女へ勝つ為、ベファーナと修行を行うと新人伝いに聞いたし、狩猟会長・カインも襲われ複雑な状況になりつつある。下手に首を突っ込む選択はしたくないが、魔物の問題は時間で解決できない。あの森へ踏み入れる者は限られているものの、放置すれば次の怪我人や死者も出る。……それに姿の見えない魔物が、いつまでも人の出入りの少ない森を棲み処に留まっているとも限らない。

 教会には既に先客が居た。副司祭姿のアダムが街の外へと続く道を、石で組まれた簡素な長椅子に座り眺めている。恐らく、ポーラ司祭が心配で早く来てしまった口だな。

「おはようございますっ、アダム副司祭っ!! 珍しいですね、まだ六時にもなってないですよっ!!」

 挨拶をすると驚いたのか、びくりと座った姿勢のまま身体を跳ねらせ、こちらの姿を確認する。驚いた表情から不機嫌そうな顔へと変わった。

「……朝から耳元で大声を出すんじゃない、心臓に悪い。徹夜での見張りに成果はあったか?」

「特に無し、です。強いて言えばサリーさんが森へ入ったまま、街に戻って来ていないことぐらいでしょう。絶対二人を襲った魔物について知ってますよ、あの人」

 アダムの隣へローブで包んだ仕事道具を置き、欠伸をしながら伸びをする。

「魔物相手に報復行動を起こすような性格には見えなかったがな。彼女は彼女で、私達には伝えていない別の思惑があるかもしれん」

「んー……そうですか? 思ったことをなかなか口にしない、副司祭と似たような性格じゃないです?」

「お前が口軽過ぎるだけだ」

「よくポーラ司祭が、ベファーナちゃんへ付いて行くのを反対しませんでしたねぇ。俺、副司祭は絶対反対するだろうなって思ってたんですけど」

「争いを好まないあいつが力を欲する理由があるとしたら、他人の為ぐらいだろう。サリーの為か、それとも圧倒的実力差を肌身で感じ、活発化している魔物や【機神】の襲撃に備えての鍛錬か。……どんな理由であれ、誤ったことへ力を使うのでなければ止めはしない」

 アダムはそう答え、視線をこちらから街の外へ続く道へと戻す。この人も【箱舟】内での経験を通して丸くなったし、あれ程ライバル視していた司祭を肯定する発言も多くなった。同期ってのもあるのだろうが、誰かに勝てない悔しさは、この人の方が知っているから引き止めなかったかもしれない。
 朝日を浴びながら両手を組んで背面へ伸ばし、固まった背筋へ血を流す。空腹も同時にやってきたが、近場の酒場で朝食を取るには早過ぎる時間帯。教会地下の貯蔵庫の食料はこの前ほぼ使いきったし、隣の不機嫌なアダムにまた突かれるのは避けたい。あと一時間少々、紅茶でも淹れて眠気を覚ましつつ、ポーラ司祭の帰りを待つか。

「副司祭はまだここで待ちます? なんなら紅茶淹れてきますよ」

「ああ、頼む。私もロクに寝付け――――」

 ――――街外れの道を、腕や肩に穴の開き襤褸の様になった修練着を纏ったポーラ司祭が歩いて来る姿が見えた。黒ずんだ血が裂けた部分や首周りを中心に大量に付着していたが、足取りや顔色はしっかりとしていて、こちらを視認すると右手を挙げにこりと笑った。

