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第6章 ショートにする覚悟と変化
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鋏の音が静かに部屋に響いていた。
湊人がクロスの上に落ちた髪を手際よく払うと、瑞希はふと、足元に積み重なった栗色の髪の束を見つめた。「これが、何年も伸ばしてきた私の髪……」と心の中で呟く。どこか遠くから自分を見ているような、不思議な感覚だった。
「最初に長さを落としてから、細かく整えていきますね」
湊人の声が現実に引き戻してくれる。
鏡に映る自分は、もうポニーテールもできない肩上の髪型に変わり始めていた。
「昔はずっとショートだったんですよ」
自分の声は思いのほか落ち着いていた。
湊人は集中した表情で、髪をブロッキングしながら順に丁寧に切っていく。耳のすぐ上、襟足のライン、横顔の曲線――彼の手つきからは、迷いも不安も伝わってこない。
「理容師さんって、こうやって切ってる時、どんなこと考えてるんですか?」
瑞希はふと口にした。
「その人が一番綺麗に見える角度とか、普段どんな風に動くのか、とかですね。あとは、髪を切ることで少しでも前向きな気持ちになってくれたらいいな、って思います」
「……素敵なお仕事ですね」
湊人は微笑み、手早く髪の量感を調整し始めた。
「後ろ、少しだけ丸みを出しますね。女性らしさが出やすいので」
「お願いします」
カットが進み、耳元に冷たい空気が触れる。瑞希は一瞬、ぞくりとした。けれど同時に、重たかったものが肩からふわりと抜けていくような、清々しい気分も混じっていた。
「前髪はどうしましょう?」
「今まで長くしてたけど……今回は眉にかかるくらい、軽く流せる感じで」
「かしこまりました」
湊人は前髪に霧吹きで水をかけ、慎重に形を作っていく。鋏の動きとともに、目元がぱっと明るくなった。
「これくらいだと、表情がすごく見えやすくなりますね」
「ほんとだ……ちょっと、若返った気分」
真理子が横で微笑んでいる。「湊人、本当に上手になったわね」とそっと呟く。
「お母さんにも毎週鍛えられてますから」と湊人が照れくさそうに返し、三人で小さな笑いが生まれる。その温かい空気が、瑞希の心にじんわりと染み込んでいく。
後頭部にレザーが当てられる。「襟足は少しすっきり目にしておきますね」
「刈り上げ、って感じには……?」
「自然なグラデーションで仕上げますので、女性らしさはちゃんと残しますよ」
瑞希は小さくうなずいた。
バリカンではなく、シェーバーの静かな振動音が首元をかすめる。まるで羽毛でなでられているような感触だった。
「こんな風に襟足を整えるの、初めてです」
「理容室ならではですね。白衣に毛が付かないように、母にもよく頼まれるんです」
梳き鋏で全体にふんわりと軽さが加わり、湊人が最後の毛束を整え終える。
「仕上げにシャンプーをしますね。後ろのシンクでどうぞ」
クロスを外してもらい、瑞希はそっと椅子から立ち上がった。足元には、まるで小さな動物のように積もった自分の髪。
「髪を切るって、不思議ですね……なんだか、今までの自分とさよならしたみたい」
「新しい春にぴったりのスタートですね」
湊人の言葉に、瑞希ははにかみながらうなずいた。
シャンプー台の椅子に腰かけ、背中を預ける。
湊人の指が頭皮を優しくマッサージする。「ちょっと強めが好みですか?」
「うん、お願いします」
泡立つ香りが心をほぐし、目を閉じると肩の力が抜けていく。
「今度は娘も連れてきてもいいですか?」
「ぜひ。お母さんの覚悟、きっと伝わりますよ」
シャンプーが終わり、タオルで優しく水気を拭き取ってもらう。ドライヤーの温風がふんわりと頬をなで、湊人のブラシの音が心地よく響く。
「できました。鏡でご覧ください」
瑞希は立ち上がり、大きな鏡の前に並んだ。
そこに映るのは、見慣れないほど明るい表情の自分。首筋がすっきり見え、耳元で髪が弾む。
「私……思ったより、悪くないかも」
真理子が後ろから肩をそっと叩いた。「素敵よ、瑞希さん。すごく似合ってる」
「ありがとうございます……ほんとに、ありがとうございました」
帰り支度をする間も、足元の軽さが新鮮だった。
湊人は「料金はいいですよ。また気が向いたら来てください」と微笑んだ。
玄関で靴を履きながら、瑞希はふと振り返った。
「私、娘にどう思われるかな……でも、もう迷わない」
帰り道。
星がまたたく夜空の下、瑞希は心の底から不安よりも希望を感じていた。
「大丈夫。きっと、夏音にも伝わる」
そう呟きながら、新しい自分を胸に刻んで家路についた。
家に帰ると、塾帰りの夏音が玄関で待っていた。
「お母さん……どうしたの、それ?」
「髪、切ってきたの。どうかな?」
「……似合ってるよ」
言葉少なに、夏音は母の新しい髪型をじっと見つめていた。
その夜、二人で遅い夕食を囲むテーブルには、これまでよりも柔らかい空気が流れていた。
