【小説版】妖精の湖

葵生りん

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3章

発露1

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「断る」

 とりつくしまが一切ない短い返事にしばし唖然とし、風に乗って流れてくる舞踏会の音楽がかすかに聞こえた。

「ちょっ、待って!」

 ふたりで抜け出した舞踏会の会場からは少しばかり離れた庭の木々の裏。一際強い風に梢がさわさわと鳴る音がやけに大きく耳を打ち、我に返ると彼はすでに踵を返していた。

「せめて、なにか理由くらい……っ」

 はしたなくはあるけれど、立ち去ろうとする彼の腕をむんずと掴み止めずにはいられなかった。
 可憐な乙女が勇気を振り絞って愛を告白したのだ。断るにしたって、申し訳なさそうな表情のひとつくらい、断る理由のひとつくらい、つけたっていいはずだ。なのに、顔だけ振り返った彼が溜息をついて語った理由は聞かなければよかったと思うほど冷淡だった。

「面倒なだけだろう?」

 あまりにもきっぱりとした拒絶に、なおさら言葉を無くした。
 そりゃあ、小さい頃から愛想だとか可愛げなんて欠片も持ち合わせていないことくらい承知しているけれど。だけど幼馴染みのよしみもあるし、呼び出しに応じてくれたから、少しは脈があるのかと期待に胸を膨らませてしまった。
 後に聞いた話だと親に無理矢理連れて来られた面倒な舞踏会から抜け出すいい口実だと思っただけだったというから呆れた。

「婚姻前の付き合いなど、良縁の妨げになるだけだろう。特に淑女におかれては」

(………卑怯よ)

 きゅっと唇を噛みしめる。
 私の腕を払う動きはスマートで、気遣いが見え隠れする。言葉尻にわずかばかり滲む配慮が、よけいに胸に沁みる。
 この人は、人を寄せ付けないくせに、完全に冷徹ではないのだ。
 その不器用な優しさは、いつでも誰にでも与えられるものではない。それを知っているからこそ、よけいに思わずにはいられなかった。

 卑怯だ、と。

 中途半端な優しさなんか、いらない。
 憐れみなんか。

「嫌です!こんなにお慕いしているのにどうしてそんな冷たいこと!!」

 勢い首筋に飛びついて、離すまいと必死に両腕に力を込めた。

「……リ、リズ、もうちょっと慎みを――」

 顔に胸元を押し当てられ、焦りたじろぐ言葉とは裏腹に、彼の喉が鳴ったのがわかった。

「誰にでも抱きついたりなんかするものですか!」

 だからふりほどこうとする彼の手にかまわず、腕に力を込めさらに胸を押しつけた。

「こんなところを人に見られでもしたら、困るのは――」

 聞きたくなくて、強引に両手で彼の両頬を押さえて唇を重ねた。

「……リ…………」

 逃れようとしつつも行き場に迷っている腕が、びくりとふるえた。

「アレス様が私を望んで下さるのなら、一生を棒に振ろうとも構いません!」

 勢いに任せてそう宣言し、押し入るように彼の胸の中に縋りついた。
 縁談ならば私が物心つくより前から決まっていた。家のためというならば良縁には違いなかったが、私にしてみれば15も年上の見知らぬ叔父様との縁談など恐怖以外の何を感じればよかったのだろうか。
 これで破談になるならそれでもいい。
 ならなくてもせめて、巷を賑わせるような恋がしたかった。

「ほんの一時の戯れでもかまいません――愛してください」

 ふるえる声を押し殺して、零れそうな涙を留めて、必死に願った。



「………………」



 いつまで待っても、返事はなかった。
 ただ、そっと頭に手のひらが乗せられた。

 恐々見上げると、彼はとても困った顔をしていた。
 困った表情のままで、無言のままで、ただ行き場を迷い続けていた腕がゆっくりと肩と腰に降りてきて、慰めるように優しく抱き寄せて背中をぽんぽんと叩いてくれたのだった。









 そうやってなりふり構わずにあの人の不器用な優しさにつけこんで強引に繋いだ交際だった。
 けれど、あの湖の一件の翌日には彼はひどく冷ややかに「もう会わない」と言ってきた。
 私はそれが悔しくて――彼を置いて一人で逃げた自分のことを棚に上げて――泣きじゃくりながら散々彼を詰った。けれど、どれだけ泣いても詰っても、彼は冷たいままだった。

 あの妖精のことしか考えられないと言った彼は、遠くを見ていた。
 まるで幽霊みたいに、心をどこかに――多分、あの湖の妖精のところに――置いてきたように、遠くばかりを。