「ポーラ司祭っ!?」

「ポラリスっ!?」

 驚く俺やアダムと自分の格好を見比べて気付いたのか、困ったように頬を指で掻く。

「大丈夫です。怪我はしましたけど、シスターに全て治していただきましたから」

 ポーラ司祭はそのまま歩いて俺達の前で立ち止まり、頭を下げる。

「心配をかけてすみませんでした。ですが、とても良い経験が出来たので、協力していただいた皆さんには感謝しかありません」

「ずっ、随分と派手にやったようで……。とにかく着替えましょっ!! 頭拭いて顔洗って、それから――――」

「――――おい」

 俺を押し退け、長椅子から立ち上がったアダムはポーラ司祭へ詰め寄る。

「……何があったとはまだ聞かんが、お前の望んだ力は手に入ったんだろうな?」

「うん。扱いこなせるかは今後の僕次第。イシュさんには不完全で不安定だって笑われたけど、皆となら大丈夫。君達にも負けないよう、今まで以上に鍛えなくちゃね」

 いつもと変わらない穏やかな雰囲気で彼は答えたが、不安を微塵も感じさせない真っ直ぐとした目をしている。それを見たアダムは緊張が解けたのか、呆れているのか、額を抱える仕草をし溜め息をついた。

「はぁ……全く変わっていないのに安堵したが、相変わらず緊張感の無い……」

「?」

「……気にするな。早く井戸水を頭からかぶって、全身の血を洗い流して来い。ぐずぐずしてると他の者達も集まって来る。アポロ、着替えの司祭服と臭い消し用の香水を多めに準備して、余った時間で紅茶も淹れておけ。私は他の者がいないか見張りながら、こいつに付き添う」

「了解ですっ!!」

「いえ、これ僕の血ですし、頭を洗って身体を拭くだけでも――――」

「――――駄目だ。今日は通常通り業務を行う。身体を清める行為を怠ると不審がられる。そもそも、お前から血の臭いがするのは気色悪い。いくらがさつでも、仕事に対して抜かるのは許さんぞ」

 アダムに咎められたポーラ司祭は修練着の裂けた袖へ鼻を近付けて嗅ぎ、こちらを見る。

「……そんなに臭いですかね?」

「ちょっと身体に染みついてるかもですねぇ。鼻が慣れちゃうと、自分の汗臭さや血の生臭さって、案外気付かなくなるもんですし」

「ああ……そういう事ですか。嗅覚にも慣れってあるんですね」

 司祭は感慨深そうに話しながら、袖へ鼻を近付けては離す。数ヶ月前まで嗅覚や味覚が無かったのだ。こういった当たり前な知識を体感する機会も無かったのだろう。……でも、一番争いに無縁そうなポーラ司祭が【血の臭いに慣れる】のはどこか皮肉で、気色悪いとも違うが嫌だと感じた。

***

 後から来た新人も加わり、身体を清めて司祭服へと着替えたポーラ司祭は、教会地下の調理場で紅茶を飲みながら、昨晩から日が昇るまでの出来事を話してくれた。獣人族の格闘家、魚人族の剣士、そして狂王軍大将・ザガムとの手合わせ。彼らのお陰で盾の応用の仕方や、素手でも戦える力を身に付けたとのこと。三人のうちザガムくらいしか面識はないが、彼との手合わせが最も厳しく、司祭が血塗れになった要因らしい。

「本気になったザガムさんには勝てませんでしたし、結果も引き分けか僕の負けでした」

「奴は本気でお前を殺そうとしたのだろう? 殺せなかった、殺されなかった時点でお前の勝ちだ」

「そうですっ!! 勝負に負けても生きてれば勝ちですよっ!!」

「わっ、私も、そう……思います」

 皆から励まされながらも腑に落ちない、残念そうな表情のポーラ司祭はカップをテーブルへ置き、紅茶に反射した自身を見つめる。

「【信仰の力】とザガムさんから溢れた力も使い果たし、体力の限界で倒れた時、彼は僕の姿が見えなくなったと言っていました。魔力の気配を視力代わりにしているザガムさんにとって、魔力を持たない者の姿は捉えられない。ですが、僅かな呼吸音でも歴戦の勘でランスを僕へ突き出せた筈。……今はまだその時ではないと、見逃されたのは僕の方です」

