漆黒鴉学園

三月べに

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7巻

7-2

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 告白直後は高揚感と幸福感から、素直に喜び、音恋に笑いかけていた黒巣。だが、元の通りに落ち着いてしまったようだ。
 少しの嫉妬しっとさえも認めたくないのか、黒巣はそっぽを向く。
 音恋はこっそり笑った。そんな黒巣も好きなのだ。彼には音恋の誕生日である十月三十一日に告白の返事をすると伝えている。それまでに、ヴィンセントにも返事をする必要があった。


 十月二十八日の月曜日。夜中は雨が降り続いたが、朝になって止んだ。
 今朝も、音恋の隣に黒巣が座る。他愛のない話をして朝食をとったあと、黒巣は残り、音恋は部屋に戻ろうとした。

「あっ……」

 ラウンジを出るところで、桃塚と鉢合わせする。目が合った瞬間、彼の顔が引きつったのを音恋は見逃さなかった。

「おはよう、音恋ちゃん」

 ほんの少し緊張を帯びた可愛らしい笑みで、桃塚は数日ぶりの挨拶あいさつをした――いつもとは違う呼び方で。

「……おはようございます」

 音恋も挨拶あいさつを返した。桃塚はニコッと笑うと、彼女の横を通って朝食の席に向かう。
 音恋は走るように女子寮へ戻った。
 部屋に戻った音恋は、ドアを閉めた途端、崩れ落ちる。そして震える両手で口元を押さえた。
 わかっている。もう元には戻らない。以前のように呼ばれることも、もうない。
 桃塚は想いを断ち切るために、音恋と距離をおきたいのだ。
 彼には時間が必要。
 わかってはいるが、家族のように寄り添ってくれていた桃塚が離れるのは、辛くて痛い。
 一人、声を殺して泣くしかなかった。

「宮崎」

 名前を呼ばれて音恋は震え上がった。独りぼっちのはずが、自分を呼ぶ相手がいる。
 見れば、窓の外に黒巣がいた。

「入っていいか?」
「……はい……」

 ポカンとしながらも音恋は許可を出す。黒巣は窓辺の花瓶を退かすと、「よいしょ」と言って音恋の部屋に入った。

「……で、大丈夫かよ」

 意味もなく部屋を見回したあと、黒巣はぶっきらぼうな言葉をかける。なみだに濡れた目を丸くして、音恋は黒巣を見上げて言った。

「……また、言ったね」
「……?」
「私が階段から突き落とされた時も、アメデオがこの学園に来た時も、君は〝大丈夫かよ〟って言ってくれたよね」
「……そうだっけ?」
「そうだよ、ぶっきらぼうに……大丈夫かよって……」

 黒巣は考え込んでいるが、自分の台詞セリフまでは細かく覚えていないらしい。
 しかし本人が覚えていなくとも、音恋は微笑みをこぼす。先日ラウンジでうつむいていた時も、彼はその言葉で音恋の様子をうかがった。
 あの時――音恋が階段から突き落とされた時から、黒巣は変わらない。
 変わらず彼女を想い、見守ってくれている。

「……どうして君は、いつもそばにいてくれるの?」

 まばたきをした拍子になみだが落ちたが、音恋は穏やかに微笑んだまま問う。嬉しそうな微笑みに、黒巣の心臓がドキッと跳ねた。

「……どうしてって……」

 黒巣は口ごもり、ほんのりと頬を赤らめてそっぽを向く。

「前に屋上で言った言葉、本当はあれ、君のことなんでしょ。たとえ桃塚先輩と交際してるって勘違いしてても、ヴィンス先生は必ず助けてくれるって。それぐらいで私に対する気持ちは変わらないって……あれ、自分のことを言ってたんだよね?」
「……それ、今は関係ないだろ」

 音恋に真意を見抜かれ、黒巣は顔をゆがませた。だが否定はせず、頬をさらに赤くする。

「絶対に不幸せなんかにしない、アンタを幸せにしてやるからって言葉も……本当に救われたよ」
「だから、今は関係ないだろっ……っ」

 真っ赤になった黒巣は、声を荒らげる。
 そんな彼にすっかりいやされた音恋は、ポンポンと床を叩いた。

「座って」
「あ、うん……」

 音恋に言われるがまま、黒巣は床に腰を下ろして胡座あぐらをかく。
 すると、音恋は身を乗り出し、黒巣の脇の下にするりと腕を入れ、そのまま抱き締めた。
 密着した途端、黒巣は身体を強張こわばらせる。しかし音恋は、むぎゅうときつく締め付けた。

