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しおりを挟むICカードを改札口に押し当てて、ゲートを通る。
奈恵の左手の手首に、圭介からもらった白いシュシュがある。
使いやすいヘアブラシが圭介の家に無かったために、髪を綺麗に束ねられなかった。バッグにしまうのも嫌で、身に着けていたかったから手に巻いた。
動作すると、パールの飾りが小さな音を立てる。
その手を圭介の右手が握っている。
すれちがう女子高生が、圭介を振り返った。
シュシュの着いた手からつながった手を経て、奈恵は圭介の顔まで見上げていく。端整な横顔は、何度も見たものだが、外でこうして見たのは初めてのようにも思う。
住宅地の駅で、休日の黄昏時でもそれなりの乗降客がある。いろいろな人とすれ違った。
男の人も何人も居たが、圭介ほどにきれいな顔立ちの人には出会わない。せいぜい、中吊り広告に写っている若い俳優あたりが、比肩するくらいだろうか。
通りすがりの女の子が、振り返るかもしれない。圭ちゃんはかっこいいから。
自宅から電車に乗っていた時に、そんなことを考えたことを思い出した。想像の通りで、電車のドアの際に二人で立った時にも、傍らの二十歳くらいの女性がやはり圭介を見ていた。
物ごころがついてから圭介に初めて会ったのはいつごろか、奈恵はあまり覚えていない。印象に在るのは、三年くらい前に彼が家に来た時のことだ。
圭ちゃんがあんまりかっこよくなっちゃったから、この子ったら口もきけなくなっちゃって、と奈恵の母が笑った。そんなことを言わないで、とも、奈恵は言えなかった。そう思ったのだと、圭介に知られることが恥ずかしくて、あのときは居たたまれなかった。
「奈恵、何か飲みたい?」
改札を出たところの自動販売機の前で、圭介が奈恵に言った。
「うん……、何でもいい」
斜めに陽の当たった圭介の顔を、奈恵はまともに見あげられない。口元を抑えて、下を向いた。
(今、ぜったい私ヘンな顔してる)
口元が緩みそうで、頬が熱い。紅くなっていると圭介に知られるのが恥ずかしい。
温かい緑茶を買って、それを持って圭介はまた奈恵を置いて駅の外へと歩き出す。
(待って)
とは、やはり奈恵には言えない。
何々記念の森公園、と名前は付いているが、沿線の住人にとってはただ「公園」といえばここを指す。東京ドームが何個分と言われるくらいの広さがあり、桜の木が多く植えられていて、春には花見客でごった返す。
葉を残す楠の木と、葉を落とした桜と、広々とした芝生の周囲にそんな木々がふんだんにある。通路になっているアスファルトの部分には陸上競技のトラックのようなゴムが敷かれ、スタート地点からの距離が記してあった。
「あのベンチ、空いた」
振り向いた圭介が奈恵の手を掴んで走り出した。
何も走らなくてもいいのに、と思いながら奈恵も足を速めた。
「地べたに座るより、冷たくないだろ」
木でできたベンチは、真昼の太陽の温もりを少し残している。
はあ、と息を切らせた奈恵に、蓋を開けたペットボトルを圭介が差し出してくれた。
「圭ちゃん、もう足は大丈夫なの?」
「普通の事は出来るようになってるよ。少しくらいなら走っても」
駅で圭介が買った緑茶を一口飲み、奈恵が唇を離したペットボトルを横から圭介が取って口元に運んだ。
「サッカーは?」
「……もう少し。結構当たりがあるから、まだ無理はしない方が良いってお医者さんに止められてるところ」
「そうなんだ」
「これ、食べて良い?」
ポケットから、奈恵が作ったクッキーを出して圭介が言った。
「うん。だって、あげたんだよ」
「この、粒々は何?」
「つぶつぶ?」
圭介が差し出したひとかけらのクッキーを見て、
「それはアールグレイだよ。紅茶のクッキーなの。……つぶつぶ、って」
おかしい、と言いながら奈恵は笑った。
「ホントだ。紅茶の味」
「そうだよ」
「ふうん。けっこう美味いよ」
圭介に褒められて、奈恵はうつむいて膝に抱えたバッグを見ていた。頬がむずむずする。
(嬉しいな)
笑い出しそうで、それをこらえるのが苦しいくらいだ。
「ココア味も美味い」
「……うん。そう」
もぐもぐと口を動かしながら圭介が、何度も美味いと言う。嬉しいのに、恥ずかしくなって奈恵は、うん、としか言えない。
そんな奈恵を横目で見ながら、圭介はただクッキーを食べている。
困ったような顔をして下を向いている奈恵を見ながら、次に何を言えばいいのかと考えた。
(褒めたんだけどな)
と思う。クッキーは確かに美味だった。それを、奈恵が作ったのだと言う事に感心しながら、何度も褒めたつもりだった。
うん、と言って俯いた奈恵の横顔の頬が紅い。喜んでいるのかもしれない。
だが、それならもっと喜べばいい。笑えばいい。
「そうでしょ? すごいでしょ?」
そのくらいの事を堂々と言って、自惚れても良いだろう。大きな声で笑っても良い。
そうしたら、きっと一緒に圭介も笑える。
だが奈恵はうつむいている。嬉しいとも言わず、良かったとも言わず、下を向いている。
(どうしてなんだろうな)
圭介には奈恵のそういう仕草が、今ひとつ解らない。もどかしい。
「なあ、奈恵。……下を向くなよ」
「え?」
「クッキー、美味いよ。ありがとう」
下を向くな、と言われて、きょとんとして顔を上げた奈恵の大きな目を見ながら、圭介は言う。
(ああ、また)
圭介の言葉の途端に、奈恵は目を少し潤ませて、唇に手を当ててうつむいた。
「ほら、黙って下を向くのは、なし」
「……うん」
「思ったこと言えばいいのに。何か言えよ」
「あ、でも」
「下を向かない」
キスをするときより少し遠い所に圭介の顔がある。鼻筋が通って、涼しい眼差しと形の良い唇が、均整の取れた位置に収まっている。奈恵の視界いっぱいに圭介が居る。
何か言えと、言って、奈恵を圭介が見ている。
「でも」
「でも、っていうのもなし」
(じゃあ何を言えばいいの?)
逆に、圭介に訊きたくなった。だが、そんなことも解らないのかと言われそうに思って、やはり口には出せない。
「今、なんて思った?」
「何を言えばいいのか、わかんない」
「だから思ったことを、さ」
「うん。だから、わかんない、って思った」
奈恵の見る前で、圭介の端整な顔が笑み崩れた。
「そっか。他には?」
「なんか恥ずかしい……。変な顔してそうで」
「変な顔? してないよ」
笑いながら、圭介がペットボトルの緑茶を飲んだ。
「あと、圭ちゃんの口の端っこにクッキーついてる」
「え、」
「取れた」
奈恵が声をたてて笑う。
慌てたように唇の周りを手ではたいた圭介の仕草が、滑稽で可笑しかった。
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