「見逃された、か。奴は今も昔も変わらぬ狂王軍の大将。己や【狂王】の復讐の為に、利用価値があると判断されたのだとしたら納得できる。目的の為ならば手段を選ばない、歴史に綴られたザガムと言う軍人はそういうものだ」

「………………」

「憎しみを断つのは簡単じゃない。自分を裏切り、殺した者を赦す。頭で分かっていようとも、そこに他者の道理や正義など存在しない」

 アダムは紅茶のカップを口へ運びながら語る。ザガムは自身を亡霊や残り香と言っていたが、憎悪や過去の未練を完全には捨てきれずにいる。【英雄】は人ではない存在が成らなければならないと考えるザガム。一方で、【英雄】は人が成る者だと考えるポーラ司祭。司祭が【英雄】ではなく【天使】として在り続けるのを望むのなら、俺はその考えを尊重し、支えるだけだ。
 テーブルの上で組んだ両手に力が入る。ザガムは必ず、機会さえあれば再び俺達の前へ立ちはだかる。力尽くで分からせようとも、この二人がどちらかに折れることはあり得ない。今を生きようとする者達を殺戮の上で統制した者と、過去を直視した上で今を生きる者を生かそうと行動する者――――在り方そのものが真逆なのだから。もし、俺の前でまたポーラ司祭へ手を掛けようとするのなら……容赦はしない。

「あの……アポロ先輩。怒ってませんか……?」

 新人に腕を揺すられ、テーブルから顔をあげると皆がこちらを見ていた。両手で頬を叩き、気持ちを切り替える。感情論で走るな。それじゃ復讐しようと目論むザガムと何ら変わらない。支える俺が、皆の統率を乱してどうする。無理矢理笑顔を作って頭を掻く。

「あっはっはっはっ、なんでもないですっ!! ただ……俺としては、ザガムさんの考えも分からなくはないんです。害獣指定して駆除を行っている魔物や動物達だって、俺達の都合で奪ってる命です。復讐は次の憎しみを生み出すだけなんで、その考えを支持するつもりはないですけど……互いの妥協点を見出せない奴を相手するのは、かなり骨が折れますよ」

「同感だ。拒む者を無理に引き入れるのは、私も賛同しかねる。かと言って、いつまでもうやむやな関係では障害になる。どうしてもと言うのなら、不安だがあの【魔女】にでも頼んで無理にでも従わせるしかない。それでも今回のように、命懸けで立ちはだかるだろうが……」

 俺とアダムのザガムに対する評価はほぼ一致している。排斥し合う関係であると向こうが言い切ったのだ。ポーラ司祭がどれだけ説得しようとも、折り合いをつけるのは限りなく不可能。司祭は唸りながら紅茶を含み、首周りを左手で擦る。彼の首の周りにはまだうっすらと、赤く切られたような痕が残っていた。

「……彼の復讐の根本にあるのは、憎しみ以上に裏切られた【哀しみ】です。僕らが赦せと諭すのは間違っている。けれど、現王と直接話す場を設け、和解するが無理だとしても、互いに納得できる形で話がつくのならそうしたいです」

「……本気か?」

「本気じゃなきゃ、僕は今ここに居ない。ザガムさんの望みは旧友との【対話】だ。自分を殺した理由が明確にならないせいで、彼自身が人間不信に近い状態になっている。……踏ん切りがつかないんだよ。僕を命懸けで殺すのも、僕らと共に世界を変えようと動くのも」

「でっ、ですが……それはポラリス司祭の考えであって……ザガムさん本人は何も――――」

「――――視たんだ。最期の戦場に立つ前日から、首を落とされ、今に至るまで……彼が何を考え、何を見てきたのか」

 新人の解釈に対し、ポーラ司祭は苦笑いで答えた。脳の無い【悪魔】の【思考】を読んだ? 彼はもう人間としての枠組みから外れ、【天使】の力でも【思考】を読んだり、記憶を遡って過去を視ることは不可能だ。司祭が他者の【信仰の力】や魔力を取り込み、自分の力として変換できることは知っているが、異種族でも【思考】を読み、十五年前の過去まで遡ることが可能になったのなら……一部の【上級】、もしくは【特級階級】の【天使】と同等の権限を持っていることになる。それは最早【過去視】の領域だ。
 アダムは半信半疑の顔をしながら腕組みをして、司祭に尋ねる。