「い、いきなり……なんだよ」

 戸惑う黒巣に、音恋が言い返す。

「自分を棚に上げないの」
「あれは……勢い余っただけだし」

 以前、黒巣は音恋の許可を得る前に、抱き締めたり頬にキスをしたりした。そんな彼の好き好き攻撃も、しばらくはなさそうだ。音恋は黒巣の胸に顔を押し付け、速い鼓動を感じて静かに笑う。

「黒巣くん、なんか冷たい」
「飛んできたから」
「……ありがとう」
「別に」

 やがて、頬を染めた黒巣が音恋を抱き締め返した。
 黒巣の制服も、その手も冷たい。
 音恋を心配して、文字通り飛んできてくれたことに、音恋は感謝する。
 少し速い彼の鼓動を聞きながら、音恋は何度も見た悪夢を思い出す。夢の始まりは、白い光が雪のように降り注ぐシーン。その夢を見ている時に感じた、冷たい心地よさがよみがえった。
 けれど凍えることがないのは、音恋自身が温かいからだ。それに黒巣に包まれているから、胸の中にじんわりと温かさが広がる。揺りかごのようで眠りたくなるが、学校に行かなくてはならない。

「学校に、行かなくちゃ」
「……うん」

 返事をしつつも、黒巣には音恋を離す気配がなかった。
 音恋はただ黒巣の心音を聞く。

「……宮崎、あんまり他人を気遣うな……って、言っても無理だよな」
「……他人なんて、気遣ってないよ。私は自分のことばかり」
「嘘つくなよな。先輩は確かに傷付いたけど、お前も傷付いてるじゃん。俺が代わりにアンタを気遣ってやるから、独りになるなよ」

 黒巣は音恋の髪を冷たい手ででた。その手が優しさを注いでいるように感じて、音恋はまたなみだこぼす。

「頑張れって言うのは、なんか違うかもしれないけど……その、辛かったら、また抱きついてもいい。許可するから」

 ボソボソと黒巣は伝えた。
 素直になりきれない不器用な言葉だったが、それで十分だ。

「黒巣くん、ずるいよ。――……今、言いたくなる」

 まだヴィンセントに返事をしていないのに、先に黒巣に返事をしてしまいたい。好きだと、言いたくなってしまった。
 素直になりきれず不器用な優しさを注ぐ彼も、素直に笑いかける彼も、全部好きだ。
 音恋が辛くなったら、いやすように包み込んでくれる。そんな黒巣を、むぎゅうとまた締め付けた。

「……俺だって……言わせたくなる」

 音恋の頭に頬を付けて、黒巣が呟く。
 今すぐにでも返事を聞きたいが、順番がある。黒巣は最後だ。

「……宮崎、遅刻するぞ」
「じゃあ……離して」
「宮崎が離せよ」
「黒巣くんが先」
「アンタが先」

 お互い一向に離れようとしない。このままでは音恋が部活の朝練に遅刻してしまう。
 黒巣はぎゅう、と力いっぱい小さな身体を抱き締めた。

「宮崎――……好き」

 音恋の左耳にそうささやく。頬を赤くした音恋は、黒巣の胸に顔を押し付けた。

「反則だってば……」

 こうしてもうしばらくの間、二人は抱き締め合ったのだった。


   四話 既視感きしかん


「……行かなくちゃ」

 ポツリと呟くと、黒巣くんがひょいっと立ち上がって私を立たせてくれた。それでもまだ私を離さない。
 彼が私の言葉を待っているように感じられて、もどかしい。好きだよ、大好きだよ、って本当は言いたかった。
 でも私は随分前から待たせてしまっているヴィンス先生に、先に返事をしなければならない。両想いの幸せに浸るのは、そのあとだ。それが礼儀だと思う。

「黒巣くん、ありがとう」
「……あのさ、宮崎」
「ん?」
「……今日……一緒に」

 黒巣くんが何かを言いかけた。
 一緒に登校しよう? それとも下校しよう?
 どっちなのかわからず、その顔を見上げる。とても距離が近くて、頬が熱くなった。

「……いや、もう離せよ。俺、我慢してるんだからな」
「私も我慢してる」
「……何を我慢してるか、わかってないだろ」

 黒巣くんは、むすっと唇を尖らせつつも、熱っぽい眼差まなざしで私を見下ろした。その時――
 コンコン。
 ノックの音が聞こえて、私も黒巣くんもビクリと震える。
 たぶん、部活仲間の紅葉もみじちゃんだ。時々一緒に行こうと誘いにきてくれる。
 黒巣くんは黒い羽根をき散らして鴉の姿になり、窓から飛び去った。
 ひらりと落ちた一枚の羽根をてのひらに載せる。それはすぐに崩れ落ち、雪が溶けるように消えていった。