湊人がクロスの上に落ちた髪を手際よく払うと、瑞希はふと、足元に積み重なった栗色の髪の束を見つめた。「これが、何年も伸ばしてきた私の髪……」と心の中で呟く。どこか遠くから自分を見ているような、不思議な感覚だった。
「最初に長さを落としてから、細かく整えていきますね」
湊人の声が現実に引き戻してくれる。
鏡に映る自分は、もうポニーテールもできない肩上の髪型に変わり始めていた。
「昔はずっとショートだったんですよ」
自分の声は思いのほか落ち着いていた。
湊人は集中した表情で、髪をブロッキングしながら順に丁寧に切っていく。耳のすぐ上、襟足のライン、横顔の曲線――彼の手つきからは、迷いも不安も伝わってこない。
「理容師さんって、こうやって切ってる時、どんなこと考えてるんですか?」
瑞希はふと口にした。
「その人が一番綺麗に見える角度とか、普段どんな風に動くのか、とかですね。あとは、髪を切ることで少しでも前向きな気持ちになってくれたらいいな、って思います」
「……素敵なお仕事ですね」
湊人は微笑み、手早く髪の量感を調整し始めた。
「後ろ、少しだけ丸みを出しますね。女性らしさが出やすいので」
「お願いします」
カットが進み、耳元に冷たい空気が触れる。瑞希は一瞬、ぞくりとした。けれど同時に、重たかったものが肩からふわりと抜けていくような、清々しい気分も混じっていた。
「前髪はどうしましょう?」
「今まで長くしてたけど……今回は眉にかかるくらい、軽く流せる感じで」
「かしこまりました」
湊人は前髪に霧吹きで水をかけ、慎重に形を作っていく。鋏の動きとともに、目元がぱっと明るくなった。
「これくらいだと、表情がすごく見えやすくなりますね」
「ほんとだ……ちょっと、若返った気分」
真理子が横で微笑んでいる。「湊人、本当に上手になったわね」とそっと呟く。
「お母さんにも毎週鍛えられてますから」と湊人が照れくさそうに返し、三人で小さな笑いが生まれる。その温かい空気が、瑞希の心にじんわりと染み込んでいく。
後頭部にレザーが当てられる。「襟足は少しすっきり目にしておきますね」
「刈り上げ、って感じには……?」
「自然なグラデーションで仕上げますので、女性らしさはちゃんと残しますよ」
瑞希は小さくうなずいた。
バリカンではなく、シェーバーの静かな振動音が首元をかすめる。まるで羽毛でなでられているような感触だった。
「こんな風に襟足を整えるの、初めてです」
「理容室ならではですね。白衣に毛が付かないように、母にもよく頼まれるんです」
梳き鋏で全体にふんわりと軽さが加わり、湊人が最後の毛束を整え終える。
「仕上げにシャンプーをしますね。後ろのシンクでどうぞ」
クロスを外してもらい、瑞希はそっと椅子から立ち上がった。足元には、まるで小さな動物のように積もった自分の髪。
「髪を切るって、不思議ですね……なんだか、今までの自分とさよならしたみたい」
「新しい春にぴったりのスタートですね」
湊人の言葉に、瑞希ははにかみながらうなずいた。
シャンプー台の椅子に腰かけ、背中を預ける。
湊人の指が頭皮を優しくマッサージする。「ちょっと強めが好みですか?」
「うん、お願いします」
泡立つ香りが心をほぐし、目を閉じると肩の力が抜けていく。
「今度は娘も連れてきてもいいですか?」
「ぜひ。お母さんの覚悟、きっと伝わりますよ」
シャンプーが終わり、タオルで優しく水気を拭き取ってもらう。ドライヤーの温風がふんわりと頬をなで、湊人のブラシの音が心地よく響く。
「できました。鏡でご覧ください」
瑞希は立ち上がり、大きな鏡の前に並んだ。
そこに映るのは、見慣れないほど明るい表情の自分。首筋がすっきり見え、耳元で髪が弾む。
「私……思ったより、悪くないかも」
真理子が後ろから肩をそっと叩いた。「素敵よ、瑞希さん。すごく似合ってる」
「ありがとうございます……ほんとに、ありがとうございました」
帰り支度をする間も、足元の軽さが新鮮だった。
湊人は「料金はいいですよ。また気が向いたら来てください」と微笑んだ。
玄関で靴を履きながら、瑞希はふと振り返った。
「私、娘にどう思われるかな……でも、もう迷わない」
帰り道。
星がまたたく夜空の下、瑞希は心の底から不安よりも希望を感じていた。
「大丈夫。きっと、夏音にも伝わる」
そう呟きながら、新しい自分を胸に刻んで家路についた。
家に帰ると、塾帰りの夏音が玄関で待っていた。
「お母さん……どうしたの、それ?」
「髪、切ってきたの。どうかな?」
「……似合ってるよ」
言葉少なに、夏音は母の新しい髪型をじっと見つめていた。
その夜、二人で遅い夕食を囲むテーブルには、これまでよりも柔らかい空気が流れていた。
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※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
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