「【思考】が読めたのか? 相手は【悪魔】だぞ?」

「うん。以前から感情や【思考】が力と一緒に、記憶や身体への傷として干渉することはあったんだけど、昨晩のは違った。十五年分のザガムさんの歴史について綴られた本の内容を、無理矢理叩き込まれたような……どう説明したらいいか……難しいな」

「ポーラ司祭自身は、その……なんともないんですか? 首の傷もそうですけど【受肉】の脳へ問題が出てたり、気分が優れないとか」

「サリーさんはアダムの【信仰の力】で作られた剣を、【完全に自分の力】として振るっていましたが、ベファーナさん曰く、僕の場合は【肉体と精神に負荷がかかる、毒のような物】らしいです。意思に関係なく交わり、自分へも他人へも干渉する透明な色の力。……染まり切らないのは自浄作用のようなもので、時間を掛けて毒素を浄化しているとも彼女は話していました」

 こちらの質問へ答える当人も、よく理解できていない話し方だ。情報の出所が【魔女】という点を除けば、ある程度合点のいく内容ではある。サリーが【悪食】と例えていたのも言い得て妙だ。拒絶することもできず、肉体も精神も狂いそうになりながら――――いや、ポーラ司祭にとって正常な状態がいつなのか判断できない。自分を見失わず、変わらずにいる司祭は凄いと思うが、どこか外れている不安定な安定だ。

「司祭は……それでいいんですか。例え傷や毒が浄化されたとしても、他人の抱いた記憶や感情は心に残り続けます。俺は……いつか司祭が抱えた物に潰れてしまいそうで、正直不安です」

「……アポロ先輩」

「………………」

 新人は不安げにこちらと司祭の顔を交互に見比べ、アダムは目を閉じ鼻で深く息を吐いた。これは口を滑らせたわけではなく、俺の意思でポーラ司祭へ投げかけた。俺だけじゃない。皆あなたが背負い込み過ぎて壊れてしまわないか、変わらないあなたに、いつまでも甘えていいのかどうかも分からない程、不安なんです。

「逆……かな」

 困った表情をして、司祭は俺の目を見る。逆とは?

「変わらず在る為には、一人の力じゃ維持できません。感情で壊れそうになったり、折れそうになった時……何度も踏み止まれてきたのは、皆さんとの思い出や祈りのおかげでした。確かにアポロが思うように……強くはないし、感情の表現がとても下手で未熟な上司です。ですが――――」

 司祭は俺の組んだ両手へ自身の右手を重ね、朗らかな笑顔を見せた。

「――――君が代わりに怒ってくれたり、気にかけ守ってくれているのは感じていました。そうした嬉しい感情はとても色の濃い記憶として、僕をそのままで留めてくれている。支えて貰えている、頼って貰えているから頑張れるんです。ですから今後はもっと君達に頼り、安心して頼られる上司を意識して生きます。……心配に思ったことを話してくれて、ありがとう」

 この人は、自分の弱さや欠点を理解したうえで、俺達を引っ張り進もうとしている。できうる限り互いにとって良い結果を。それは自分の為でもあり、これから守る皆の為でもある。感情的で合理的。与え、与えられて、初めて個が成立する【天使】。ポーラ司祭。脆く弱い自分自身に対して不安だったのは、あなたも同じでしたか。
 組んでいた両手を解き、司祭の手を取る。細く華奢な手だが、手のひらには棒状の物を強く握り、振るった際にできるごつごつしたマメの感触があった。

