夜空のダイヤモンド

柊 明日

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3章 夜空のダイヤモンド

35話

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「はぁ。ようやくですね、瀬尾先輩」

 ハーフアップに結ばれた黒い長髪に、月に照らされた銀色のアクセサリーが光る。腰まで伸びたその髪を手の甲で掬い上げた彼女は、大きく息をつきながら髪と同じ色をした長いスカートをなびかせ、ゆっくりと向いた。振り向いたその姿は、僕の記憶にはない新しい彼女の姿だった。
 バイト先では髪は結んで帽子に入れられていたから、ここまで長いことを僕は知らなかった。
赤色に塗られた爪によりあまりに白く映るその手が、もこもこと暖かそうな上着の袖へ潜り込む。彼女はいつもよりアイラインの少し長いその目で、僕をじっと見つめた。返事を求められているのだろう。
 普段と違う彼女の姿に緊張を覚えながらも、僕は彼女とは違いいつも通り、へらっと笑みを作って媚びるように彼女の肩へ手を置いた。

「ごめんね、忙しくて」
「そうですか」

 僕からの接触に驚いた彼女が、一瞬目を丸めるのが見て取れる。
 しかし、返事を聞いた彼女はその内容が求めていたものとは違ったらしく少し口を尖らせながら僕のコートの袖を引いた。よかった、と思う。その少し子供っぽい仕草は見慣れた彼女だったから。
 袖を引かれて入ったお店は小奇麗でいかにも、お皿に少量のソースが塗りつけられて出てきそうなお店だ。少なくとも、僕が詩音くんと来ることは今後もないだろう。出てきた店員さんは、上品に小さく頭を下げて口を開く。しかし。隣の彼女は店員さんよりも先に声を発した。

「あ、予約していた瀬尾ですっ」

 彼女は、瞳を輝かせて僕の苗字を名乗った。握られた袖に、強く力が籠められるのを感じる。
 名乗りを受けた店員さんは予約の確認をすることもなく「お待ちしておりました」と感じの良い笑顔を浮かべ、僕たちを二人用の席へと案内した。
 案内された席の大きな窓からは、夜の街並みが一望できた。もちろん最上階だとかそんな大人なお店ではないけれど、それでも学生が入るにはなかなか勇気を出した方だと思う。
 窓側のソファ席へ彼女を座らせて、僕も向かいの席へ腰を降ろす。コートを脱いでトートバッグと一緒に席の下の荷物入れへ入れてから彼女へ手を差し出すと、彼女もまたそれに甘えて僕へ荷物を差し出した。

「無理言って連れ出しちゃってごめんなさい」

 突然彼女が言った。さっきまでは、いい返事をしない僕に拗ねていたくせに。
 受け取った荷物をしまい込み顔を上げると、彼女は思ったよりも深刻そうに眉を下げて俯いていた。

「んーん。僕もこういうお店、一回来てみたかったんだ。誘ってくれてありがとう」

 しょげた彼女を元気づけるべく、最大限に優しい声を作って目を細める。それでも顔を上げない彼女へわきに置いてあったメニュー表を差し出すと、ようやく彼女は口を開いた。

「カクテル。オレンジのがいいです」
「はいはい」

 差し出していたメニューを開きカクテルの欄を確認する。そこには確かにカンパリオレンジ、の文字があった。

「先輩も飲んでください」
「僕今日車なんだよね」

 言いながら、ソフトドリンクの欄に目を移す。思っていた通り彼女は不満そうに口を尖らせた。

「わざとですよね」
「ふはっ、せやね。帰り送ろうかなって思って」

 それでも相変わらず不服そうな彼女だけれど、今度はフードメニューのページを開いて差し出すとすぐに表情が明るくなった。

「あっ、これ美味しそう。あ、でもこっちも……」
「じゃあ、僕こっちにするからそっちにしぃ? 一口あげるよ」

 彼女は面白いくらいに大きく首を縦に振って、目を輝かせた。



 そうして僕が料理を注文して、バイト先の話や彼女が最近ハマっているらしいお菓子の話など、他愛のない話をして過ごすと体感時間的にはすぐに料理が運ばれてくる。初めに約束の一口をお皿へ分けてあげると、彼女は心底嬉しそうにそれを頬張った。明らかにぐいぐいとアプローチしてくるくせに、かと思えば子供のように口の周りに米をつけたり。本当、女の子というものはよくわからないと思う。
 しばらくすると彼女は料理を食べ終え、真っ赤な顔をしてカクテルのグラスを呷りながら僕を見上げた。

「瀬尾先輩の標準語、なんか違和感すごいです」
「あぁ、ごめんね? イントネーションわかんないんだよね」
「普通でいいのに」

 相変わらず口を尖らせた彼女がせっかくおしゃれにオレンジの刺さったグラスを一気に空ける。自分も家ではこんな感じなんだろうなぁと思うと、いつも一茶が飲むなと僕を叱る意味も分かった気がした。でも。変に飾った人より、見ていてずっと気が楽だ。