 そして、それが最後だった。




   * * *




――私も、悪かったのだと思っている。

 あの子のことに限って言うなら、私が一方的に悪かったとすら思っている。


 無理矢理繋ぎ止めた交際だったけれど、彼は不器用なりに大事にしてくれた。それなのに、リズがレテ湖に行こうと言い出したのだ。
 両親と勘当寸前の大喧嘩をして、妖精にだって引き裂けないくらい愛し合ってるんだとかなんとか啖呵を切った。それで、両親と賭をすることになったのだ。
 彼とふたりでレテ湖に行って別れたら親に従い結婚し、別れなかったら彼との関係を許してもらうと。

(……あんな賭なんかせずに、おとなしく親に従っていればよかった)

 妖精を全然信じていないとはいえ、そのあたりの事情を全部伏せて騙すように逢瀬に誘ったことも、今では後悔している。もしそんな賭をしていると打ち明けていれば、彼は絶対にレテ湖には行かなかっただろうから。
 しかし最大の後悔は、湖の妖精が現れたあの時。
 あの時、手を取り合って逃げるわけでもなく、逃げようと声をかけるわけでもなく、ただひとりで逃げ出してしまったことだ。

 リズの想いは、その程度のものだったのだ。

 結局、ただ恋というものに憧れていただけだった。
 親に反抗したかっただけ。
 決められた結婚に従いたくなかっただけ。
 そんな反抗心と恋心の虚像に、彼を巻き込んだ。

 そして結局そのせいで、あの人は妖精に心を奪われてしまった――。



 悔しさから、ぎゅうっと膝の上で両手を握る。



 彼を恨んだり憎んだり、ましてや好意なんて感情は持ちあわせてはいない。
 あるのはそう、罪悪感だ。
 賭に負けて渋々会ったイグニスは、歳の差以外の不満を補ってあまりあるほどいい人だった。それに、あまりに容赦のなく一方的に捨てられたおかげで、責任はすべて彼にあるという話になったし、先方の一族も哀れんで破談にならなかった。
 だから彼が結婚したと聞いても、とても幸せそうだと聞いても、ようやくあの妖精から逃れられたのならよかったと心の中でひっそりと祝福した。

 なのに、だ。

 なのに、彼があの妖精によく似た銀髪の姫君に、リズにはほんの時々しか見せなかった穏やかさと優しさを惜しげもなくそそいでいるのを見た途端、心が凍り付くような、あるいは焼け付くような激情に襲われた。

 結局あの人は今もまだ妖精に心を囚われたままなのか、と。
 あの時の後悔。罪悪感。妖精に対する恨み。
 そして、自分だけが幸せになっている後ろめたさ。
 そういったものが入り混じって胸を焦がし、目の前が真っ赤になったような気がして――。



 我に返った時には、恥も外聞もなく当たり散らした挙句、あの子を卒倒させていた。
 息ができずに苦しむ彼女の顔を改めて見た途端、さぁっと血の気が引いた。

(……違う。あの妖精じゃない。妖精じゃ…ないのに……っ)

 自分が吐いた暴言が脳裏に蘇るが、どうしてそんなことを口走ったのかわからなかった。憑りつかれたような気味の悪さに震えが走り、恐怖のあまり謝ることも忘れて夫の下に逃げた。

「リズ、あの子は残酷な運命を強いられている姫君だ」

「そんなつもりじゃなかった」「どうしてあんなことを言ったのかわからない」と繰り返しながら泣きじゃくる私を抱き寄せた夫は、優しく子供を諭すように頭を撫でた。

「悪いと思っているなら、ちゃんと謝っておきなさい。謝ることができなくなってから後悔しても遅いのだからね」

 夫の言葉は酷く静かに、胸に染み入る。

 

 ドレスに火がついたかのような焦りに駆られたけれど、あの子はすぐに帰ってしまって結局会うことができなかった。

 だからなおさら、焦りが募った。
 このままでは、この後悔を一生抱えていかなければならないかもしれない。

(ちゃんとあの子に謝らなければ)

 手紙とかではなく、ちゃんと会って謝りたかった。
 でも、普通に会いたいと言ってもあのアレスのことだからにべもなく断られそうな気がする。イグニスは手を貸そうかと言ってくれたけれど、自分の不始末なのだから自分の力でなんとかしたかった。
 そして、いつどうんなふうに機会を作ろうかと考えながら一月ほど過ごしたある日のことだった。


 レイラに誘われたお茶会で訪ねたフェン子爵家の屋敷の廊下で、偶然アレスを見かけたのだった。



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