「俺が……俺達がポーラ司祭を支えますっ!! 上司としてガンガン頼りますし、美味い肉や飯も差し入れますっ!! あなたが理想的な上司を目指すなら、俺は理想的な部下を目指しましょうっ!! ただ俺やアダム副司祭は導火線短いんで、感情論でご迷惑をおかけすることも多々あるかと思いますが、その時は一緒に頭抱えて悩んでくださいっ!!」

「さり気なく私を短気だと言っていないか?」

「ま、まあまあ。……これからも一緒に、皆で頑張っていきましょう。アダムも新人も君も、大切な部下であり同僚であり、同じ親から生まれた兄妹みたいなものですから」

「私もっ、皆さんを頼れる兄のような存在だと……あぁ、いぇ、そのぉ……すみませぇん」

 途中で恥ずかしくなったのか、どもって手帳で顔を隠す新人の小さな頭をわしゃわしゃと撫でる。

「血で繋がってるだけが家族じゃないって、スピカさんやローグメルクさんも言ってたし、あの人達を見てても分かるだろ? 家族でも兄妹でもいいんだよ、俺達は」

「はいぃぃ……」

 【地上界】の生物の枠組みでない【天使】は歪で、正しい関係・価値観ではないかもしれないが、元より歪んだ世界で正義など無い。生みの親からも愛されないのなら、自分達で身を寄り添い合うのも、決して間違っていないのだから。

「さて、そろそろお店が開く頃です。本日の業務を開始する前に、皆で朝食としましょう。……そういえば、サリーさんは?」

「昨晩から街の外へ出たまま戻って来ていない。話は耳にしているかもしれないが、上司のミーアが正体不明の魔物に襲われたのが関係しているのだろう。秘密主義の彼女だ。何かあったとしても、教会へ連絡する手段がない限りはこちらも助力出来ない」

「一応、【王都からの使者】って名目で来てるんですから、行方不明になられると困るんですけどねぇ。自衛は出来る人ですが、何処歩き回ってるのやら……」

***

 午前七時二分。持ち込んだ二本の剣は既に折れ、身体の傷は塞がってはいるものの満身創痍。アタイはティルレットの作ったドラゴンの氷像をへもたれかかり、奴が仕留めた獲物の肉を焚火で優雅に炙る様子を見させられている。
 この場へ戻ってきた頃にはティルレットが全て片付けていて、周辺の魔物やドラゴンは皆、死体か氷像になっていた。命辛々、夜間の狂暴な魔物達の山を越え、せめてその仏頂面を一発殴ってやろうと挑んだが、アタイの【信仰の力】も拳も届かなかった。ああ、クソ。万全の状態ならまだわからないのに、訳のわからない【悪魔】に止めも刺されず、見逃されている。

「兵士様、肉体疲労には十分な栄養と睡眠が効果的でございます。お口に合うかどうか判断しかねますが、断食は【天使】にとっても毒と聞きます。一口でも、お口へ含まれることを提案します」

 ティルレットは枝に突き刺したドラゴンの肉を顔の前へ雑に突き出し、食えと促す。ふざけんな、こっちはあんたの朝食のお零れ食いに来たんじゃないんだよ。よくもまぁ殺しに来た相手に、のうのうとした態度でいれたもんだ。突き返そうにも腕も脚も上がらない。痛みは無いが指先から足先までの感覚も無く、全く動かせずにいる。

「……生憎、胃に入れば何でもいい、便利な身体でねぇ。……施しなんざ無くとも、雑草や木に齧りつけば、直ぐ動けるようになんのさぁ……」

「左様でございますか」

「ふー……さっきも言ったけど……アタイは【悪魔】のあんたを殺しに来たんだ。馬鹿な上司に騒がれると、言い訳すんのも面倒だからねぇ。……殺すんなら、さっさと殺せばいいじゃないか。こっちも理不尽な世界からおさらばできるし、大歓迎さぁ……」