「……」

 再び、悪夢のことが頭に浮かぶ。何度も見たそれは、色んな映像が走馬灯そうまとうのように流れ、最後にはこの右手が真っ赤になって自分が死ぬというものだった。だからといって、いつまでも右手を見ていたって仕方がない。
 私は部屋を出て、紅葉ちゃん達と一緒に登校した。
 部室に向かう途中で、ヴィンス先生について考える。放課後に寮へ帰ってから、電話して都合のいい時間をうかがおう。

「あ、音恋。おっはよー」
「おはようございます、紫織さん」

 東間紫織さんとすれ違ったので挨拶あいさつした。今日も美しい紫色の髪をなびかせている。
 なんとなく、その髪を目で追う。雪女で体育教師の雪島ゆきしま先生とはまた違う、美しくて強い女性。部活仲間の紅葉ちゃん達も「素敵」と漏らしている。
 私は、じっと紫織さんの後ろ姿を見つめた。

「どうかした? 音恋」

 そう声を掛けてきたのは、同じ部活のきょんくんこと園部暁そのべきょうくんだ。

「……なんか、デジャブを感じて……」

 黒巣くんと別れてから、妙な既視感きしかんが付きまとっている。
 ……いや、今はヴィンス先生のことに戻ろう。一緒にいるところを紫織さんに見られてはまずいので、寮に来てもらうか、誰もいない時に屋上に来てもらうしかない。
 返事をしたあと、桃塚先輩は今にも泣いてしまいそうなほど、苦しげな笑みを浮かべていた。その顔を思い出すだけで、自然と足が重くなる。
 薔薇ばらでるみたいに私に尽くしてくれたヴィンス先生。先生には、私がいなければ生けていけないようなあやうさがある。だから、なおさら反応が怖い。
 きっと私の想像以上に傷付くだろう。そう考えただけで薔薇ばらとげに刺された時に似た痛みが走る。
 どうか、彼の心が壊れませんように……――


 チャイムが鳴り響く放課後。
 少し躊躇ちゅうちょしながらも、携帯電話を開いてヴィンス先生のメールアドレスを表示させる。そしてメールを打っていたら、サクラと橙先輩が机に手をついて見下ろしてきた。
 生徒会会計で二年生の橙空海先輩。彼は人間と狼人間のハーフだ。

「ネレンの誕生日祝いに、先輩であるこの俺がおごってやる! 今からどっか食べに行こうぜ!」
「どこ行く? あ、ネレンはお好み焼きが好きだよね、お好み焼き食べに行こう! ねっ!」

 誕生日は約束があるだろうから今日祝ってやる、と言わんばかりに橙先輩が胸を張る。サクラは私の意見を聞かず、お好み焼きに決めた。ま、好きなのでいいですが。

「三人で行くのですか?」
「おう、三人だ!」

 なんとなくリュシアンの席に目を向ける。もう帰ったのか、彼はそこにいなかった。いても橙先輩が嫌がるだろうし、リュシアン自身も拒否するだろうから、誘いはしないけど。
 それにしても、何故三人なのでしょう。
 ちょっと疑問に感じてこうとしたら、携帯電話の画面が着信画面に変わる。黒巣くんからだ。
 その画面が目に入った二人は、しゃがみ込んで机にあごを乗せる。まるで〝待て〟をされた犬みたいです。
 通話ボタンを押すと、黒巣くんの声が聞こえてきた。

〔もっしもーし。行ってやれよ、アンタが落ち込んでるのを見かねて誘ってんだろ〕

 私達の会話を聞いていたような発言。周囲を見回すと、教室のドアの向こうに黒巣くんがいた。携帯電話を耳に当てて、こちらを見ている。
 どうやら橙先輩達は、桃塚先輩の件を察して、誕生日祝いを口実に誘ってくれたらしい。

〔でもそのせいで、橙先輩の仕事までやらなくちゃいけないんだぜ、俺〕
「うっせ、ナナ」

 耳のいい橙先輩が、私の携帯電話に向かって言う。どうやら生徒会の仕事を、黒巣くんが代わりに引き受けてくれたらしい。黒巣くんのほうから提案したのかな。

「うん……じゃあ、今日の部活は休むことにする」

 しばらくは文化祭の反省会が続くと言っていたし、今日だけは休ませてもらおう。
 行くと返事をしたら、サクラも橙先輩も目を輝かせた。

〔いってらっしゃい、楽しめよ〕
「……うん」
〔じゃあ〕
「あ、あのね」
〔ん?〕

 優しい黒巣くんの声。ふと教室の外を見ると、黒巣くんの姿はすでになかった。

「……仕事、頑張ってね」
〔おう、じゃあな〕
「うん……じゃあね」

 笑いを含んだ声を最後に、静かに電話は切れた。私は携帯電話を見つめてから、顔を上げる。すると私を見ていたサクラと橙先輩が、勢いよく視線をらした。
 そわそわしてるところを見ると、何かきたがっているみたい。まぁ、それはさておき――