「瀬尾先輩っ」と彼女が僕を呼んだ。
「先輩って、彼女とかいないんですか?」

「うん、彼女はいないよ」
 彼氏ならいるけど、と心の中で呟いた。

「もったいないです。こんなに優しくて、かっこよくて、いい匂いして。本当に完璧なのに」

 完璧なら、と僕は思う。こんなところで女の子とご飯を食べたりしていない。お酒を飲んで幼馴染に怒られたりもしないだろうし、そもそも詩音くんの一番にもなれていたはずだ。

「完璧じゃないよ」
 僕は心の底から本気で彼女の言葉を否定する。

「完璧なんです、本当に」
 彼女の声は、少し震えていた。

「ありがとう」

 撫でた髪はひなたよりもずっと、柔らかかった。

 何のために来たのだろう、と思う。幸せになるために来た。詩音くんなんかよりもずっと僕を愛してくれていて、きっとずっと大切にしてくれる。そんな人と過ごせたら、何か変わると思った。
 ひなたは言った。僕に幸せになってほしいと。だから、覚悟を決めようと思った。
 目の前の彼女に流されればよい。こんなにアプローチをしてくれているんだ。あとは僕が頷けばいい。適当に愛の言葉を囁けばいい。なのに。

「もうそろそろ送るよ。奢るから」

 気が付くとそうまた、彼女の好意をなんとなく躱していた。
 彼女は、意外にも今までで一番優しく微笑んでこくんと小さく頷いた。





 彼女の家までの道中、僕たちの間に会話はほとんどなかった。なにか話しかけなくちゃいけないのに、出来なかった。それよりも。帰ったら一茶に怒られるだろうかだとか、綺麗な女の子との食事を詩音くんに羨ましがられるだろうかだとか、そんなどうでもいいことを考えて。
 気が付くと、家に着いていた。

「ねぇ」と彼女が僕を呼ぶ。「今日はありがとうございました」
「あ、うん。……ごめんね」
「ううん。またね、楓くん」

 彼女は初めて、下の名前で僕を呼んだ。
 ひらひらと右手を振る笑顔は本当に無邪気で。それでいて。本当に、痛々しかった。あの晩の、ひなたを思い出した。
 僕はまた、いたずらに人を傷つけた。

 今更そんなことを実感する僕を見て、何かを勘違いしたのだろう。ぷっと噴き出した彼女はニヤリと口角を上げて首を横に振った。

「大丈夫。一回そう呼んでみたかっただけです。じゃ、また」

 そして彼女は、楽しそうに笑いながら車を降りて僕へ大きく手を振った。
 強いな、と思う。僕がもし好きな人に、詩音くんに、振られたらあんなに笑顔でいられない。
 いいや。案外彼女も、同じなのかもしれない。バックミラーで確認できた彼女が目を擦る姿を見て、そう思った。





「ただいま」

 暗い玄関で、ぼそりと呟く。詩音くんへの罪悪感からか、大きく声が出せなかった。しかし、リビングの扉はすぐに開いた。

「楓、どこ行ってたんだよ! 心配してたんだよ!?」

 飛び出してきたのは意外にも詩音くん。珍しく僕に向かって声を荒らげたかと思えば、玄関に立つ僕の腕を引き寄せてそのまま抱きしめた。
 一茶に怒られるのは分かっていたけれど、まさか詩音くんにまで怒られるとは思わなかった。

 気が付けば涙が溢れていた。

「詩音くん、ごめんなさいッ」

 彼の手が僕の頭を撫でる。決して撫でていて楽しいものではないはずなのに、詩音くんはずっとずっと黙って僕の頭を撫でていた。

「何してたのって聞かないん」と僕が言う。
「聞いてほしいの?」と詩音くんは笑った。

 聞かれない方が都合がよかった。
 ひなたの言う通り、幸せになるためにはこの関係は終わらせなくてはいけなかった。なのに。どうしても今だけは、拠り所が欲しかった。

「うん、聞いてほしい」
「そっか。なにしてたの」

 詩音くんは僕の頬へ手を添えて、まっすぐに僕を見つめた。

「女の子と、ご飯行ってました……」

「──そっか」

 詩音くんは、何も変わらない様子でそう言って僕の頬から手を離した。



「楓、バイト伸びてたの? 今からご飯温めるから」

 一茶がリビングから顔を出した。しかし、彼の言葉に重ねて詩音くんが言った。

「あ、楓もうご飯食べてきたって。女の子と」

「は……?」

 一茶の瞳が、分かりやすく俺を睨みつけた。
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