「それでは兵士様を心配する、唯一の太陽が陰りまする。不肖、ティルレット。同じく情熱を求める身としては、それだけは避けねばなりませぬ故」

「あっはっ……ホント、意味分かんない……」

「兵士様が今生きることが、意味の有ることなのでございます」

 ほっといてくれよ。肉汁の滴る串刺し肉から顔を背け、拒否の意思表示をする。背の冷たい感覚と嗅覚……意識も遠のいてきた。流石の【上級天使】も、いい加減――――無理矢理口をこじ開けられ、串から抜かれた肉を突っ込まれる。吐き出そうと足掻くが口を上から手で押えられ、【受肉】の身体は窒息や嘔吐の命令を拒絶し――――肉の塊を飲み込んだ。
 胃へ火が付いたように熱くなり、身体の触覚が戻る。暗転し揺れていた視界も定まり、気管に入った異物でむせ返る。一頻りむせ顔を上げると、両頬を力強く指で挟まれた。手袋越しに伝わる皮膚へ焼けつく熱。目の前には――――酷く歪んだ笑顔を浮かべる【悪魔】の顔。無表情から一変、高揚し狂気を含んだ表情。それがあんたの面の皮の下か?

「誰が助けろっつった…………っ!?」

「失礼。死に逝く姿があまりにも美しかったもので、つい手が出てしまいました」

「はぁっ!? 意味が――――……!!」

 空いていた左手で再び口元を抑えられ、反論すらも封じられた。アタイの瞳を覗き込むよう、更に顔を近付ける。なんだこいつ、ヤバい。

「――――死生。その狭間はとても心地よいものでございましょう? 不肖にも分かりまする。然し、痛みの伴わない其に何の意味がございましょうか。生とは、苦痛を感じながらも掴むもの。死とは、何も無い静寂。苦痛も快楽も、五感の一切を棄て、いずれ辿り着く一つの境地。兵士様の身体は境地ではなく、苦痛を伴う生を望みました。それが答えでございましょう」

「――――――!!」

 無茶苦茶だ。反射的に飲み込んだだけだというのに、それがアタイ自身の答えだと? 力の戻った両手で引き剥がそうと【悪魔】の腕を掴み、足をばたつかせるが動けないよう膝の上へ圧し掛かられ、素の力では敵わない。引き剥がすのを諦め、目の前の顔を殴りつける。冷たい肌と頬骨に当たり――――指が折れるごりごりとした感覚がした。それでも拳を振るい続け、殴り続けた。クソったれ。死ね、死ね、死ね、【悪魔】め。

「嗚呼、生き生きとした、大変良い表情になられました。恐怖から逃れようと涙の海を泳ぐ瞳も、赤く熱を持った茨のような首の傷も、大変美しゅうございます。然し、不肖の情熱は不思議と駆り立てられませぬ。一度【淵】を歩いたからでございましょうか? 今の不肖が欲すべきは――――兵士様の太陽なのかもしれませぬ」

 熱が冷めたかのように無表情になった【悪魔】は熱い両手を離し、膝の上からも静かに離れる。
 得体の知れない、脳で理解できない不気味さ。あの時と同じく、恐怖で身体がこわばり、心臓の早鐘と歯の震えるガチガチとした音が頭に響く。首の傷が熱を持ち、白い杭を持った三角帽の男と目の前の【悪魔】の姿が重なる。目が離せないまま後退り、別の氷像へと背がぶつかった所で……早く消えろと瞼をきつく閉じ、頭を抱えた。

「不肖、ティルレット。今一度、太陽と友を訪ねに旅路へと戻りまする。再び会いまみえたくば、追って来られると良いでしょう。周辺に魔物と化生の気配は在りませぬが、日が沈む前に移動されることを提案いたします」

 足音が近付き、耳元に冷気と存在を感じた。

「死生の狭間に興味が有りますれば、再びご案内致しましょう。今度はより深く暗く――――兵士様の残り火を駆り立てられるよう、尽力致します。では」
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