「保健室に寄ってもいいですか?」
「怪我か? 病気か?」
「いえ、笹川先生と話したいだけです」

 心配する橙先輩に、ただ話があるのだと答えておく。
 そして私は演劇部の部長に電話をかけ、サボりますって堂々と告げた。文化祭を無事に終えて燃え尽きている部長は「いいわよいいわよー、愛しのヒロインちゃんー」と酔っぱらったような声で許可してくださった。舞台の評判が良かったから、ご機嫌です。
 保健室に向かった私は、笹川先生からリュシアンの件を聞いた。今はヴィンス先生が見張ってくれているそうです。

「休日も怪しい動きはなかったそうだ。逆に、なんだか消極的に感じると言ってたな」

 カチカチとボールペンを鳴らす笹川先生が、ヴィンス先生からの報告を教えてくれた。

「消極的に?」
「いつもの余裕ぶった笑みがないって、不審に思ってるらしい」
「……そうですか」

 椅子にもたれて腕を組む笹川先生。そんな彼から目をらして、今日のリュシアンの様子を思い返す。読書もせず、窓の外ばかり見ていた気がする。それにあの雨の夜以来、一度も私に話しかけてこない。

「一体、何を考えているのでしょう……それとも迷っているのかな……話すべきでしょうか?」

 相談してみると、笹川先生が目を見開いた。

「……音恋ちゃんは本当に優しいな」
「……優しくなんか、ありません」

 傷付くとわかっている言葉を桃塚先輩に告げたし、ヴィンス先生にも告げるつもりなのだから、優しくなんかない。私のエゴです。

「せめて、何をたくらんでいるのかさえわかれば……止められるのですが」

 うつむきながら、今までの会話の中にヒントがないか探した。リュシアンは私に止めてほしそうに、いろんなことをほのめかしていた。きっと何かあるはずだ。
 先日は赤神淳先輩の両親にちょっかいを出すという不審な行動もしていたらしい。赤神先輩の父親は純血の吸血鬼で、母親は人間。その母親が泣かされたそうで、赤神先輩は相当怒っていた。でも先輩のご両親は、リュシアンに何をされたのかかたくなに話そうとしないのだとか。

「……そういえば、欲しいうさぎが二匹いるのならば……二匹を同じ方へ追い込んで手に入れると言っていました」

 リュシアンが言う二匹とは、私とアメデオのことだ。私とアメデオを同じ方へ追い込むとは、どういう意味なのだろうか。

「大丈夫だよ、ネレン」

 思案にふけっていたら、椅子に座ってクルクル回っていたサクラが止まり、私に笑いかけてきた。

「リュシアンはネレンを友達と思ってるんだから、悪いことはしないよ!」

 にっこりと明るく笑うサクラ。リュシアンが友人である私を傷付けたりしない、と本気で信じているところがサクラらしい。
 笹川先生の手が伸びてきて、ポンポンと私の頭をでた。リズミカルに跳ねるような、私の好きなで方。

「それに、もう何も悪いことは起こさせない。俺が――俺達が阻止して音恋ちゃんを守る。大事な可愛い生徒だ、これ以上傷付けさせない」

 無精髭ぶしょうひげの生えた顔に甘い笑みを浮かべる白衣の男性。ただでさえ大人の色気がだだ漏れなのに、そんな優しげな眼差まなざしで生徒を見ないでください。

「俺達に任せて、遊びに行ってこい」

 リュシアンの件は気にせずに、と笹川先生がうながす。

「しっかし……ご両親にも言ったが、音恋ちゃんは本当に元気になったな。最近、怪我や体調不良で保健室に来ないじゃないか。いいことだが、ちょっと寂しいな。文化祭の疲れも残ってないんだな?」
「その節はどうもありがとうございました。体調は良好です、今朝もちゃんと食べましたし」

 笹川先生は、私の額に手を当てて熱をはかる。今朝、魔法のお薬――もといヴィンス先生のチョコを口に入れたから、全然体調は悪くない。今日はいつもより血が多めだったようだ。文化祭の疲れも、黒巣くんが私を嫌っていないとわかって吹き飛んだ。

