僕はバス停だから、

結城鹿島

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 僕が彼女に初めて会った頃、僕は今より体の錆が少なかった。まるで子供みたいだったと思う。
 彼女だって子供だったから、付き合いは古い。
 母親に連れられて僕の元へやってきた彼女はとても小さくて、お人形さんみたいだった。時刻表を読もうと、必死に背伸びを繰り返している間、僕はずっとにこにこしていた。見てもそれがバスの到着する時間だってことは、分からないだろうに、飽きずに背伸びを繰り返していた。
 この路線の先にある植物園に遊びにいくつもりだということが、彼女と母親の会話でわかった。
 普段は自家用車での外出だが、父親の急な仕事で免許を持っていない母親が仕方なくバスを選んだということも知れた。確かに、それまで二人を見たことがない。彼女は父親の不在を残念がるよりも、初めてのバスに無邪気にはしゃいでいた。
『バス停では騒いじゃだめよ。他の人の迷惑になるから』
 楽しい家族三人のお出かけは一転、初めての公共交通機関でのマナー教室になったらしい。彼女の母親はそれはそれは丁寧に、バスに乗る時はどうすべきかを娘に教えていた。
 彼女はまだ新しいのだろう、ピカピカの兎のバックをにこにこ眺めていた。母親の話なんてろくに聞かずに。

 そして、時刻表通りにバスが来た。
 バスのステップを上る彼女の背を見ながら、僕は自分自身を誇りに思ったのだった。
 僕が、彼女にとっての初めてのバス停になれたことは、一生忘れない。



 それからしばらくの間、彼女には会えなかった。
 バスは日常的に使う人間が決まっている。自分で車の運転できない人や、車を運転する家族のいない人たち。田舎では少数派の人々。ここでは、バスに乗る人より、僕を通りすぎる人の数の方が圧倒的に多い。
 自分が都会や観光地のバス停だったら……なんて、何度も空しい想像をしたものだ。
 ただ立ち尽くすだけの日々は空しい。アルミパイプの身体に風が沁みた。
 再会が叶ったのは、彼女が小学校に入学してからだ。
 僕の立つ土手と畑に挟まれたこの道が、小学校への通学路だったのだ。
 朝は同じ地区の子供たちと一緒、帰りは彼女一人。
 僕の前をただ通り過ぎるだけの六年間。
 それでも僕は、彼女の姿を見ることができて幸福だった。
 僕の元へバスに乗るために訪れるようになったのは、中学校に通うようになってからだ。この辺りは田舎なうえに合併だなんだで、歩いて通学するには中学校は遠いのだ。
 待合スペースを持ち、バスが来るまでの時間が電光掲示板で表示されるような都会のバス停に憧れたのは過去のこと。
 僕は、そんなことは思わなくなっていた。
 バスが止まるならそれでいい。
 バスが止まるなら、彼女は僕のところへ来てくれる。
 僕に停まるバスの本数は多くない。朝と夕方の時間帯に数本あるだけ。
 彼女と同じバスを待つ乗客は他にいなかった。
 だから平日の朝、彼女がバスに乗るまでの僅かな時間が僕の宝物だった。



 僕の体に錆が増えるごとに、彼女の姿は変わっていく。
 小学校の頃は耳が隠れる程度の長さだった髪は徐々に伸びて、背中の半ばで切り揃えられるのがお決まりに。日ごとに伸びたように思える背丈は、平均より少し低いくらいで止まった。
 それでも彼女はもう僕を見上げなくても、きちんと時刻表が読める。
 毎朝決まった時間のバスに乗るので、彼女が時刻表を見たのは短い間だけだったけれど。僕の胸は弾んだものだ。
 バスのヤツがたまに遅れると僕は小声で礼を言う。心配そうに彼女が何度も時刻表を確認するから。改めて真正面から見つめられると、いつも背筋がムズムズする。

 中学三年生の冬、めでたく彼女はバスを使って通える高校に受かった。



 高校生になった彼女のその面差しは、いつかの彼女の母親に少し似ている。随分と大人びた顔をするようになった。
 いや、正確にいうなら大人びたというのは違う。大人と同じように疲れた顔をするようになったのだ。きっと、毎日彼女を見ている僕にしか分からないだろうけれど。
 理由は、分かっている。受験とやらのせいだ。
 彼女の近所に住んでいるらしいおばさん達が、バスを待つ間に騒がしく話していた。
 ――榎本のお嬢さんはもうすぐ大学受験よね。大変よねぇ。
 そう、そういえば、榎本唯子というのが彼女の名前だ。高校生になってから、名札を付けなくなったのでたまに忘れそうになる。バス停である僕は、バスの到着する時刻以外にはあまり細かいことを覚えていられないのだ。悲しいことに。

 彼女は今年三年生になってから、一本バスを遅らせるようになった。
 それまでは余裕を持って早めのバスに乗っていたのに、どうやら起きられなくなったみたいだった。いままで乗っていた時間に間に合わないことが続いた。
 バスを待つ時間が減るのは嫌なので、彼女の選択はありがたい。下校の時は反対路線を歩くし、夕闇のせいで彼女の顔がよく見えないので、朝の時間が多い方が僕は嬉しい。
 ただ、彼女は自分を責めているようだった。
 人間には早起きが美徳とされているのは、僕もなんとなく理解している。
 受験とやらが、どれだけ大変なのか僕にはよくわからない。
 中学生の時も経験したことだと思うのだが、これほど彼女が疲れた顔をした覚えはない。
 とにかく彼女の笑顔が見たかった。
 兎のバックでお出かけしたあの日のように。輝く笑顔が見たかった。

「あまり無理はしないで下さいね」
 僕はそっと声をかける。

――ありがとうございます、大丈夫ですから。

 彼女からの返事はない。



 この夏から、僕でバスを待つ客が彼女の他にもう一人増えた。
 彼女とは違う高校の制服を着ている男。確か、何年か前にも同じ制服を着ていた乗客がいた。彼女の高校より、停留所四つ分遠い高校だったはず。
 乗り遅れるのが怖いのか、男は余裕をもって僕のところへやって来る。  
 彼女は男より遅くやってきて、幼い頃母親に教えられた通り、先客の後ろに行儀よく並ぶ。それは正しいことで、仕方ないことだ。
 しかし、男のしっかりとした体格は彼女を覆い隠してしまう。まるで、僕と彼女を遮る衝立のように。
 僕は男に宝物を汚されたような気分になった。
 大きな背に隠されて彼女の顔が見えないじゃないか。
 ほんの僅かな時間しか、僕は会えないのに。
 
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