「元気で何よりだ。楽しんでこい、桜子ちゃんもカイも」
「はーい!」
「言われなくとも楽しむっつーの」
「失礼しました」

 笑顔で手を振る笹川先生に、私とサクラは手を振り返す。橙先輩だけツンとした態度で保健室を出た。
 以前、桃塚先輩に連れていってもらったというお好み焼きのお店に、橙先輩が案内してくれる。

「お好み焼きだー!」
「お好み焼きー!」

 人気ひとけのない住宅街を歩く先輩とサクラは、はしゃいでいた。……貴方達が食べたいだけですね。
 二人とも歩調が早くて、私との間に距離が開いていく。
 桃塚先輩にお好み焼きをご馳走になった時の話をする橙先輩。その隣を歩いていたサクラが私に気付き、足を止めて待ってくれた。
 何故だろう。
 初めて通る道なのに、前にも来た気がしてしまう。
 サクラが私の方を振り向き、橙先輩の背中が遠ざかる光景。前にも見た気がする。
 ここが前世でやり込んだゲームと同じ世界でも、デジャヴなんてあまり感じないのに妙だ。
 ――……あ。
 その時、ずっと付きまとっていた既視感きしかんの原因に気付いた。
 白い光が降り注ぐシーンから始まる悪夢。その断片的なシーンの一つに、今視界に映っているのと同じ光景があったんだ。
 紅葉ちゃん達と一緒に登校するシーンも、紫織さんとすれ違うシーンも、確かにあの悪夢の中にあった。つまり悪夢ではなく、あれは……
 そこで、一人先を歩いていた橙先輩も足を止めた。
 ビクンッ!
 震え上がった橙先輩の髪が、橙色に色付いて、狼の尾と耳が現れる。いくら人気ひとけがないとはいえ、住宅街でその姿はまずい。私が注意しようとしたら――

「――逃げろっっっ!! サクラ! ネレンっ!!」

 青い顔で振り返り、耳を突き刺すような怒号を飛ばした橙先輩。その言葉の意味を理解する前に、私は後頭部に衝撃を受ける。そこでプツリと意識が途切れた。


   五話 弱虫のゼロ ~橙空海~


 出会いは二年前だった。

「おい、人間! ここにいると狼に食われるから出てけ!」

 人間が寄り付かない山奥にもかかわらず、一人の男が立って煙草を吸っていたから警告した。
 その男は尻尾しっぽと耳を出したままの俺を、ポカンとした間抜まぬづらで見下ろす。

「あー……そうか、狼か。サンキュ、教えてくれて」

 男は煙草の煙を吐いて周りを見回すと、しゃがんで俺と視線を合わせた。その時の俺は、ネレンくらい背が低かったのだ。

「お前は狼なのに、人間に優しいな。噂で聞いたことがあるんだが、もしかして、お前が人間と狼のハーフか?」

 それが笹川仁との出会いだった。弟子達を訓練がてらキャンプに連れてきていたらしい。
 狼人間は獰猛どうもうで、野蛮で、残忍。半分人間の血が流れている俺は、そんな奴らが大嫌いだった。奴らと同じ血が流れてるってだけで、自分に嫌悪感を抱いていた。
 ずっと嫌いだった。大嫌いだった。でも、俺にはどこにも行く宛てがない。『弱いこと』を理由に奴らからいくらしいたげられても、逃げれば殺されるから、そこにいてえるしかなかった。
 笹川仁が――……俺に手を差し伸べるまで。
 世界が変わったと思えた。学校とか、教室とか、勉強とか、寮とか、友達とか――初めてのこと、素直に受け止めきれないことばかりで不安だった。
 でも期待もあって、なんだか妙な感じだった。
 親しい奴らと笑い合う日々の中で、好きな奴までできて、自分が変わったと実感できた。
 なのに……離れたくとも断ち切りたくとも、付きまとう。それが俺にとっての〝家族〟。最悪で、最低な家族。


 ドサッと崩れ落ちたネレンの後ろに立つのは、金髪の男。一生嗅ぎたくなかった匂いの持ち主。そいつがニヤリと嫌な笑みを浮かべて俺を見る。

「いっ……いちっ……!」

 匂いを嗅いだだけで、反射的に尻尾しっぽが出る。の当たりにするだけで、戦慄せんりつする。俺は情けないほど震えてしまった。

「ネレン! きゃあ!?」

 ネレンに駆け寄ろうとしたサクラが、塀の上から降ってきた女に取り押さえられる。分け目をジグザグにした短髪の女は、さんだ。

「おいおい。笹川仁に教わんなかったのかぁ? 俺のことは――……親父、って呼ぶんだろ? あ゛ぁっ?」


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